第三章 初デートに波乱は付き物だ ⑧
「そうだ。メール! 今日、ここで会う約束を麻衣さんがメールで送ってますよね?」
「それを見せれば、このわけのわからない茶番の幕は下りるのかしら?」
ハンドバッグから母親がスマホを取り出して、画面を咲太に向けてきた。
「……なんでよ」
その声は隣から覗き込んできた麻衣が発したもの。
もちろん、麻衣が見えていない母親には聞こえていない。
メールの文面は先ほど麻衣に見せてもらったものと同じだった。
──五月二十五日(日)、午後五時に七里ヶ浜の砂浜に来て
差出人の欄には確かに『麻衣』と書かれていて、どこにも不思議な点はない。それなのに母親は、
「差出人が不明なの。でも、手帳にはわざわざ予定として入れて、しかも、無理に時間を空けてねじ込んだのは覚えてるんだけど……なんなのかしら、これ」
聞きたいのはこっちの方だ。確かに『麻衣』と書いてあるのに、母親にはその二文字が見えていないらしい。
今の話でわかったことと言えば、少なくともメールを受け取った三日前の段階では、差出人が実の娘の麻衣であると認識していたであろうこと。だからこそ、無理をして予定を空け、ここへ来る時間を作った。
けれど、当日を迎える前のどこかで、母親は麻衣のことを忘れた。見えないだけでなく、声が聞こえないだけでなく……完全に忘れてしまった。
信じられないが、母親の態度はそうでなければ説明がつかない。
「そんなバカなことがあるか」
思ったことが無意識に口を出ていた。自分で聞いてもぞっとするほどに、声は虚しく乾いている。
「そんなバカなことがあってたまるか」
二度目は母親に対して言っていた。
「面白い売り込みだけど、さすがに非常識すぎるわよ。もう少し社会というものを勉強してから出直してきなさい」
踵を返すと、麻衣の母親は来た道を引き返していく。
「母親なのに!」
「……」
麻衣の母親は振り向かない。歩みも止めない。
「なんで娘を忘れられるんだ!」
「……もういい」
麻衣の小さな声。
「なんで!」
「もういいから……」
「まだ話は終わってない!」
咲太は母親の背中にありったけの感情をぶつけ続けた。
「……お願い、もうやめて」
今にも泣き出しそうな声に、全身がぞくりとした。麻衣を余計に傷付けているのが自分だと気づき、咲太は押し黙った。
「すいません」
「……」
「ほんとすいません」
「……ううん、いいの」
「……」
一体、麻衣の身に何が起きているのだろうか。
今の今までは、姿が人から見えなくなっていて、声が聞こえなくなっているだけだと咲太は思っていた。そう思い込んでいた。麻衣自身もそうだったはずだ。
ここにきて、大きな勘違いをしていたのかもしれないという現実に直面した。
咲太と麻衣は、何もわかっていなかったのかもしれない。
見えなくて、聞こえなくて……母親の記憶から、存在そのものが綺麗さっぱり消えていたのだから……。
「……」
考えれば考えるほど、悪い予感しかしてこない。
「咲太」
不安そうに麻衣の瞳が揺れている。
それを見て、麻衣も同じ疑念に捉われているのだと咲太は気づいた。
──母親だけでなく、他の人の記憶からも消えているのかもしれない
いつからなのかはわからない。見えなくなったときには、そうなっていたのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。
ただ、もし本当に他の人の記憶からも消えてしまっているのだとしたら……。
その疑念が確信に変わるのに、たいして時間はかからなかった。
4
登下校で使っている七里ヶ浜駅まで歩いた咲太と麻衣は、早々に帰りの電車に乗った。特にそうしようとやり取りがあったわけではなくて、自然とふたりの足は帰り道へと向いたのだ。
途中、咲太は観光客のおじさんやおばさん、地元の小学生やお年寄りに声をかけた。もちろん、「桜島麻衣」について尋ねるためだ。十数名に同じ質問をして、返ってきたのもまた同じ答えだった。
──知らない
知っていると言った人はひとりもいなかった。麻衣のことが見える人も皆無だった。
それでもまだ、咲太は心のどこかで期待していた。偶然知らない人に連続で声をかけてしまっただけかもしれないと思いたかった。けれど、そのわずかな希望もすぐに途絶えることになる。
藤沢駅に到着後、咲太は公衆電話から女子アナの南条文香に連絡を入れた。前にもらった名刺を財布に入れっぱなしにしておいたのは正解だった。
「はい」
少し他人行儀な声で電話は繫がった。
「梓川咲太です」
「あら」
急に明るさが込められる。トーンが確実に一段階は上がっていた。
「君からラブコールをもらえるなんて、今日は特別な日になりそうね」
「ラブは一切ありませんよ」
「お姉さんとの危ない関係に興味はないの? 火遊び大歓迎なんだけどな」
「おばさんの間違いでしょ」
「で、どうしたの?」
都合の悪い話は聞かない主義らしい。文香はあっさり話題を変えてきた。
「桜島麻衣さんの件です」
「なぁに、突然」
文香の反応に、咲太は「おっ」と思った。
手応えを感じていた。
けれど、その期待はあとに続いた文香の言葉によって、脆くも崩れ去る。
「それ、誰のこと?」
「……」
「もしもし?」
「桜島麻衣という人を知りませんか?」
もう一度聞き直す。
「知らないけど、誰?」
「じゃあ、その……写真の件は」
咲太が取引に差し出した胸の傷の写真。少なくとも、それはまだ文香の手元にあるはずだ。そして、それを公表しないように、文香は麻衣と約束している。麻衣の芸能界復帰について独占的に報道する権利と引き換えに……。
「あれは出さないって約束でしょ? 覚えてるわよ。ちゃんと守る」
「約束って誰と?」
「咲太君に決まってるじゃない。どうしたの? ……大丈夫?」
心配が半分、様子がおかしい咲太に対する興味が半分という感じだった。これ以上は、話を続けない方がいいと咲太は思った。藪蛇になりかねない。
「大丈夫です。すいません。写真のこと心配でつい、変なこと言っちゃいました」
「信用ないな~」
「お忙しいところお邪魔しました。失礼します」
冷静でいられるうちに、咲太は電話を切った。
受話器を戻す。その手は妙に重たかった。
ゆっくりと振り向き、後ろで待っていた麻衣に首を振る。
最初から期待はしていなかったのだろう。麻衣は「そう」と短い感想を口にしただけで、表情には何も出さなかった。
「今日はありがと。じゃ」
淡々と別れの挨拶を告げて、麻衣が後ろを向く。躊躇うこともなければ、迷うこともなく、麻衣は帰り道に向けて真っ直ぐ歩き出した。
いつも通りの凜とした足取りで遠ざかっていく。
その背中を見ていると、咲太の胸は軋んだ。
このまま、二度と会えなくなるんじゃないかという焦燥に駆られた。
すると、体は勝手に動いていた。
「麻衣さん、待った」
追いかけて麻衣の手首を摑む。
立ち止まってはくれても、麻衣は振り向かない。少し先の地面を見据えている。
「行こう」
「……」
麻衣がわずかに顔を上げた。
「行くってどこへ」
「まだ麻衣さんのことを覚えている人が、どこかにいるかもしれない」
「もう咲太以外の人は忘れてしまっているみたいな言い草ね」
麻衣が乾いた笑い声を上げた。
「……」
否定はしなかった。できなかった。そう考えてしまうだけの状況が揃っている。そして、それは麻衣自身も同じように考えたからこそ、今の発言が飛び出したのだろう。



