第三章 初デートに波乱は付き物だ ⑤

「わかってます」


 もちろん、最初から麻衣の質問の意図はわかっていた。かえでの事件に対して、両親がどう反応したのかを聞いているのだ。

 三本まとめてポッキーを口に入れた。これで箱は空っぽだ。潰してポケットの中に押し込んでおく。


「母さんは、まあ、受け止めようとして、受け止めきれなくて、おかしくなって……今もまだ入院してます。娘がいじめられてるってだけでも気に病んでたのに、わけのわからない思春期症候群まで降りかかってきたんだから無理もないっていうか。父さんはその付き添いをしてます」


 このことをどう納得すればいいのか、咲太はまだよくわかっていない。自分がどうこうする前に、周りが先に変わってしまって、気づいたらこうなっていたのだから。

 結果だけが残った。

 何もできなかったし、何もできることなんてなかった。


「かえでは母さんに拒絶されたのがショックで、しかも、その原因が自分にあると思って余計悩んで……僕以外にはなかなか懐かないお兄ちゃんっ子になりました」

「いくつなんだっけ?」

「僕のふたつ下。中三です。あれ以来、極度の家好きになったんで、学校には行ってませんけどね」


 正しくは家から出られないのだが……。靴を履いて玄関に立つと、足が一歩も外へ動かなくなる。小さな子供のように「いやいや」をして泣き出してしまう。

 月に一度のペースで、カウンセラーの先生が診に来てくれているのだが、今のところ改善する気配はない。


「お母さんのこと、恨んでない?」

「そりゃ、恨みましたよ」


 さらっと咲太は本音で答えた。


「親なんだから助けてくれて当たり前だろって思ったし、僕やかえでのことを信じてくれよって思いました」


 けれど、離れて暮らすようになってわかったこともある。たとえば、母親は毎日家で、家族の食事を作って、洗濯をして、風呂やトイレを掃除して、色々な面倒を一手に引き受けてくれていたのだ。それを当たり前のことだと、一緒に暮らしていた頃の咲太は思っていた。

 全部自分でやらなければならなくなって、気づいたことはある。変わったことはある。些細なところで言えば、トイレは座ってするようになった。

 たぶん、母親だって色々と我慢していたことがあったんだと思う。家族に気づいてほしいことだってあったんだと思う。だけど、咲太の前では一言も口に出さなかった。顔にだって出さなかった。「ありがとう」のひとつも要求してこなかった。

 そうした日々の感謝を返せなかったことを考えれば、恨むのも筋違いな気がする。この一年で、咲太はそう思えるようになった。

 月に一度のペースでお互いの近況を報告し合っている父親に対しても同じだ。母親の看病をしながら、毎月の咲太とかえでの生活費を別に用意してくれている。咲太が必死にバイトをしたところで、今住んでいるマンションの家賃すら払えないという現実を知れば、やっぱりそこは認めていかなければならない。自分ひとりで生きているわけではないのだということを……。


「かえでの件を通してわかったんですよ。自分はまだガキで、大人だってなんでも解決してくれるわけじゃないんだっていう……そんな当たり前のことに」

「ふ~ん、すごいわね」

「うわー、すごいバカにされてるなぁ」

「してないわよ。それに気づいてないクラスメイト、たくさんいるでしょ?」

「気づく切っ掛けがなかっただけで、問題に直面すればみんな気づきますよ」

「それで、この話はどこへ向かうのかしら?」


 麻衣が窓を気にしている。そろそろ海が見える頃だ。

 質問の内容はきちんと覚えてる。

 ──咲太はどうして私に構うの?

 それが話の発端だ。


「ひとりだけいたんですよ。かえでに起きた思春期症候群の話を、真面目に聞いてくれた人が……」


 その人物との出会いがなければ、恐らく咲太はかえでの事件を乗り切れなかったと思う。

 あのときに、思い知った。

 孤独よりも恐ろしいものがこの世界にはあることを。

 孤立こそが一番恐ろしいものであることを。

 きっと、誰もが潜在的にそれに気づいている。だから、それを恐れるあまり、メールの即時返信ルールや、既読スルーは許さないなんて決まりが生まれるのだ。それが、結局は自分たちの首をさらに絞めつけるとも知らずに……。それこそが、孤立を生み出す原因になっているとも知らずに……。


「僕を信じてくれた人がいたんです」


 その姿を思い出すと少し切ない。名前を反芻すると下唇をぐっと嚙み締めてしまう。


「それ、女でしょ」

「え?」


 ずばっと指摘され、咲太はぎくりとした。麻衣の平坦な冷たい声は迫力がある。


「今、そういう顔した」


 なんだか麻衣は面白くなさそうだ。

 電車はいつも降りている七里ヶ浜駅のひとつ前……鎌倉高校前駅に停車する。

 ドアが開いた途端、麻衣が突然立ち上がった。


「降りる」


 デートの予定はこの電車の終点のはずだ。あと十五分ほど電車に揺られる必要がある。


「え? 鎌倉は?」


 確認の声をかけたときには、もう麻衣は電車の外にいた。


「あ、待って」


 慌てて咲太も続いた。

 数秒遅れて電車のドアが閉まる。のろのろと走り出した。その後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、麻衣は海に視線を向けた。

 この駅は、海に面して建っているのだ。しかも、少し坂を上がった場所。当然、視界を遮るものは何もない。ホームに立って電車を待っているだけで、目の前の海を独り占めできる。

 映画やドラマに出てきそうなロケーション。実際、撮影にもよく使われているらしく、咲太もTVカメラを持った大人の集団を何度か目撃したことがある。


「咲太が一時間三十八分も遅刻したせいで、もう夕方だし」


 江の島の方へと傾いた太陽は、空を赤く染めはじめていた。


「少し歩くわよ」


 海を指差した麻衣は、咲太の返事を待たずに駅を出ていく。

 その気ままな態度に苦笑いを浮かべながらも、咲太は楽しい気分で隣に並んだ。


 駅を出た咲太と麻衣は、なかなか青にならない国道134号線の信号を渡ると、二十段ほど階段を下って七里ヶ浜の砂浜に出た。

 江の島に背を向けて、鎌倉がある方へと歩き出す。

 砂に取られた足は少し重たい。


「知ってる? 七里ヶ浜って、七里もないの」

「一里が約四キロで、この浜は三キロにも満たないんですよね」


 つまり、さばを読んでいるどころの騒ぎではない。


「つまんない」


 どうやら、麻衣にとってはとっておきの情報だったらしい。


「千葉の九十九里浜も九十九里ないらしいですよ」

「つまらないこと知ってるわね」


 本当につまらなそうに麻衣が言い捨てる。


「自分から持ち出した話題のくせにそれ?」

「で、どんな人だったの?」

「ん?」


 あえて、わからないふりをした。


「咲太の与太話を信じたメルヘン女」

「気になります?」

「名前は?」

「気になるんだ」

「いいから言いなさい」


 これ以上からかうと本気で怒らせそうだった。


「名前は牧之原翔子さん。身長は約160センチ。全部ひっくるめて麻衣さんより小さかったです。体重は知りません」


 波の音を聞きながら、咲太はそう語り出した。


「知ってたら、その理由を問いただしているところよ」

「なんていうか、人の話をちゃんと聞いてくれて……でも、自分のペースは崩さないし、変に同情もしたりしない人でした」

「ふ~ん」


 聞いてきたのは麻衣なのに、その態度は素っ気ない。


「特徴と言えば、峰ヶ原高校の制服を着てたこと」

「……」


 そこで、ようやく麻衣が視線を向けてきた。


「もしかして、その人を追いかけて峰ヶ原高校を受験したわけ?」

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