第一章 先輩はバニーガール ⑧

 麻衣は持っていた鞄と紙袋を隅に置くと、ベッドに手をついて腰掛けていた。それとなく紙袋の中を覗き込むと、バニーガールの耳が見えた。今日もどこかで、野生のバニーガールをするつもりだったのだろうか。


「ふ~ん、綺麗にしてるんだ」


 部屋を眺めていた麻衣が、味気ない感想を口にする。


「散らかすほど、物がないだけですよ」

「そうみたい」


 家具と呼べるものは机と椅子とベッドだけ。がらんとしている。


「先輩は……」

「ねえ」


 麻衣が遮るように割り込んできた。


「なんですか?」

「その『先輩』っていうのやめて。君の先輩になった覚えはないし」

「桜島さん?」

「名字は長いでしょ」

「じゃあ、麻衣。……って、うげっ」


 麻衣にネクタイを摑まれて、ぐっと下に引っ張られる。


「『さん』を付けなさい」

「思い切って、ふたりの距離を縮めようと思ったんだけど……」

「私、礼儀のない人は嫌いなの」


 一瞬で、ぴんと張った空気が生まれる。作ったのは麻衣だ。冗談が入り込む余地はない。この、一見お堅いとも思える価値観は、やはり芸能界で培われたものだろうか。


「では、麻衣さん」

「君は梓川ってイメージじゃないし、咲太君って呼ぶから」


 一体、麻衣の中で『梓川』とはどんなイメージなのだろうか。


「それで? 咲太君は私に何を見せてくれるの?」

「手を離してくれないと見せられません」


 麻衣の手がネクタイからぱっと離れる。体を起こした咲太は、解放されたネクタイを緩め、Yシャツのボタンを外した。自然な流れで下に着ていたTシャツも一緒に脱ぎ捨てて、上半身裸になる。


「ど、どうして脱ぐの!」


 声を上げた麻衣は居心地悪そうに、そっぽを向いている。


「な、何もしないって言ったじゃない。フケツ! 変態! 露出狂!」


 罵声を浴びせながら、麻衣が恐る恐る視線を咲太に戻す。

 その途端、麻衣は、


「あ」


 と、純粋な驚きを零した。

 咲太の胸に刻まれた三本の生々しい傷跡。巨大な獣の爪にでも引っかかれたように、右肩から左の脇腹を切り裂いている。

 やたらと大きいミミズ腫れのような跡。目にした瞬間に異常だとわかる。クマに襲われてもこうはならないだろう。ショベルカーの一撃を食らって丁度いいくらいだ。でも、残念ながら咲太はショベルカーと戦ったことはない。


「ミュータントにでも襲われたの?」

「先輩がアメコミに興味があるとは知りませんでした」

「映画しか見てないけどね」

「……」

「……」


 じっと、麻衣が傷跡を見つめてくる。


「本物よね」

「こんな特殊メイクをしているバカがいると思いますか」

「触ってもいい?」

「どうぞ」


 立ち上がった麻衣が、手を伸ばしてくる。指の先が肩の傷口にそっと当たった。


「オゥ」

「ちょっと、変な声出さないで」

「そこ敏感なんで、やさしくお願いします」

「こう?」


 麻衣の指が傷口を撫でていく。


「すごく気持ちいいです」


 表情ひとつ変えずに、麻衣が脇腹をつねってくる。


「いたっ、いたいっ! 離して!」

「喜んでるようにしか見えない」

「ほんとに痛いんですって!」


 無駄と思ったのか、麻衣の指が離れた。


「で? この傷、どうやってついたの?」

「いや、それがよくわからなくて」

「はあ? どういう意味よ。これを見せたかったんでしょ」

「いえ、違います。これはどうでもいいんですよ。気にしないでください」

「気になるわよ。だいたい、違うのなら、どうして脱いだの」

「帰宅したら即着替えるのが習慣なので、つい」


 そう説明しながら、咲太は鍵のかかった机の引き出しに手を伸ばした。中から一枚の写真を取り出して麻衣に渡す。


「これです」

「……っ!?」


 写真に視線を落とした瞬間、麻衣の目は驚きに見開かれた。すぐに険しい表情を作り、咲太に説明を求めてくる。


「なによ、これ」


 写っているのは、中学一年生の女の子。夏の制服では隠し切れない両腕、両足には紫色に変色した痣や、痛々しい切り傷が無数に刻まれている。


「妹のかえでです」


 制服に包まれて見えない腹部や背中にも、同様の傷があったことを咲太は知っている。


「……暴行でもされたの?」

「いいえ。ただ、ネットでいじめられただけです」

「……言ってる意味がわかんない」


 それはそうだろう。妹のいじめに関わった殆どの人間がそういう反応を示した。


「メッセージを既読スルーしたとかで、クラスのリーダー格の女子から嫌われて。クラスメイトが使ってるSNSのコミュニティ内で『最低』だの、『死ね』だの、『キモイ』だの、『ウザい』だの、『学校くんな』だの書かれまくったんです」


 話をしながら、咲太はズボンのベルトを外した。


「そしたら、ある日、かえでの体はそうなったんです」

「ほんとに?」

「最初は僕だって誰かに乱暴されたんだと思いました。でも、その頃はもう学校に行ってなかったし、外に出てなかったんでされようがないんですよ。逆に、かえでが思いつめて自分でやったんじゃないかって疑いました」


 ズボンを脱ぐと、椅子の背もたれに皺にならないようにしてかける。


「『いじめられた自分が悪い』って、自らを責める子はいるらしいわね」


 麻衣はどういうわけか、あらぬ方向を見ていた。


「学校サボってかえでの側にいることにしたんですよ。本当のことを知りたかったんで」

「ねえ、その前にちょっといい?」

「なんですか?」

「だから、どうして脱ぐのよ」


 窓に映った自分の姿を確認する。パンツ一丁。いや、靴下だけは装着している。


「だから、帰ったら着替える習慣なんですって」

「なら、さっさと服を着て」


 クローゼットを開けて、着替えを探す。その間も、咲太は話を続けた。


「えっと、どこまで話しましたっけ?」

「学校サボって、妹さんの側にいたらどうなったの?」

「かえでがスマホでSNSを覗いた瞬間、体に新しい傷が増えたんです。突然、太ももがスパッと切れて。血も出て……書き込みを見るたびに、痣もできて、どんどん増えていきました」


 あれはまるで、心の痛みが体に刻まれていくのを見ているかのようだった。


「……」


 麻衣はどう受け止めればいいか、悩んでいる様子だった。


「今の話が、思春期症候群が実在すると、僕が信じる理由です」

「……にわかには信じられないけど、こんな写真を用意してまで、作り話をする理由はないわね」


 麻衣が返してきた写真を受け取り、咲太は机の引き出しに入れて鍵をかけた。


「その胸の三本傷もそのときに?」


 小さく頷く。


「人間業じゃないもの」

「ただ、なんでこの傷がついたのかはさっぱりわからないんです。朝起きたら血まみれで、病院に運ばれて……死ぬかと思いました」

「もしかして、それが病院送り事件の真相?」

「ええ。僕が病院に送られたんです」

「話がまったく逆じゃない。ほんと噂は当てにならない」


 ふう、と麻衣が吐息をもらして、一度座り直した。

 そこで、突然ドアが開き、「にゃ~」と三毛猫のなすのが部屋に入ってきた。遅れて、


「お兄ちゃん、いるんです……か?」


 と、ドアの隙間からパンダのパジャマを着たかえでが顔を覗かせる。


「え?」


 困惑の声。

 咲太の部屋には、パンツ一丁の兄と、ベッドに腰を下ろした年上の女性がひとり。


「……」

「……」

「……」



 三つの沈黙。三者の視線が一瞬で絡んだ。猫のなすのだけは無邪気に咲太の足元にじゃれついている。

 最初に行動に出たのは、かえでだった。


「ご、ごめんなさい!」

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