と言う声も、ミトツダイラの言い返しも、ドップラー効果ですぐに遠くなってしまう。後に残るのは、皆に片手を九十度を上げているイトケンと、屋根上に飛び散ったネンジだけだ。
そして皆に手を振っていたイトケンがネンジを見れば、飛び散った朱色の粘質は、ゆっくりと這うようにしてそれぞれが集まりつつある。途切れ途切れの意志伝達は、ネンジの声で、
『ふ、ふふ、今のは危ないところであった……』
「ネンジ君! 君、根性あって男らしいけど、ゲームで言ったらヒットポイント3くらいしか無いようなスライムなんだから、無茶しちゃ駄目だよ!?」
『ふうむ、しっかりガード体勢をとっておったのだがな……』
「ガード?」
『だからこう……』
集まってきたネンジは、ガード姿勢を見せた。
ややあってから、ネンジの肩っぽいところに、膝をついたイトケンが手を置く。
ああ、とネンジがつぶやいた。
『明日があるさ……』
と、並ぶ屋根の向こう、艦首側の方で声が響いた。
オリオトライを追い掛けていった皆が、何か仕掛けたのだ。
●
仕掛けたのは、先頭集団を構成する近接攻撃系の者達だった。
場所は多摩艦首側、居住区画の並びを抜けたところにある企業区画の屋根上だ。それも、左右にメジャー企業の高い建物が並ぶ屋根上だった。
ねらい目だ。左右の壁が高くなれば、左右方向への回避を狭めることが出来るからだ。
左右に建物の壁という、谷底のような構造の屋根上を突っ走りつつ、皆はこう思う。急がねばならない、と。
何故ならば、右舷二番艦多摩を、そろそろ走り抜けるからだ。
今走っている区画、企業のある企業区画を抜ければ、艦首から外へと飛び出すことになる。
艦の外、艦首の向こうには右舷一番艦・品川の艦尾がある。品川の上部は貨物区で、木製の大型貨物庫が並ぶだけだ。目的地は艦首デッキの狭い居住区にあるヤクザの事務所だが、そこに至る道である貨物庫の屋根は、障害物が一切無い平面地帯だ。
品川に入られたら、追いつくことが難しい。
だから、という言葉の先に皆が思うことは同じだ。そろそろ勝負を掛けるべきだ、と。
そして一番手は、
「自分が行くで御座るよ……!」
走りの中、叫んでまず仕掛けたのは点蔵だった。
対するオリオトライが、小さく口笛を吹いた。
「まず来るのは君だと思ったわ」
彼女の声に、点蔵は短く応答した。
「──Jud.!」
●
走る点蔵は、こう思う。
……確かにここは自分の持ち場!
今、足場の悪い屋根の上を、オリオトライは直線的に突っ走る。屋根の構造物や煙突、張り出しの上を飛び越え、屋根を飛び移るときも、速度が落ちることは一切無い。
対し、こちらはそうもいかない。女子は何かを跳ぶ際に速度を落とすし、男子勢は速度を上げようとしても不安定な屋根の上で足を取られる。
だが自分は忍だ。悪路の踏破訓練を授業で選択しているし、武蔵が山岳地域に入港した場合は山渓の走破訓練や生存訓練も受けている。
この状況でオリオトライに追いつけるのはまず自分だと解っているし、ここでオリオトライの速度を落としておかねば、取り返しのつかないアドバンテージをとられることも解っている。
だから行く。
既に、簡単な剣戟は弾かれ、銃撃なども切り落とされている。行くならば、本気の一撃だ。
悪路のスペシャリストである忍は、英国式で制定された校則法の戦種区分だと、
「戦種、近接忍術師、点蔵──」
「おいおい忍者が叫んでどうするの」
構わない。
「参る!」
叫びと共に己は速度を上げた。走るオリオトライとの距離は約十五メートル。その間にある屋根を、まるで壁を上るようにして、低い姿勢で突っ走る。
行く。近づく。
オリオトライの武器は長剣だ。後ろ向きに走っている姿勢からの攻撃に向く武器ではない。何しろ長物は、特に低い位置への攻撃が難しい。剣の軌道は円軌道であるため、低い位置には届かないからだ。もし低い位置に届かせようとして身を前に折ったり腰を落とせば、剣が屋根に当たることになるし、その姿勢では後ろに走ることなど出来なくなる。
だから、長剣使いに対して行くなら、低い位置からだ。
そして眼前、オリオトライが背の長剣を右手で抜いた。鞘ごとだ。流石に生徒に刃をぶつける気は無いらしい。いい教師だと思う。たまに暴力沙汰を起こしているが、まだこちらに矛先は向いていない。安全な内はいい教師だ。そうじゃなくなったら知らん。
ともあれなすべきは、速度を計算する事だ。現在の接近速度と、オリオトライが走りながら長剣をこちらに叩きつけてくる速度を考える。
軌道、姿勢、距離などを一瞬で重ね合わせ、
……低い位置から──。
と思った思考が危険信号を鳴らした。
……!?
速度十分、距離の取り方も、歩数もベストだ。全力で、立ち上がりながらの一撃を入れられる。だが、それ以上に、
……いかん。既にこちらに対する合わせを……!
先ほど、長剣の柄に手を掛けたときに合わせが行われた。右腕を上に伸ばす際、右の膝を上げられた。走っている動きの中、見逃してしまいそうな一動作だが、ちゃんと右尻を前に滑らせるようにして、次の動作に移るための腰が入っている。
予測出来る。
オリオトライの次の動作は、前に出した右足をハンマーを打ち付けるように振り下ろす動きだ。同時に、長剣を振り下ろしてこちらへと振り抜き、しかし屋根を穿った右足で、強引に背後へと跳躍する。長剣が屋根に当たるより早く、オリオトライは後方への大跳躍を行うだろう。
結果。突っ込み掛けているこちらに回避は出来ず、上からぶちかまされて地面に大の字だ。下手したら少しばかり屋根藁に埋まる。
瞬間。オリオトライの長剣が、その軌道上に発射された。
来る。だから己は叫んだ。
「行くで御座るよウッキー殿!」
「応……!」
と応えたのは頭上。既に長剣を振っているオリオトライの上へと、影が舞い降りた。
影の形は二角を持つ大柄なもの。
半竜のウルキアガが、隣接する高い建物の屋根から跳躍したのだ。
●
「……へえ!」
とオリオトライは感心の声を上げた。
成程、と彼女は思う。初めに点蔵が突っかけてくるとき、自己紹介を叫んだのは隣の壁上を行くウルキアガから注意を逸らすためだったのだろうな、と。
……小細工だわ。
だが、その積み重ねが大事だ。実力で勝てない相手には策を考えることが肝要だと、教師は生徒に教える必要がある。
ちょっとの小細工では敵わない相手がいるということも。だから、
「──!」
オリオトライは動いた。
●
オリオトライの頭上へと飛び込んでいたウルキアガは、一瞬の動きの中にいた。
こちらは航空系の半竜、背翼があるために短時間の加速と飛翔が可能だ。だから点蔵が飛び込んだ後、皆の背後から身を低くして隣接する家屋の屋根に飛び移り、そこから一気に高い壁上の屋根へと跳躍した。
オリオトライにとっては、視界外からのパワーダイブとなるだろう。
己が使用する武器は両手そのものだ。半竜の腕は鱗と外殻に覆われ、それだけで打撃武器となるからだ。腰、幾つもの装備を身につけているが、使わない。
長剣を振り下ろしていくオリオトライが、高速処理可能な共通言語で
「腰のは使わないの!?」
「異端審問入門キット、Tsirhc 教譜の異端ではない者に振るうものではなし!!」
自分の実家は三征西班牙異端審問の家系だった。地元では老舗だったが、乱獲がたたって立ちゆかなくなってしまった。そして先々代のときに宗教革命の歴史再現も始まったので、店を畳んで武蔵にきている。今、両親は青梅の地下三階で寝具の生産販売をやっているが、特注ベッドは実家の技術が盛り込まれていて一部の方々に好評だ。拘束がキツくていい、と。
だから己も、両親のように、祖先の技術を今に伝える仕事に就きたいと思い、旧派系異端審問の授業を午後に選択で受けている。
ゆえに自分は常にそのための装備を身につけている。それは尋問のための道具であり、そして審問官を敵視する者達と戦い、業務を遂行するための武器だ。