第一章 『五』人目の少女 1

 七月一日、午前一〇時。

 第一五学区でも一等巨大な複合ビル、フィフティーンベルズ。


 そもそもがくえんで暮らす二三〇万人の誰もが羨む、最大の繁華街だ。

 そんな一等地も一等地にある高層建築の、実際の居住よりも投機目的で売買される事が多い超高級マンション区画。その最上階と屋上の庭園がまとめて『アイテム』の根城だった。投機狙いだと壁や床のみとか生活臭とかで減額されるのを嫌い、人が住まない部屋も多い。静かな生活を求めるなら都会の便利さを犠牲にする大自然へ逃げ込むよりこっちを狙うべきだ。


がくえんで能力開発を。量子論に基づく科学的な超能力があります。観測で素粒子の動きや性質が変わる事を逆手に取り、催眠、投薬、電気刺激などを用いて自己の中で「自分だけの現実パーソナルリアリテイ」を開発し人間の側から本来ならありえない現象を起こすといったもので……』


 一仕事を終えた後も何をするでもなくぐずぐず起きていたむぎしずが一人、テニスコートより広いリビングを横断して寝室に向かう途中の事だった。一〇〇インチ以上ある大きなテレビが勝手にいた。人の顔を検出して勝手に番組サーチするのも考え物だ。エコじゃないと思う。どうも学習を失敗しているのか朝っぱらからニュース番組とか観せられても興味ないし。

 ただ、今日に限っては上出来だったのかもしれない。

 何か部屋の片隅でピカピカ点滅しているのを発見するための時間くらいは稼いだ訳だし。


「あれ?」


 炭酸水のボトル片手にむぎしずつぶやく。

 がりなので格好は薄いネグリジェ一枚だったが、窓辺に立つ事への忌避感は特にない。むぎはガラスのそばに並んだリクライニングチェアの一つに体を投げて受話器を取る。体重を預けると、背もたれはそのまま後ろに倒れてベッドのようになった。

 高層ビルの群れと、あちこちに三枚羽の風力発電プロペラが立ち並ぶエコな街。

 飛行船の横についた大画面では、夏空の下を行き交う人々へ紫外線予報を流している。

 窓の外に広がるがくえんはクソだ。『あん』に支えられてキラキラ輝いておきながら、誰も彼もこの街の暗い側面には目を向けようとすらしない。

 そして相手はまあ、予想通りだった。


むじなやまさあ、何でいつもいえでんなんかにかけてくんの? 留守電なんてチェックしないよ。ケータイの方に直接かけてきてくれりゃあ聞きそびれる事もないのに」

『滅相もない、お嬢様。こちらはしがない使用人、取り次ぎもなく直接お嬢様におつなぎする無礼があってはたまりません。そんな恐れ多い。本来、家の電話にもかけるべきではありませんが一応はマンションの大家からの経由という形でギリギリ体面を保っているのですよ?』


 がくえんの外、実家に勤めているむじなやまは一事が万事こんな感じだ。まったくこの老人は人を大切に扱ってくれているんだか距離を置いて腫れ物扱いなんだか分かりゃしない。


『お嬢様におかれましても、本家から離れてがくえんで生活しているとはいえ、栄えあるむぎの一員である事への自覚と覚悟を常にお忘れなきようお願いいたします』

したからきてるけど朝っぱらからお説教モードだなこれ?」

『お嬢様』


 平日の朝一〇時。小中高に大学や社会人まで自宅でのんびりくつろいでいて褒められる時間帯ではないはずだが、白髪の執事はそういう世俗の時間感覚など特に気にしないようで、


『明治の始まり、文明開化は実に様々なモノをこの国に流入させました』

「はいはい」

『科学、絵画、食肉、薬品、汽船、そして小麦。むぎとはこの国の誰よりも時流を読んで西洋文化を吸収しその翼を大きく広げた、世界に名立たる一流の資産家。まさに選ばれし者だけが名乗る事を許されたえいと栄光の家名にございますよ、お嬢様』

「(……何が西洋文化だアホくせー。うどんもまんじゆうも全部小麦だし。時代劇の真っ白なご飯じゃあるまいし、本当の大昔は純粋なお米を食べられた人の方が少ないんじゃね?)」

『お嬢様』


 この呼びかけはむじなやまのクセみたいなものだ。

 コードレスの受話器を手にして窓辺のリクライニングチェアに寝転がり、あきれたようにむぎは息を吐いていた。そのままペットボトルの炭酸水を一口。

 確かに鎖国から開国に向けて、様々なモノがこの国にんできた事だろう。洋服、食文化、西洋医学、シェイクスピアの演劇、他色々。それらを貪欲に吸収して力を急拡大させていったのが、(あるいは本家に属する少女本人よりも)むじなやまご自慢のむぎだ。



 幼子をたしなめるような声があった。


『暴力は話術や札束と並ぶ交渉カードの一つに過ぎませんよ。暴力は使うものであって振り回されるむぎにあらず。実際のところ、誉れ高きむぎの家は世界で五指に入り、世界中で実に一四億人の胃袋を支える穀物生産企業にございます』


 なのでむぎの家は、いわゆるにんきようの世界とは異なる場所にある。目立つ行動はしないし、反社会勢力として拠点や構成員数が把握される事もない。分かりやすいサングラスや金のネックレスもない。表の顔は世界的な穀物生産企業であって、それすら『むぎ』の名は社名にも人事にも一切登場しない。だがそうして手に入れたばくだいな資金がどこぞの銀行なりカジノなりでロンダリングされて行方をくらました結果、いつの間にか全世界で総数一〇万人規模の兵隊が養われている。作りの怪しい拳銃どころか普通に戦車とか攻撃ヘリとか持っている。そしてグループ一部門である投資ファンドは老舗も新興も問わず、少しでも隙を見せた会社を片っ端から買収してアメーバのように全世界へ窓口となる企業を広げている訳だ。

 外し難い社会の歯車となり、その存在を隠す。

 そして壁の落書きや握手の方法にまで敵味方を識別するちようを織り込んででも、探りを入れる異物の徹底排除に努める。これが西洋式暴力装置のやり方である。


「これだけ麦を抱えているなら、ギャングらしく密造酒でも作れば良いのにいー」

『残念ながら、今の時代こっそり作る理由がありませんので』


 つまり、むぎしずとは暗黒のサラブレッドだ。他の多くの『あん』連中と違い、何かヘマをして転がり落ちてきた訳ではない。最初の最初から、この暗がりで生まれ育った怪物なのだ。

 そしてそんな彼女も、がくえんの中ではただの学生の一人。

 むじなやまてきにはそこが心配なのか。こいつはこいつでづらを見れば分かる通り、文明開化の廃刀令のタイミングで山賊装備のびた刀を捨て『山歩きの狙撃手』に生まれ変わった近代血統の精鋭だ。行きずりの共犯者アイテムではなく、自分こそ戦闘その他の世話を焼きたいに違いない。


『お嬢様の方はお変わりありませんか?』

「えー? 特に何も」


 昨日も勤勉に夜遅くまで殺しをしてきたし、


「こっちは七人しかいないの一角なんだ、そうそうピンチにゃならないって。『暗部』の中には連中もいるけど、まだそこまで追い詰められてもないし」


(……同格、しかも『あん』の天敵とかいう第六位でも出てこない限りは)


 ネグリジェ一枚のむぎはリクライニングチェアに身を投げたまま、気だるそうにあくびをして、寝返りを打つ。受話器からは老執事のわいいヤキモチ声が飛んできていた。


の皆様は?』

「下の階でイチャついてるよ」

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