第三章 初デートに波乱は付き物だ ⑥

「かえでの事件があったあとじゃ、地元は辛いんで離れることは決めてたんですよ。もっと遠くの土地にしようって話もあったんだけど、今どきネットで情報なんてすぐに伝わるし、距離はあんまり関係ないかと思って……それで、ま、行き先をここにした理由は、麻衣さんの言う通りです」


 素直に白状する。ここまで言ってしまったあとで、今さら隠しようもない。


「でも、ふられちゃったんだ」


 人の不幸はなんとやら。麻衣は楽しそうだ。


「結果としては同じだけど、告白はしてません」

「わざわざ同じ高校に来たのに?」


 何のために峰ヶ原高校に来たんだと、麻衣の視線が責めてくる。


「会えなかったんで」


 砂浜に落ちた石を拾い上げ、海へと放り投げる。そう言えば、前にスマホを投げたのもこの辺りだった気がする。


「卒業してたんだ」

「出会ったのは僕が中三。彼女は高二って言ってたからそれはないはずなんだけど」

「じゃあ、転校?」

「だったら、まだよかったかな」

「違ったって口ぶりね」

「三年の教室を全部回って、当時の三年生に話も聞いて捜したんですよ」

「そしたら?」


 咲太はゆっくりと首を横に振った。


「誰も牧之原翔子なんて生徒のことを知らなかった」

「……」


 麻衣はどう受け取ればいいか、迷っている様子だった。


「在校生の名簿を全部調べて、留年も疑って……ここ三年くらいの卒業アルバムも当たったんだけどなあ」


 けど、やっぱり見つからなかった。

 牧之原翔子という生徒が、峰ヶ原高校に在籍していた記録は何もなかったのだ。


「わけわかんないと思いますけど、僕は確かに牧之原翔子って人と出会って、その人の存在に救われたのは確かなんです」

「そう」

「本人に恩返しはできそうにないから、麻衣さんに無理やりしようとしてるのかも」


 ひとりでは拭い去ることのできない不安がある。誰かが側にいるだけで、救われた気持ちになれる。それを、二年前に咲太は経験した。


「あとは、知りたいと思ってる」

「知りたい?」

「なんで、思春期症候群が起こるのか。それがわかれば……」


 自然と咲太の手は、自らの胸に添えられていた。


「胸の傷、やっぱり気になる?」

「それなりに」


 これから夏が近づいてくる中で、水泳の授業はなかなかに憂鬱だ。傷を消す方法があるのなら、ぜひとも消したい。


「ちゃんと解決できれば、かえでのためにもなるかもしれないし」

「そうね」


 この先もずっと家から出られないというのは、もったいないと思う。毎日を、読書と猫のなすのとのじゃれ合いだけで浪費するのは、絶対にもったいない。

 いつかは、この砂浜にかえでを連れてきてあげたいと咲太は思っている。そのためには、思春期症候群のことをよく知って、かえでの例に当てはまる解決策を見つけたい。それこそが、最初に咲太が麻衣に興味を持った理由……。

 わざわざ言わなくても、麻衣の横顔はそんなことはお見通しだと笑っていた。

 咲太はもうひとつ石を摑んで海に投げた。弧を描いた石が、ぼちゃんと海に落ちる。


「ねえ」

「……」


 無言で麻衣の次の言葉を待つ。


「今でも彼女のことが好き?」

「……」


 そうだとも、違うとも、即答はできなかった。笑って適当にごまかすことも咲太はしなかった。


「牧之原翔子さんのことが好き?」


 麻衣の問いかけを、もう一度自分の心の中で繰り返す。

 ──今でも彼女のことが好き?

 今日まで避けてきた問題だったのかもしれない。

 ──牧之原翔子さんのことが好き?

 以前は、彼女のことを考えると、胸にちくりと痛みが走った。考えすぎると胸が苦しくなって、夜も眠れなくなった。

 でも、あれから一年が経過した今は違う。違っていた。

 本当はとっくの昔に結論なんて出ていたんだと思う。気持ちを言葉にするのを、無意識に避けていただけだ。それを、この場でなら言える気がした。


「すげえ、好きでした」


 海に向かって想いを吐露する。たったそれだけで、胸のつかえが取れたみたいだった。

 切っ掛けなんてなくても、時間が気持ちを思い出に変えていく。失恋の傷もかさぶたみたいにふさがって、気づかないうちにぽろっと剝がれ落ちている。そうやって、人は前に進んでいくのだ。


「どうせならもっと大きな声で叫びなさいよ」

「それをネタに、僕を一生からかう気でしょ」

「動画で記録してあげる」


 麻衣がスマホを構える。


「ほら、さっさと言いなさい」


 心なしか、声が尖っているように思えるのは気のせいだろうか。


「なんかめちゃくちゃ怒ってません?」

「はあ? 私が? なんで?」


 明らかにむっとしている。苛々している。刺々しい視線と感情が、ぐさぐさと咲太を突き刺しているではないか。


「聞いてるのはこっちなんだけど……」

「デートの最中に、他の女が好きだなんて告白されて、上機嫌になる人なんている?」

「『好きだった』だから。そこ重要!」

「ふ~ん」


 少しも納得した様子はない。これは機嫌を取るのに時間がかかりそうだ。そんなことを咲太が思っていると、


「う~み~」


 という能天気な声が聞こえてきた。

 見れば、砂浜に続く階段に、一組の男女の姿があった。

 男の方はくせ毛のもじゃもじゃ頭。首に大きなヘッドフォンをかけている。

 女の方は小柄で眼鏡。はしゃいで砂浜を駆け出した彼氏の背中を、むすっとした表情で見ている。靴のかかとが砂に沈んで歩きづらそうだ。

 ふたりとも年齢は咲太たちよりも少し上な感じ。大学生だろうか。

 砂に苦戦していた彼女のもとへ、彼氏が引き返してきた。かと思ったら、


「バ、バカなことしないで」


 と、抵抗する彼女をひょいっと抱え上げる。そのままお姫様抱っこ状態で、波打ち際まで連れていく。


「もう、信じられない」


 彼氏の腕から下ろされた彼女の頰は赤い。一番近くにいた咲太の視線を、俯いた感じでそれとなく気にしている。


「どういう神経してるのよ」


 機嫌を損ねた彼女をよそに、彼氏は押し寄せる波を前に、「うおっ、波っ!」とか言って大はしゃぎだ。彼女の話を全然聞いていない。変わった組み合わせのカップルだ。


「寒いし、私、もう行くから」


 そう言って回れ右をした彼女を、彼氏がすかさず背中から抱き締めている。

 思わず、咲太は「おっ」と、声を上げてしまった。

 でも、幸い、イチャイチャする大学生のカップルには聞かれずに済んだらしい。


「お前、すげえあったかいなぁ」

「……」


 俯いた彼女は、何かぶつぶつと文句を言っていたようだが、意外と素直になすがままにされていた。彼氏の腕に口元を埋める仕草がとてもかわいらしい。

 それとなく麻衣を見る。


「寒くない」


 先に釘を刺されてしまい、作戦は失敗。


「いや~、寒いなー」


 海に向かって呟くと、麻衣からは呆れたような視線が返ってきた。

 大学生のカップルは、手を繫いで波打ち際を遠ざかっていく。

 映画かドラマのワンシーンを見ているようだ。


「いいなー、あれ」

「そうね」

「ん?」

「な、なんでもない」


 ぽろっと本音を口にしてしまったのか、麻衣は慌ててそっぽを向いていた。


「手、繫いであげましょうか?」

「なんで上からなのよ」


 そう言いながらも、咲太の出した手に、麻衣は素直に手を重ねてきた。でも、それは手を繫ぐためではなかったらしい。

 麻衣の手が離れると、咲太の手には麻衣のスマホが残った。赤いウサギ耳のカバーがついたスマホだ。


「くれるの?」

「あげない」

「じゃあ……」


 と質問の言葉を続けようとした咲太の視界に、スマホの画面が入る。

 表示されていたのは一通のメール。

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