第一章 先輩はバニーガール ⑨
謝りながら、一旦部屋を出る。でも、すぐに再びドアの隙間から中の様子を窺ってきた。何度か咲太と麻衣を見比べたあとで、咲太に対して、「こっちこっち」と手招きをしてくる。
「なんだ?」
なすのを抱き上げつつ、かえでに応じる。ドア口に立つと、背伸びをしたかえでが、両手で口元を隠しながら耳打ちをしてきた。
「デ、デリバリーな玄人のお姉さんを呼ぶなら、先に言っておいてください!」
「かえで、お前は壮大な勘違いをしてるぞ」
「デリヘル嬢と制服プレイにご満悦という状況以外に、何があるんですか!」
「一体、どこでそんな言葉を覚えたんだか」
「一ヵ月くらい前に読んだ小説に、そういうお仕事のお姉さんが出てきたんです。哀れな男性を天国へ導く素敵なお姉さんだって」
「ま、解釈は人それぞれでいいけどさ。普通、この状況を見たら、兄が彼女を家に連れてきたんだという発想になるんじゃないか?」
その方がよっぽど自然だと思うだのが……。
「そんな最悪の事態は想像したくないです」
「最悪って、妹よ」
「最悪は最悪です。地球が滅びるくらい最悪です」
「よし、ならば僕は地球を滅ぼす覚悟で、彼女を作るぞ!」
「ねえ、そろそろ話を進めてもいい?」
麻衣に声をかけられ、部屋の中へと向き直る。その際、かえでが背中にくっついてきた。咲太の右肩に両手を添えて、咲太の背中に身を隠しながら麻衣をちらちらと見ている。ただ、背が高いせいか、あまり上手に隠れられてはいない。麻衣から見たら、結構はみ出しているんじゃないだろうか。
「お兄ちゃん、壺を買わされていませんか?」
「ないな」
「絵画を見に行く約束はしてませんか?」
「してないよ」
「英会話の教材を……」
「勧められていないから安心しろ。デート商法に引っかかっているわけじゃない。この人は、学校の先輩だ」
「桜島麻衣です。はじめまして」
麻衣に声をかけられたかえでは、肉食獣から逃げる小動物のような俊敏さで咲太の陰に身を引っ込めた。そして、背中に口を付けると、震動で何か伝えてくる。
「えと、『はじめまして、梓川かえでです』だ、そうです」
「そう」
「『この子は、なすのです』だ、そうです」
抱き上げた猫を麻衣によく見せる。「にゃ~」と鳴いたなすのの胴は、だら~んと伸び切っていた。
「教えてくれてありがと」
麻衣の声に反応して、一瞬だけかえでが顔を出す。けれど、咲太の腕の中から、なすのを奪うと、すぐに脱莵のごとく部屋から逃げ出してしまった。ばたんとドアが閉まる。
咲太の前では、色々としゃべってくれるのに、他人に対してはいつもこうだ。以前、佑真が遊びに来たときにも、咲太を間に挟まないと会話が成立しなかった。
「すいません。極度の人見知りなので許してください」
「気にしてない。あとで妹さんにもそう伝えておいて。傷はちゃんと治ったみたいでよかったわね」
不思議なことに、傷跡も綺麗に消えている。それは本当によかったと思う。女の子なんだし。それなのに、どうして咲太の傷は消えないのか、その点についての疑問は残っているのだが……それは、今考えることではないので、咲太は麻衣に集中することにした。
麻衣は後ろに寄りかかるように手を突いて、足を組み直している。
「でも、私のこと知らないなんて珍しい子ね」
「それは……あんまTV見ないから」
「ふ~ん」
納得したようなしていないようなどっちつかずの表情。
「で、話を戻しますけど……麻衣さん、帰りがけに言ってた『誰も私のことを知らない世界に行きたい』っていうのは、どこまでが本心?」
「百パーセント」
「ほんとに?」
「……のときもあれば、クリームパンを食べられないんだとすると、それはそれで考えものよねって、今みたいに思うときもある」
麻衣は鞄からクリームパンを出すと、両手で持って小さくかぶりついた。
「真面目に聞いてるんですけど」
「……」
もぐもぐと麻衣が咀嚼している。
十秒ほど待って、きちんと飲み込んでから、
「真面目に答えたわよ」
と言ってきた。
「そのとき次第で、気分なんて変わるでしょ?」
「ま、そうだけど」
「じゃ、私から質問。なんでそんなこと聞くの?」
咲太の目は自然とドアを映していた。見ていたのはすでにいなくなったかえでの姿。
「かえでの場合、ネット環境から距離を置くことで、一応、事態は収まりました」
SNSのコミュニティも見ない。掲示板も閲覧しない。グループメッセージのやり取りもしない。かえでのスマホは解約して、咲太は海に投げ捨てた。パソコンだってこの家にはない。
「『一応』ね」
「診察してくれた医者は、『お腹が痛いと思っていたら、本当に痛くなった』というやつと同じなんじゃないかって言ってました。あくまで、傷自体はかえでが自分でつけたものだと決めつけてましたけどね……」
その医者の話を全部受け入れたわけではないが、説明に関しては、納得できる部分もあった。友達からの悪口が辛くて、心がずたずたに引き裂かれて、それが肉体に傷として現れた。側でかえでを見ていてそうとしか思えなかったし、精神状態が体調に影響を及ぼすという感覚は理解できる。嫌だと思うことがあれば、体は元気ではいられない。嫌いな食べ物を見ただけで吐きそうになったり、プールの授業が嫌で熱を出したり……その程度の経験は誰にだってあるだろう。
だから、事態の程度こそ全然違っても、『お腹が痛いと思ったらうんぬん』の話は、咲太の耳には的を射ているように聞こえたのだ。
「それで?」
「要するに傷ができる理由は、かえでの思い込みだったって解釈なんです」
「それはわかった。で、それが私の場合にも当てはまるって言いたいわけ?」
「だって、麻衣さん、学校では見事に『空気』を演じてるじゃないですか」
「……」
麻衣の表情は変わらない。咲太の指摘にわずかな興味を覗かせながらも、瞳の奥で、「それで?」とだけ語り、咲太を素っ気無く促してくる。こんな芸当、普通の人間にはできない。
「ま、だから、これ以上状況を悪化させないように、麻衣さんは芸能界に戻るのがいいと思うっていう話です」
咲太はあっさり視線を逸らして、あえて軽い調子でそう告げた。妙な駆け引きに付き合う必要はない。同じ土俵で戦っても勝ち目はないのだ。
「なによ、それ」
「TVで目立ちまくれば、いくら麻衣さんが上手に空気を演じても、周囲が放っておかなくなるでしょ。活動休止する前みたいに」
「ふ~ん」
「それに、麻衣さん的にもやりたいことができて万々歳だろうし」
ちらりと様子を確認しながら、咲太は最後の言葉を口にした。
「……」
ぴくりと麻衣の眉が動いた。よく見ていなければ気づかない程度のごくわずかな変化。
「なによ、私のやりたいことって」
口調はあくまでさばさばしている。
「芸能界に戻ること」
「いつ、私がそんなこと言った?」
はあ、とため息を吐いて呆れたという態度を取る。でも、それは演技だと咲太は思った。
「興味がないなら、どうして電車の中で、映画の吊り広告を恨めしそうに見てたんですか?」
すかさず咲太は鋭く切り込んだ。
「あれは好きな小説の映画化だったから、少し気になっただけよ」
「ヒロインは自分が演じたかったってことではなくて?」
「しつこいわよ、咲太君」
余裕の笑み。麻衣の仮面は剝がれない。
それでも、諦めずに咲太は続けた。
「したいことはすればいいと僕は思う。その実力もあって、実績もあるんだし。その上、復帰を望んでいるマネージャーさんもいるなら何の問題もないでしょ」
「……あの人は関係ない」



