第二章 仲直りの代償 ⑧
たぶん、ここまでの話の流れを聞いて、南条文香以上に、咲太の方が驚いていたと思う。つい先日も、ついさっきも……その件でケンカをしたばかりなのだ。復帰を勧める咲太と、反発する麻衣という構図で……。なのに、麻衣は今なんと言っただろうか。復帰すると言ったのだ。これに驚かずに、何に驚けばいい。
「南条さんの常識を世間に疑われるような梓川君のネタよりも、よっぽど即効性があっていいと思いますがいかがでしょうか。よろしくご検討ください」
それからしばらくは、「ええ」とか「はい」とか「わかりました」とか、文香の確認に応じている様子だった。
「では、交渉は成立ですね。今後ともよいお付き合いをさせてください」
最後まで丁寧に応対して、麻衣は電話を切った。
すぐに咲太を振り返る。
「そういうわけだから」
「すいません」
「なんで謝るのよ」
「ありがとうございます」
「しゅんとしていれば、咲太君もまあまあかわいいわね」
今回ばかりは軽口も出てこない。完全に頭が上がらない。カメラに追い回される自分を想像したときの寒さはもうどこにもない。安心感に満たされている。それをくれたのは、間違いなく麻衣なのだ。
「でも、芸能界復帰って」
しかも、事務所を移籍するとか言っていた。
「咲太君の言った通りだと思ったのよ」
認めたくはないのか、口を尖らせている。
「ドラマや映画の仕事は好きだったし、やり甲斐もあって楽しかった。ずっと続けたいと思ってた。そういうやりたい気持ちに噓を吐き続けても仕方がないってね……悪い?」
「悪い。無茶苦茶悪い」
「な、なによ、ここは許してくれる流れでしょ」
「この二週間、散々人のこと避けまくっておいてどの口が言うかな」
「今助けてあげたじゃない」
「それはそれ、これはこれ」
「うっ……意地を張って悪かったわ。ごめんなさい。これでいい?」
少し悔しそうにしながらも、非を認めて麻衣が謝ってくる。
「もう一声」
「許してください。反省してます」
「上目遣いでしおらしさがプラスされたら完璧かな」
「調子に乗るな」
むぎゅっと、麻衣が鼻を摘んでくる。
「うわっ、なにするんですか」
いつもと違ったくぐもった声がもれる。それを聞いて、麻衣は「おかしい」と言って笑い出した。
このときになって、咲太は今さらのように気づいた。今日、麻衣が何をするために咲太の家の前で待っていたのか。
麻衣は、芸能界復帰を伝えるためにやってきたのだ。
咲太が文香から事情を聞くとか関係なく、麻衣は麻衣のことを自分で決めていたのだ。
それがなんだか悔しい気もしたが、咲太の気持ちは晴れやかだった。
「世界なんて勝手に回ってんだよな」
「なにか言った?」
「独り言です」
並んで再び歩き出す。その足取りは、先ほどまでより格段に軽い気がした。あとは、麻衣の決心によって、思春期症候群がなくなれば言うことはない。
三分後、
「ここよ」
と言って、麻衣が止まったのは、咲太が住むマンションの前だった。
「え?」
「ああ、こっちだけど」
麻衣が指差したのは、お向かいのマンションだ。前に近いから送らなくて平気と言っていたが、まさかここまで近いとは驚きだ。今日、一番驚いた。芸能界復帰宣言よりもびっくりだった。
「荷物、ありがと」
咲太の両手から麻衣がレジ袋を奪っていく。残念ながら本当に部屋には上がらせてもらえないらしい。
「そうだ、咲太君」
「なんですか、女王様」
「週末、付き合いなさい」
うっかり女王様とか言ったせいで、続いた麻衣の台詞が妙にはまってしまった。
「復帰したら、忙しくて遊んでる余裕もないだろうし。こっちに二年も住んでるのに、私、鎌倉にも行ってないの。おかしいでしょ? だから一度くらい行きたいのよ」
「そんな簡単に仕事って取れるんですか?」
懐疑的な視線を向ける。すると麻衣は平然と、
「私、桜島麻衣よ」
と言ってのけた。
これが傲慢に聞こえないのがすごい。いっそ清々しいくらいだ。それでいて、現実味を帯びている。本当に、麻衣ならスケジュールがあっさり埋まる予感がした。
「あ、でも、日曜は」
「私の誘いよりも大事な用事があるわけ?」
「朝からランチタイムまでバイトのシフトなんですよ、週末は」
「そんなの誰かに代わってもらいなさいよ……とは言えないわね」
全力で口に出しているのはどこの誰だろうか。
「なんか、私よりバイトを優先された気がして無性に腹立たしい」
「二時までなんで、そのあとなら」
「ま、それでいいわ」
咲太の足を踏んでくるあたり、ちっとも納得はしてないようだが、表面上はわかってくれたらしい。大人なんだか、子供なんだかわかったものではない。その中間というよりも、ふたつがごちゃ混ぜになっているのが、桜島麻衣なんだと咲太は思った。
「にやにやしないの」
「麻衣さんからデートに誘われたら、そりゃ、にやつくと思うな」
「あ、デートじゃないから」
さらっと否定される。
「えー」
「そんなにデートがいいの?」
「もちろん」
力いっぱい頷く。
「じゃあ、そういうことにしてあげる」
「よし」
ナチュラルにガッツポーズを決めていた。
「そんなにうれしいんだ」
「そりゃもう」
「じゃあ、二時五分に江ノ電藤沢駅の改札前で」
「バイトが二時までだって、僕言ったよね?」
「だから、五分にしてる」
「お店の混雑状況によっては、ぴったりに上がれるかわからないので余裕をください。お願いします」
「じゃあ、二時半。一秒でも遅れたら帰るから」
「わかりました」
こうして、咲太は意外な形で、人生初のデートの約束を取り付けたのだった。
この日、梓川家の風呂場からは、
「いやっほ~!」
という、浮かれた雄叫びが聞こえたという……。



