裸の少女、絹旗最愛はぼんやりとした瞳で滝壺に世話されるがままだった。全身の血の巡りはまだ回復していないらしい。濡れた髪はもちろん、体の方までしつこくこびりつく生体電解質ジェルを拭うためバスタオルで全身ごしごしやられている最中も恥や抵抗とは無縁である。今は裸のまま両手をのろのろ上げてバンザイしていた。
麦野沈利は別のポッドを指差して、
「……解凍したばかりで色々あやふやな黒夜海鳥は自分がキレて研究所をぶっ壊したと結論づける。今までこれだけの扱いを受けていれば、まあ思い当たる節なんていくらでもあるでしょうし。ならハイスコアは復讐者にあげよう、私達はどんなに殺したって安全に逃げ切れる」
(この中では)良い子の滝壺がちょっと顔を曇らせるのをフレンダは横目で見つつ、
「結局そんなに都合良くいく? スペックによると、麦野の『原子崩し』と窒素の槍って破壊の痕跡は一致しないはずなんだけど。分かる人には分かる訳よ」
「それ狙いなの」
じゅわっ!! という灼熱の音が響いた。固体がそのまま蒸発する音だ。逃走寸前という段階にきて、麦野は意味もなく適当な床に超高温の『原子崩し』の閃光を放ったのだ。
「本当に完全に事件を隠蔽しちゃったら、私達がきちんと仕事を済ませましたって証明もできなくなるでしょ。だから一般の連中にはバレない形で、でも『暗部』の人間が見ればきちんと分かる程度のサインは残しておくの。こういうのを怠ると依頼人から報酬の支払いを渋られたり、知らない同業者から横取りされたりする。キレて暴れて金を取り返すのも面倒だろ」
その言い分にフレンダは思わず肩から脱力した。
犯罪者としてのレベルが全く違う。
ゴゥンゴゥンと動き始めた機材を眺めて麦野は満足げに二回頷いてから、小部屋の出口に向かう。さらに続けて二発、三発と『原子崩し』を適当な壁や天井に解き放ちつつ、
「ほらー、みんなしっかり歩いてさっさと逃げるのよー。全員、一一〇番で駆けつける警備員に見つからないように注意。きゃー目撃されたら全部殺すしかなくなるから気をつけてー」
「……結局、心配の仕方がそこらの悪党とは逆方向な訳よ」
バン!! と警備員の黄泉川愛穂が大部隊を率いて非公開研究施設の正面ゲートを破った。
真っ黒な少女達が壁に大穴を空けてこっそり表に出た九〇秒後の出来事だった。
蒸し暑い熱帯夜だった。
東京西部に位置する学園都市は、夜になっても内陸特有のこもる熱気に包まれる。これで風力発電ベースのエコな街を名乗っているのだからヒートアイランドってすごい。
工場見学サイトなどで密かに話題になる独特できらびやかな夜景の中、第一七学区の無人工場街で待っていたのは、後部の窓を全部黒いスモークで塞いだ一二人乗りの細長いマイクロバスだった。この感じだとテレビのロケバスと言った方が分かりやすいかもしれないが。
ただ後部ドアを開けてみれば、中はふかふかの絨毯とコの字に整えた本革のソファやガラステーブル、真空管アナログオーディオ、小型の冷蔵庫などが並べてあるのが分かるはずだ。
外から見れば中古で三〇万もしないくたびれた車。だけど中は五〇〇〇万以上する高級リムジン。ソファや絨毯はもちろん最高級、隅にあるチャネルの小さなゴミ箱一つで馬鹿デカいゲーミングパソコンを丸ごと買える額はする。これが『暗部』の少女達が使う移動の足だ。
麦野は短く囁く。
「出して」
「うす」
運転手は派手に染めた髪と太い金のネックレス、口の中にはガムまであった。『暗部』には色んな人間が転がり落ちてくるが、四輪の扱いだけは路地裏の不良ルートで調達するのが一番だ。技術はあるのにマークもされていない。何より現場で失っても再調達が簡単だ。
れっきとした車両逃走段階だが、あくまでも安全運転。三枚羽の風力発電プロペラがあちこちに立つ工場街で、ド派手な赤色灯を回す警備員の特殊車両が集まる正面ゲートのすぐ傍を時速四〇キロでしれっと通り過ぎる。汚いロケバスは現場をゆっくりと着実に離れていく。
学区を越えて危険なエリアから出た瞬間、エンドルフィンがどばっと出るのは悪党あるあるだ。常設、巡回のドラム缶型警備ロボットくらいではもう彼らを捉える事などできない。
「いえーいっ!! まさしくパーフェクト、結局一〇〇点満点って訳よ!!」
「いえー」
小型冷蔵庫から取り出した小瓶のサイダーをガツガツぶつけてフレンダと滝壺がはしゃいでいた。こんなのでテキトーに摘まれる五つ星のブルーチーズと生ハムが泣いている。あとこのラインナップになんかしれっと安物のサバ缶が混じっていた。
もそもそという分厚い布の擦れる音があった。バスタオルのものだ。絹旗最愛がコールドスリープ解凍状態から頭が回ってきたらしい、つまり当たり前の恥と疑問を持ち始めている。
隅っこで自分から小さくまとまり、ミノムシ少女絹旗最愛は探るような目を向ける。
「……超あなた達は?」
「ひとまず正義のヒーローじゃないね」
くつくつと笑いながら麦野沈利はそれだけ言った。
たった一言だけで、まだ『暗部』から抜け出していない、くらいは絹旗も理解したはずだ。実験動物として研究施設の奥で飼育されていた少女には、戸籍も住所も学生証もない。今車の外に放り出されても、あるのは終わりのない困窮と路上生活だけだ。しかもハダカで。
避けるためには、どんな理不尽があろうが暗黒の少女達に喰らいついていくしかない。
これから様々な情報が洪水のように押し寄せてくる。その一つでも取りこぼせば明確な死が待っている。そういった予感くらいはひしひしと知覚できていなければ、むしろおかしい。
その上で、だ。
麦野沈利は気軽に両手を広げてこう尋ねていた。
「そっちはどうよ? 自由の味は」
車内の時計はちょうど七月一日の午前〇時を示していた。
絹旗最愛もまた小さく笑う。
何かしらこの瞬間、見えないルールが変わったと思えたから。
善でも正義でもないけれど、だけど無菌の部屋で空気と食料と電気と薬品をもらうだけでは一〇〇年経っても手に入らないであろうものが転がり込んできた事を知ったのだ。
小柄な少女はゆっくりと目を細めて、
「……超悪くないです」
彼女達は『アイテム』。
学園都市の暗闇、その奥の奥で蠢く最強四人組の精鋭部隊である。