第二章 仲直りの代償 ⑦
「痛くて泣きそうだなぁ。美人でやさしい先輩に撫でてもらわないと治らないかもなー」
「自業自得」
「え、どの辺が?」
この件に関して、咲太に非はないと思う。
「わざと私を怒らせるような言い方をしていたのは、どこの誰かしら?」
不機嫌な麻衣の目が、咲太を吊し上げてくる。
「なんのこと?」
今さらとぼけても遅いが、ここで認めるわけにもいかない。
「感情的になれば、私が本音を言うと思って、誘導したんでしょ?」
「滅相もない」
「ほんといい性格してる」
麻衣の手が伸びてきて咲太の頰に触れる。撫でてくれるのかと思ったら、やんわりとつねられた。叩かれていない右の頰も同様に摘まれて、左右に引っ張られる。
「いたたたっ」
「それはそうと咲太君」
すっかり自分を取り戻した麻衣が、詰問の目を向けてくる。
「私の活動休止の話、誰に聞いたの?」
「……」
それとなく視線を空へと逃がした。
「目を逸らすな」
指に力が込められる。
「いたたた」
「で、誰に聞いたの?」
さすがに黙ってやり過ごせる雰囲気じゃない。ごまかしも通用しないだろう。一般人が知っている情報でないことは、麻衣自身が一番よくわかっているはずだ。なんたって、今日まで明るみに出ることはなかった情報なのだから。
「かえでの事件のとき、いじめの取材に来たアナウンサーの知り合いがいて」
「誰?」
「南条文香っていう……」
「ああ、あの女」
「知ってるんですか?」
「お昼のワイドショー番組で長くアシスタントしてるでしょ。私もお世話になったことある」
お世話というのはもちろんいい意味で言っているわけではない。
「それがなんで今も付き合いがあるわけ? 妹さんの件は二年も前じゃない」
「あ~、え~」
「言いなさい」
「取材のとき、彼女だけは思春期症候群に少し興味を持ったんですよ。僕の胸の傷も見たことがあって。で、時々、そっちの取材に応じてほしいって顔を出すんです」
ちなみに、麻衣のことに関しては、「ある程度、憶測も混ざっちゃうけどいい?」と言っていた。表沙汰にならないように、色々なところで圧力がかかっていたらしいのだ。
「ということは、咲太君は私の情報を得るために、何かあの女に話したでしょ」
麻衣は鋭いところを突いてくる。
「いえ、何も」
心臓の高鳴りを押さえつつ、平然と咲太は答えた。
「噓。あの女、妙に報道記者ぶったところがあったし、そもそもマスコミの関係者が情報をタダで渡すわけがない。何かの取り引きをしたはずよ」
TV業界の事情に関しては、麻衣の方が一枚も二枚も上手のようだ。これは、さすがに噓で押し通せる相手じゃない。沈黙も許してはくれないだろう。観念して咲太は白状することにした。
「写真ですよ。胸の傷を一枚」
トイレの個室にふたりで入って撮影したことはさすがに黙っておく。甘い香水の香りにやられて、ちょっとエッチな気分になったことは、絶対に言わない方がいい。
「バカ」
「酷いなぁ」
「ほんとバカ。なに考えてるのよ!」
すごい剣幕で感情をぶつけてくる。本気で怒っているのが伝わってきた。
「そりゃあ、麻衣さんのことを」
「……」
「ほんとなんだけど」
ちょっとこわくて目を見られなかった。脇に視線を逸らす。
「はぁ……」
呆れたのか、脱力した麻衣の手がだらりと落ちる。ようやく咲太の頰は解放された。でも、まだ突っ張った感じがする。
「傷のことで、咲太君が嫌な想いをすることになるのよ。妹さんに害が及ぶかもしれないのよ」
麻衣は真剣な目をしていた。
「かえでのことは伏せてます」
「二年前にいじめの取材をしてるなら、妹さんのことに関しても、何か気づいている可能性は高いでしょ?」
「ま、それは仕方ないというか」
「はい」
何かを要求するように、突然麻衣が手を出してきた。その意図が汲み取れなかったので、荷物を片手にまとめてから咲太はお手を返した。
でも、触れる前に叩き落とされる。
「あの女の連絡先をよこしなさいと言ったのよ」
「言ってたかなぁ?」
記憶を遡っても一言もそんなことは言っていない。
「流れで察しなさいよ」
「麻衣さん、女王様すぎ」
「咲太君はTVなめすぎ。迂闊にもほどがある。マスコミが興味を持てば、取材で囲まれるわよ? それを想像して。家にもカメラが張り付くの」
言われた通り、想像力を総動員してイメージする。不祥事を起こした人間に対する世間の目の厳しさ、たかれるフラッシュ、ぶしつけな質問の数々……過去に見たことのある映像を自分に置き換えて繫ぎ合わせていく。
「……」
ごくりと咲太は喉を鳴らした。
「……気分悪いです」
血の気が引いていく。
「現実になったらその百倍は気分悪い」
麻衣の追い討ちは痛烈だった。今さらのように、咲太は取り返しのつかないことをしたのかもしれないという思いに駆られた。妙に背筋が寒い。
「もっと、慎重に行動しなさい。いい?」
苛々しながらも、麻衣からは嫌な空気を感じなかった。怒られているのに、なんだかそこにはあたたかさが宿っている。それはたぶん麻衣が本当に心配してくれていて、叱ってくれているからなんだろうと咲太は気づいた。
「返事は」
「はい、わかりました。気を付けます。けど、もう写真は……」
「だから、はい」
麻衣が再度手を出してくる。
「連絡先くらい知ってるんでしょ?」
今日もらった名刺を財布から抜き取り、咲太は麻衣に渡した。
まず表を見て、それからすぐに裏返す。
「手書きでケータイ番号とか、やらしい」
なぜだか、咲太が責められる。
「僕は確かに年上好きだけど、おばさんに興味はないですよ」
「ふ~ん」
不機嫌なまま、麻衣はスマホに番号を打ち込んでいく。
「って、麻衣さん、どうする気?」
「黙ってて」
麻衣はスマホを耳に当て、するりと咲太に背中を向けた。すぐに電話は繫がったらしい。
「突然、失礼します。以前、お仕事でお世話になったことのある桜島麻衣と言います。悪戯ではないので切らないでください。……ええ、はい。その桜島麻衣です。ご無沙汰しています。今、お時間よろしいでしょうか?」
てきぱきと麻衣が話を進めていく。
「今日は、梓川咲太君の件でご相談があり、ご連絡差し上げました。彼、高校の後輩なんです。ええ、はい……」
落ち着いた口調で電話口に語りかける麻衣は、妙に頼もしくて大人に見える。
「彼の胸の傷の写真、公開するのはやめていただきたいんです。できれば、専門家などに意見を求めるのも控えてほしいと思っています。……はい、当然、タダでとは言いません。その代わりになるスクープを私が提供します」
「ちょ、ちょっと、麻衣さん!」
一体、麻衣は何を言うつもりだろうか。逆に、自分を売るつもりなんじゃないかと思って、咲太は慌てた。
肩越しに振り向いた麻衣は、「し~」と子供にするように、唇に人差し指を当てる。
「ええ、承知しています。相応の情報をご用意してありますのでご安心ください」
再び、咲太に背中を向けた麻衣はさらに言葉を続けた。
「近々、私は芸能活動を再開します。その際、御社と南条さんの独占取材を確約します。……ええ、もちろん、それだけでは話題性として弱いことは承知しています。でも、これを聞けば、納得していただけると思います」
そこで一度間を空ける。それから、用意していたのであろう言葉を麻衣は口にした。
「母の事務所へは戻りません。復帰は別の事務所からになります」



