第三章 初デートに波乱は付き物だ ⑦

 読んでもいいのかを目で尋ねると、麻衣は少し緊張したような面持ちで頷いた。

 ──五月二十五日(日)、午後五時に七里ヶ浜の砂浜に来て

 今日がその当日。あと五分で午後五時になろうとしている。

 なぜ麻衣がメールを見せてきたのかわからなかった。

 合点がいったのは、宛先欄が目に入ったとき。

『マネージャー』と記されている。

 つまり、麻衣が母親に宛てたメール。さらに、すでに送信されたメールだということをスマホの画面は教えてくれた。送信日はデートの約束をしたあの日。麻衣が芸能界に復帰すると教えてくれたあの日。咲太と別れたあとで送ったようだ。

 もうすぐ約束の午後五時になる。


「会うんですか?」


 スマホを返しながら、あえて咲太は確認した。


「会いたくない」

「なら、会わなきゃいいのに」


 麻衣が中学三年生のときに出した写真集の内容で揉めて、母親と絶縁状態なのは知っている。別の事務所への移籍がすでに決まっているのだし、今さら母親と直接話をする必要はないのではないだろうか。


「あ、もしかして、芸能事務所の契約問題的なものが残ってるとか?」

「あの人の事務所との契約は、活動休止と同時に切ってあるから大丈夫よ」


 となると、あとは心の問題くらいしか思い当たらない。一種のけじめというか……。

 波打ち際を見つめていた麻衣は、どこか浮かない顔をしている。会うと決めたとはいえ、会いたくないという気持ちが見て取れた。


「『やりたくないことはやらない』っていうのが僕の持論」


 誰にともなくそう告げる。


「それ、続きがあるんじゃないの?」

「ま、『やらなきゃならないことはやるしかない』っていうのとセットだけど」


 海に向かって、咲太は思い切り伸びをした。

 避けて通っていいことはある。

 避けて通ってはいけないこともある。

 世の中には、そのふたつがあるのだ。

 避けて通っていいことまでやる必要はない。でも、避けて通ってはいけないことから目を背けていては、前に進めない。

 そして、この場合、麻衣にとって母親との対話は、後者の方なのだと麻衣は思っている。


「大丈夫ですか?」


 あえて直球で咲太は聞いた。


「自分で決めたことだから……それに、もう来たみたいだしね」


 麻衣が江の島の方から近づいてくる小さな人影に気づいた。


「時間にはぴったりな人だから」


 まだ距離が遠くて、咲太には相手を識別できそうにない。それでも麻衣が確信しているのは、やっぱり母娘だからだろうか。


「向こう行ってて」


 野良犬を追い払うように、麻衣がしっしっと手首を振る。


「せっかくだし、挨拶しようかな」

「……」


 真顔で睨まれて、咲太は降参とばかりに両手を上げた。


「終わったらデートの続きをしてあげるから、少し離れて待ってなさい」

「はーい」


 波打ち際から遠ざかり、砂浜に打ち上げられた流木に腰掛ける。

 遠くに見えていた人影は徐々に大きくなってきて、咲太の目にもその人物の姿がはっきりしてきた。

 麻衣に似た気の強そうな美人。正しくは、麻衣が母親に似ているのだろうが……。

 すらっとして背が高く、まだ若々しい印象。少なくとも、高校三年生の娘がいる母親には見えなかった。その姿を目の当たりにして、咲太は前にクラスメイトが「二十歳のときに産んだ子供らしいよ」と噂していたのを思い出した。

 その話が本当ならまだ三十代。咲太から見ておばさんには変わりないが、『お母さん』という雰囲気はまるでない。明るい色のスーツが余計にそう感じさせてくれる。

 立ち止まった麻衣のもとへ、母親が一歩ずつ近づいていく。あと十歩くらいの距離。

 麻衣が何か声をかけたのがわかった。「久しぶり」とでも言ったのだろうか。波と風の音にかき消されてしまい、ここまでは声が聞こえてこない。

 母親はわずかに速度を落としただけで、足を止めようとはしない。麻衣に言葉を返した様子もなかった。

 また麻衣が何か言っている。身を乗り出して必死に語りかけていた。


「……」


 おかしいと思ったのはそのときだった。

 母親の視線が定まらない。左右を広く見回す仕草は、まるで待ち合わせの相手を捜しているかのように咲太には思えた。

 しかも、麻衣を目の前にしても立ち止まる気配がないのだ。


「……噓だろ」


 嫌な予感がした。

 心の中で「やめてくれ」と咲太が叫んだ瞬間だった。

 母親は麻衣の真横を通り過ぎていく。

 まるで麻衣のことが見えていないかのように……。

 母を呼ぶ娘の声が聞こえなかったかのように……。

 あまりにあっさりと通り過ぎた。

 嚙み合わないふたりの間に何が起きているのかは瞬時に把握した。胸に締め付けるような痛みが走る。

 愕然とした思いと、恐怖が体に流れ込んでくるのを咲太は感じていた。

 すかさず麻衣は母親の正面に回り込む。身振り手振りを交えながら、「私が見えないの?」と訴えかけている。

 その声は、咲太のところまで聞こえた。

 けれど、麻衣の母親は再び麻衣を素通りする。置き去りにされた麻衣の両手がだらりと垂れ下がった。

 その瞬間、咲太の足は前に出ていた。一直線に麻衣のもとへ向かう。麻衣の母親へと近づいていく。

 残り十メートルくらいになったところで、母親が接近してくる咲太に気づいた。

 残り五メートルほどで何かを確信したのか、


「あなたなの?」


 と、不機嫌な感情をぶつけてきた。その様子が麻衣によく似ていて、咲太は面食らってしまった。


「私をこんなところに呼び出した理由はなに? あなた誰? 見たところ高校生くらいだけど面識ないわよね?」


 立て続けにまくし立ててくる。


「梓川咲太と言います。高校生です。あそこの」


 国道134号線の上にある峰ヶ原高校の校舎を視線で示した。


「そう。それで、その梓川咲太さんが何の用? 私、忙しいのよ」

「いや、用事があるのは僕じゃないです」


 母親の背後に立った麻衣から視線を感じた。

 少し悩んだような素振りを見せたが、結局はゆっくりと頷いた。たぶん、麻衣はこの事態を想定していたのだ。そして、この最悪な状況に備えて、咲太をここへ連れてきた。デートをエサにして……。


「なら、どなたの用事?」


 少し変な質問だと思った。


「麻衣さんですよ。わかってますよね?」


 メールを受け取ったからこそ、母親はここへやってきた。今、麻衣のことが見えなくてもその事実は変わらないはず。


「……」


 じっと麻衣の母親が咲太を値踏みしてくる。


「誰が呼び出したのか、もう一度言ってくれる?」

「麻衣さんです」

「そう」

「はい」


 母親は風でなびく髪を手で押さえると、


「誰よそれ」


 と言ってきた。


「っ!?」


 麻衣の目が驚愕に見開かれる。瞳の奥には激しい動揺が見て取れた。それも当然だ。実の母親に「誰よそれ」と言われたのだ。


「あんたの娘だろ!」


 感情だけで咲太は反応していた。絶縁状態とは言え、母親の反応は酷過ぎる。


「私に麻衣なんて娘はいないわ。冗談はよして」

「冗談はどっちだ!」


 煮えたぎる咲太の激情とは裏腹に、母親の態度は冷えていく一方だ。


「ねえ、なんなのこれ? あなた、ウチの事務所に入りたいとかそういうの?」

「そんなわけあるか。なに言って……」


 もう一度母親と目を合わせた瞬間、咲太は言葉を詰まらせた。その目が、かわいそうに咲太を見ていたことに気づいたから……。先ほどの「誰よそれ」は、正真正銘、『桜島麻衣』が誰なのか……それが、わかっていないからこそ、出てきた言葉なのだと理解してしまった……。

 母親の瞳には、ひとかけらの噓も混ざってはいなかった。

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