第二章 仲直りの代償 ⑤
ワイドショーでアシスタントをしているし、芸能ニュース系の取材を文香が行っているのは知っている。
「……」
きょとんとした顔を文香は向けてきた。どうして、咲太が『桜島麻衣』のことを聞いてきたのか、疑問に思っているようだ。でも、それはすぐに別の感情に置き換わる。
咲太がそんなことを聞いてきたことに対する興味だ。
ただし、文香はそれを表情には出しても、あえて聞いてはこなかった。
「少なくとも、一般人が知らないようなことを私は知ってると思うわよ」
「そうですか」
「で? これは子供としてのお願い? それとも大人同士の対等な取り引き?」
「子供扱いはやめてください」
「そう。だったら、タダでは教えられないけどいいのね?」
「写真、一枚でいいのなら」
「ふふっ、交渉成立ね」
何かスイッチを切り替えるように、文香はいじっていたスマホを鞄に戻した。その文香の視線に促され、咲太は大人同士のテーブルに着いた。
九時までバイトに勤しんだ咲太は、途中コンビニに寄ってから帰路についた。人通りの少ない住宅街を通り、十分ほどとぼとぼと歩いて住んでいるマンションに到着する。
エレベーターで五階までノンストップで上がると、部屋のドア付近に、誰かがいることに気づいた。
壁を背に座り込んでいるのは、峰ヶ原高校の制服を着た麻衣だ。体育座り。それも、両膝と太ももはぴったりとくっつけて、膝下だけ開いた女の子体育座りだ。下のオートロックは、誰かをストーキングするなりして、中に入ったのだろう。
側まで行くと、恨めしそうに麻衣が見上げてきた。
「やっと帰ってきた」
「バイトだったんですよ」
「どこで?」
「駅前のファミレス」
「へ~」
「麻衣さん」
「なによ」
まずは「パン」と手を叩く。「ツー」とピースサインを続けて、「丸」っと頭の上に両手で円を作った。最後に、親指と人差し指をくっつけて眼鏡を作り、自分の顔に持っていく。もちろん「見え」という意味だ。
「それ、何の遊び?」
バカにしたような目。どうやら、黒のタイツ越しに、純白のパンツが見えていることに、まったく気づいていないようだ。無防備すぎる。
仕方がないので、
「パンツ丸見え」
と、はっきり指摘してあげた。
はっとなった麻衣が、自分の下半身を確認するように俯く。
「べ、別に年下の男の子に下着を見られるくらいなんでもない」
とか言いながら、股の間に腕を挟むようにして、スカートの真ん中をそれとなく下に引っ張っていた。あからさまに見えているより、むしろ、隠そうとしている姿の方がエロく感じるのはどうしてだろうか。
「顔真っ赤なのに?」
「そ、それは、興奮してるから!」
「うわっ、ここにも痴女がいた」
「誰が痴女よ!」
じっと、麻衣が睨んでくる。
「ま、とりあえず、立てばいいと思います」
そっと麻衣に手を差し出す。
触れそうなところまで伸びてきた麻衣の手だったが、まだ仲直りをしていないことでも思い出したのか、急に引っ込んだ。「ふんっ」と鼻を鳴らしながら、麻衣は自分で立ち上がる。
「なにを握ったかわからない男の子の手なんて、触りたくない」
勝ち誇ったような笑みを麻衣が浮かべる。なんだか楽しそうだ。でも、その優越感は長くは続かなかった。「ぐぅ」と腹の虫が鳴いたのだ。
「……」
「……」
「オナカヘッタナー」
棒読みでフォローしておく。
「性格悪い」
「まあまあ自覚してます」
咲太は帰りに寄ったコンビニの袋から、クリームパンを取り出した。
少し迷ったあとで、麻衣の手がゆっくりと伸びてくる。なんだか野良猫にエサでもあげている気分だ。
麻衣は包みを開けて、クリームパンにかぶりついた。
「いつから腹ペコキャラに転身したんですか」
「……」
無言での咀嚼が続く。
きちんと口の中身を飲み込んだあとで、
「買い物ができないの」
と、まるで咲太のせいだと責めるような口調で言ってきた。
「あー、そっか」
他人からは姿が見えないから、麻衣は会計を通ることができないのだ。前に駅の売店でパンを買おうとして、おばちゃんにスルーされる様子を目撃している。あれは、かわいそうになる光景だった。
「この二週間で、どんどん見えないところが多くなってきてる。藤沢駅の周辺はもう全然ダメ。ネットで買い物しようにも、受け取りができないんじゃ同じだし」
「じゃあ、上がっていきますか?」
咲太はポケットから鍵を取り出し、ドアを指差した。
「食べ物、恵んであげますよ」
「その言い方」
じっと麻衣が睨み付けてくる。残念ながら少しも怖くない。むしろ、かわいいくらいだった。
「では、ご馳走します」
「嫌よ。こんな時間に男の子の部屋に上がったら、何をされてもいいって言ってるようなものじゃない」
「なるほど、それが麻衣さんのオッケーサインか。覚えておこう」
「忘れなさい」
麻衣が頭にチョップを落としてきた。
「あだっ」
「バカ言ってないで、いいから買い物に付き合って」
「あ、なら少し待ってください。妹に帰ったこと伝えてくるんで」
「わかった。下で待ってる」
鍵を差し込んだ咲太に背を向けて、麻衣はエレベーターの方へと歩き出していた。
咲太の帰りを待っていたかえでの説得に十五分。その後、十五分待たせた麻衣をなだめるのにまた十五分。移動時間十分を要して、ようやく咲太は麻衣と駅の近くにあるスーパーにやってくることができた。夜の十時をとっくに回っている。
十一時まで営業している店内には、まだそれなりの客足があった。若いスーツ姿の男性客がちらほらいる。ひとり暮らしで、仕事帰りに寄っているのだろうか。
咲太も日常的に利用しているスーパーだけど、この時間帯に来ることは滅多にない。だから、なんとなく新鮮な気持ちだった。
そして、それ以上に新鮮なのは、ひとりではないということ。一緒にいるのが、あの桜島麻衣であるということだ。
食材を選びながら少し前を麻衣が歩いている。後ろからカートを押してついていくのは、なんだかとても楽しい。自然と顔が緩む。
「この絵面は、完璧にカップルだよなぁ」
「なにか言った?」
両手ににんじんを持った麻衣が振り向く。
「いえ、なにも」
「大丈夫よ。どうせ周囲の人に私は見えてないから」
どうやら、本当は聞こえていたようだ。
「これからはじめてのお泊まりで、彼女が手料理を振る舞ってくれるシチュエーションだと思うんだけどなぁ」
「バカな妄想ばかりしてるとバカになるわよ」
呆れた様子で、右手のにんじんを棚に戻している。
「じゃあ、真面目な話」
「本当でしょうね」
まったく信用されてないのが口調でわかる。
「今、麻衣さんが握っているにんじんは、麻衣さんのことが見えてない人にはどう見えているんですか? 浮いてる?」
「見えないみたいよ」
すでに実験済みなのか、麻衣はきっぱりと言い切った。
その上で、通りかかったサラリーマンの顔の前に、にんじんをぶら下げる。サラリーマンは無反応だ。
「ほらね」
「みたいですね」
「前に、カゴに買うもの入れてレジまで持っていったけど、それもダメだったし。だいたい、洋服も一緒に見えなくなってるわけでしょ?」
言われてみればそうだ。体だけが透明になっているのとはわけが違う。
「もしかして、私が触れたものは見えなくなるのかしら」
「その理屈なら、地球が見えなくなってるでしょ」
「スケールの大きなこと考えるわね」
「僕はデカイ男なんですよ」
「はいはい」
あっさり流されてしまった。
「でも、だったら……僕が麻衣さんに触れたらどうなるのかな?」



