第二章 仲直りの代償 ⑥

「それは私と手を繫ぎたいという遠回しのアピール?」

「いや、あくまで実験」


 触れるだけでいいのなら、すでに経験している。以前、麻衣を部屋に上げた際に、胸の傷を咲太は触られたのだ。電車の中で、「妊娠しそう」と肩を押されたこともある。

 でも、咲太の姿が見えなくなるなんて現象は起こっていない。たぶん、今カートに入れられたにんじんや他の食材も、咲太がレジに持っていけば普通に買うことができると思う。

 どちらかと言えば、触れている間はどうなるのかを知りたかった。


「そんな理由なら繫いであげない」


 麻衣はすたすたとお肉のコーナーに足を運ぶ。


「実験というのは照れ隠しで、ほんとは麻衣さんと手を繫ぎたいだけなんです」


 様子を窺いながらそう背中に声をかける。


「それで?」


 肩越しに振り向くと、麻衣が楽しそうに微笑んだ。


「女子と手すら繫いだことのない僕のはじめてをもらってください」

「若干、気持ち悪いけど……ま、合格にしてあげる」


 咲太が追いつくのを待って、麻衣が隣に並ぶ。その直後、右半身に人肌のぬくもりがかぶさってきた。麻衣が腕を絡め、咲太の右腕にしがみ付いてきたのだ。

 さすがに驚いて、心臓が跳ね上がった。

 背の高い麻衣の顔は、すぐ真横にあって、まつ毛の一本一本を数えることもできそうなくらいに近い。


「……」


 時間が経つにつれて、やわらかい胸の感触も明確に実感した。バニー姿のときに確認済みではあったけど、線の細い体型をしている割には、出るところはきちんと出ている。

 ほんのりといい香りもした。頭がくらくらする。


「今、エロいこと考えてるでしょ」

「麻衣さんの想像の百倍はエロいこと考えてる」


 本当のことを言うと、麻衣がぱっと離れた。


「でも、大人の麻衣さんは、それくらい平気だよね」

「そうね。年下の男の子にエッチな妄想をされるくらい、な、なんでもない」


 意地になった麻衣がさらに強く腕にしがみ付いてきた。


「うはっ」


 思わず、変な声が出る。

 そのせいで、近くにいたサラリーマンから訝しげな視線を向けられた。目が合う。確実に咲太のことは見えているようだ。でも、桜島麻衣の存在に気づく素振りはない。やはり、見えていないらしい。


「あのさ、麻衣さん?」

「まだ不満?」

「ごめんなさい。僕の負けです。これ以上はある事情から歩きづらくなるので許して欲しいなあ」

「人を散々挑発した罰よ」


 麻衣は面白がって離れてくれない。だんだんこの手のやり取りにも免疫がついてきてしまったようだ。

 とは言え、麻衣の行為は罰でもなんでもなくて、おいしすぎるご褒美でしかなった。


「あ、そうだ。今思い出したんだけど、僕たちケンカ中でしたよね?」

「それもそうだったわね」


 す~っと笑顔をしまった麻衣は、つまらなそうな態度で咲太から離れた。この変わり身の早さには驚かされる。本気なのか、演技なのか、全然見分けがつかない。

 ちょっともったいないことをしたと思いながらも、麻衣との買い物はその後も十分楽しく続いた。


 一抹の不安を残した会計だったが、咲太が持ち込んだ食材は、すべて無事にレジを通過することができた。普通にお金を払ってレジ袋に買った野菜や肉やお菓子を詰め込んでいく。

 ふたつの袋は両方とも咲太が持って、スーパーを出た。

 帰り道を麻衣と並んで歩く。とは言っても、どこへ帰るのか咲太は知らないのだが……。


「麻衣さんって、どこに住んでるんですか?」


 藤沢駅で買い物をする以上、駅から徒歩圏内なのは間違いないだろう。


「地球」


 淡々とそう言われてしまい、咲太は麻衣に誘導されるまま、大人しく隣を歩くことにした。今のところ、進路は咲太の住むマンションと同じ方角を向いている。


「麻衣さんの家、楽しみだなあ」

「入れないわよ」


 きっぱりとした拒否。目も真剣だ。


「えー」

「子供みたいな声を出さないの。だいたい、私たちケンカしてるんでしょ?」

「あれは、麻衣さんが素直じゃないから」

「はぁ? 私がいけないって言うの?」

「演技の仕事、したいなら続ければいいのに」

「余計な口を挟まないで」


 静かだけど凄みのある声。拒否よりも強い拒絶。冷たく咲太を拒んでいる。


「僕が何も知らないからですか?」

「そうよ。何も知らないくせに口を挟むな」

「でも、残念。知ってますよ。麻衣さんが活動休止を決めた理由くらい」

「はいはい」


 バカにしたように麻衣が笑う。


「中三のときに出した写真集が原因なんですよね」

「っ!?」


 咲太の言葉を境に、麻衣の表情から余裕が消えた。


「『水着は絶対にNG』って条件だったのに、あった方が絶対に売れるからって、マネージャーだった母親が勝手に契約しちゃったとか」


 それまで、雑誌のグラビアでも水着はやっていなかった。それでも十分すぎる需要を誇っていたのだ。むしろ、肌を見せないことで特別な立場を確立していた。美少女という看板だけで十分だった。


「その件で、母親と大喧嘩になって、母親が一番ショックを受ける『芸能活動の休止』ってやり方で、麻衣さんは仕返しをした」

「……」

「けど、そんなのふざけてる」

「うるさい……」

「一緒に自分の欲しいものまで投げ捨てたんじゃ、意味ないし」

「うるさいな!」

「いや、麻衣さんの方がうるさいし。近所迷惑なんで静かに……」


 言っている途中で、平手打ちが左の頰へ飛んできた。「ぱんっ」と乾いた音が鳴り響く。


「私だっていっぱい悩んで決めたの!」

「……」

「まだ中学生だったのよ!? なのに、スタジオに入ったら水着がいきなり用意されてて、周りには大人しかいなくて……もう契約したからって言われて、嫌で嫌で仕方がなかったのに、仕事だからって言われたら、やるしかなくて……無理やり笑顔を作るしかなかった!」


 もっと平凡な日々の中にいたら、「嫌だ」とわがままを通せたのかもしれない。駄々をこねて断ることができたのかもしれない。だけど、彼女は桜島麻衣で、桜島麻衣は六歳から芸能界でプロとして仕事をしてきた。大人たちの中で……。

 現場に迷惑をかけることは、許されなかった。空気を読んで、利口な判断をしなければならなかった。子供なのに、大人のふりをしなければならなかった。


「結局、あの人は私を使って、お金儲けをすることしか考えてなかったのよ」


 吐き出された感情は刺々しくて、濁った色をしていた。だからこそ、一番の理由はそれなんだと咲太は気づいた。自分を商品としてしか見ていなかった母親への反発。

 その気持ちがわかるとは言わない。咲太にはさっぱりわからない。わからないけど、ひとつだけはっきりしていることはある。


「だったら、なおさら芸能界に戻るべきだと僕は思う」

「どうしてよ」

「それだけ嫌な想いをしたのに、麻衣さんが未だに嫌な想いをしてるから」

「えっ……」

「やりたいなら我慢なんてしなければいい。やればいい。そんくらいは僕にだってわかるんだから、麻衣さんだって本当はわかってるはずだ」

「……」


 かっとなった熱を冷ますように、麻衣が俯く。


「……」


 たっぷり十秒ほどの沈黙をおいて、


「叩いてごめん」


 と小さな声で、謝ってきた。

 今さらのようにじわじわと痛みが頰を熱くする。


「荷物で両手が塞がっている相手を普通殴るかな」

「これでも、グーはやめたのよ」

「……アリガトウゴザイマス」


 棒読みで今の想いを素直に告げる。


「全然、感謝の意を感じない」

「そりゃ、平手打ち食らったの僕だし。あ~、いたい。いたいなー」

「大げさ」

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