昼間のけんそうなどうそのようにしんと静まりかえった、深夜のイフール・カウンター。

 とっくに営業時間は終わっているが、奥に設けられた事務室にはぽつんと明りがともっている。

 いくつもの机が並べられ、書類が積み上がっている事務室の中でも、とりわけ大きな書類の山を見せる机に、アリナは突っ伏していた。


「ああ……疲れたぁぁぁ……」


 細い声を絞り出して、事務処理を終えたクエスト受注書の束を、山に加えていく。

 受付嬢としての受付業務はすでに終わっているが、アリナはギルドから支給された受付嬢の制服のまま。誰もいないのをいいことに、ショートブーツを脱いで黒い髪を一つに束ね、前髪をあげておでこ全開。机の脇には冒険者ならおなじみのポーションが置かれている。主に負傷した時に飲む回復薬だが、にわかに眠気を覚ます効果があると信じられているものだ。

 他の受付嬢はとっくに帰っていたが、アリナは職場に残り膨大な残務を片付けていた。そう、就業時間内に担当業務を片付けられなかった者に降りかかる試練──就業時間を超過して仕事にあたる、「残業」である。

 何とか一秒でも早く家に帰るべく、〝本気モード〟で残業にいそしむアリナだったがしかし、その視線の先にはまだ処理すべき書類の山がうずたかく築かれていた。


「帰りたい……」


 ぽつりと、アリナはつぶやいた。

 帰りたい。おうちに帰りたい。そのまま引きこもってしまいたい──次々あふれる悲しき心の叫びを、ぐっと胸の中に押し込めた。この集計作業が終わるまでは帰るわけに行かないのだ。

 昼間、担当する窓口で受注した書類の後処理に加え、アリナにはイフール・カウンターにおける今日一日の受注数の集計作業も残っていた。

 十五歳の頃に受付嬢として働き始め、今年で三年目。責任あるその集計業務を、入所してまだ歴も浅い三年目のアリナが担当しているのは理由がある。今日のように昼間の窓口が混雑すれば残業はほぼ確定となるその作業を、他の先輩受付嬢が嫌がって押し付けあった結果、アリナに回ってきたのだ。


「……」


 私だって嫌なのに。世の理不尽に思わずぐすっと鼻をすする。人間をむりやり元気にする魔のドリンク、ポーションを勢いよく飲み干して、いまだ殺人的な量を見せる未処理の書類の山を眺めた。その希望もなにもない無情な高さは、アリナを絶望させるに十分だ。


「終わる気がしない……」


 ポーションでいくらごまかそうと、人間には活動限界というものがある。ここ数日、残業だけでは処理しきれなかった書類の数が、全く減ることなくただひたすら積み上がっていくだけなのだ。明らかに処理が追いついていないのである。


「ぜんぶ……ぜんぶあのボスのせいだ……!」


 じゆのように低くつぶやき、アリナは一枚だけ別に置いていた受注書をめくった。

 昼間、ガンズが受けたものである。ベルフラ地下遺跡の最深層に鎮座する階層フロアボス、『ヘルフレイムドラゴン』の討伐。残業の理由はこいつにあると言っていい。

 このボスが倒せず、地下遺跡の攻略が行き詰まっているのだ。全階層のボスを倒したダンジョンからは魔物が去って行くが、こいつが倒れないおかげでいつまでも魔物が寄ってくる。

 そして魔物には冒険者が寄ってくる。ギルドが魔物討伐の報酬金──すなわち冒険者の収入源を出しているからだ。

 ダンジョンの完全攻略が近づくと、冒険者たちは今のうちに稼げるだけ稼ごうと次々クエストを受注する。結果、今日のように昼間の受付所は大混雑、夜は大量の残務に追われるという地獄絵図が完成するのだ。

 とはいえ大抵は数日もてば収束するのだが──今回はヘルフレイムドラゴンに手こずっているせいで、すでにこの地獄が一ヶ月近く続いていた。


「ぜんぶ……」


 アリナは唇をみしめた。

 ベルフラ地下遺跡の攻略が行き詰まる前までは、アリナは確かに、平穏な受付嬢ライフをおうしていた。決められた業務をこなし、定時で帰って、おうちでぐっすり眠って疲れをとり、そして朝を迎え今日も一日頑張ろうと出勤していたはずなのだ。

 しかしヘルフレイムドラゴンのせいで残業が発生してからは、食って寝て仕事して、食って寝て仕事するだけの殺伐とした日々に一転した。休日返上で仕事をしても、ボスがそこに鎮座している限り、この地獄は終わらない。

 せっかく受付嬢という一生ものの安定職を手に入れたのに──この残業のせいで、何よりも求めた平穏な生活が遠のいていくのだ。


「……つらい……」


 わかっている。アリナを苦しめるこの残業は、誰の悪意によるものでもない。

 ボスも、魔物も、殺到する冒険者も、みな必死に生きようとしているだけだ。

 それに、かつて先人たちがこの地にのこしていった遺跡ダンジヨンには、高価なレリツクだけでなく先人の貴重な知識や未知の技術がつまっている。冒険者の活動は回り回ってイフールの住人に還元され、その生活を豊かにするのだ。

 事実、大都市イフールの発展は冒険者たちがその腕っ節一つで築いてきたもの。アリナはイフールの住人の一人として、日々危険なダンジョンに潜る彼らに感謝しなければならない。

 ──しかし、である。そんなものは言ってしまえば建前であって、結局はどんなに町が発展しようとも、アリナの残業が減ることはない。


「あぁ……もうだめ。限界」


 ぼそり、と低くつぶやくと、アリナはおもむろに新しい受注書を取り出した。

 地下遺跡が攻略されるまでの辛抱だと、アリナはこれまで必死に耐えてきた。

 残業は言ってしまえば一時的なものだ。突然の嵐のようなもの。ダンジョンが完全攻略されさえすれば、嵐のあとの晴天のように、また平穏で安定した受付嬢の日々に戻ることができる。だからそれまでは頑張ろうと、アリナは今まで歯を食いしばり残業をこなしてきた。

 でも──今回の残業地獄はあまりに長い。長すぎる。もう限界だ。


「どいつもこいつも……! ボス一匹倒せない無能な冒険者共が……!!!」


 アリナはさらに制服のポケットに忍ばせていた一枚のカードを取り出す。黄金に輝くその分厚いカードは、受付嬢が持っているはずがないだ。

 ギルドの中でも上位一割の実力者にしか認められないと言われる一級ライセンスは、残業をなくすための禁じられた最終手段。そのカードを使うことで、これからどんな未来が待っていようと関係なかった。目の前の残業が、消えるなら。

 アリナは怒りのまま、受注書に書き込んでいく。


「こいつさえ。こいつさえいなくなれば……!」


〝ベルフラ地下遺跡、二層階層フロアボス、『ヘルフレイムドラゴン』

 疲労で光を失っていたアリナの瞳に、にわかに輝きが戻った。いやその光はいっそ鋭くすらあり、すい色のそうぼうに、まるで獲物を仕留めんとする捕食者のようなギラギラした殺意がのぞく。


「──絶対、定時で帰ってやる……!」

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