第一章 あるいは、僕らの現代的自我 ②

「……じゃない? ……ったら、そんなには……よね……」


 ……ずいぶん油断してるみたいだな。

 きっと、このまましつけに教室に入れば声の主を驚かせてしまうだろう。タイミングを見て、自然に扉を開ける方がよさそうだ。

 そんなことを考えながら戸から手を離し、のぞき窓から中を窺った僕は、


「……ん?」


 ガラスの向こうの意外な光景に──目を疑った。

 教室にいる女子は、案の定一人だけ。

 廊下側の席で、こちらに背を向けかばんに荷物をしまう女の子──。

 ──みなさん、に見えた。

 廊下側後方の席は彼女のものだし、真新しいブレザーも転校生特有のもので間違いない。

 それ以上に、僕が彼女の。

 今日一日、穴が空くほど眺めてきた後ろ姿を見間違えるはずがない。

 けれど──、


「……んー……明日は……みた方がいいかなあ……」


 相変わらず、教室の中から聞こえてくるひとりごと。

 それが、りんとしたみなさんのイメージとどうしてもわない。

 吹き替えの人選を誤った映画を見ているような、居心地の悪い違和感。

 これ、本当に彼女がしゃべってるのか?

 それとも、教室に他に誰かいるのか……?

 探してみるけれど……やはり扉の向こうには、みなさんしか見当たらなかった。

 そうこうしているうちに、彼女はかばんを手に取り振り返る。

 そして、その顔がようやくこちらを向き──、


 ──僕はがくぜんとした。


 がいた。

 そう、見えた。

 顔の作りや髪型は、間違いない、みなあきさんだ。

 けれど……泣き出しそうに寄った眉。不安げに揺れる瞳。確かめるように何度もかばんを持ち直す手はどう見ても別人で。みなさんの姿をした他の誰かにしか見えなくて、

 ──身を隠すのが、数秒遅れた。


「……へ?」


 みなさんの視線が、こちらを向く。

 のぞき窓越しに、ばっちり目が合った。

 しまった──と、今さら取り繕おうとしたその瞬間、


「わ……うわわわ!」


 驚いた拍子に、後ずさったみなさんがバランスを崩した。



 かばんを取り落とし、机をつかもうとした手は空を切り──そのまま──、


「痛っ!」


 ──派手な音を立てて、尻餅をついた。


「だ、大丈夫!?」


 慌てて扉を開け、彼女に駆け寄った。


「ご、ごめん……のぞするつもりは、なかったんだけど……」

「痛たたた……。あ、ああ、ありがとうございます……」


 手を伸ばすと、顔をしかめていたみなさんは申し訳なさげにそれにつかまり立ち上がった。ぽんぽんとスカートについたほこりを払い、落ちていたかばんを拾う。

 そして彼女は恥ずかしげにこちらを向き、


「す、すみません。誰もいないと思っていたので、ちょっとびっくりして……」


 その表情は相変わらず気弱で、どこか自信なさげで、


「……あ、あの、結構ドジなところあるんだね、みなさん」

「へっ?」

「いやその、朝会ったときは、ずいぶんしっかりした子だなって思ったから……」

「……あぁ!」


 そこで彼女はようやく事情がわかった、という顔になり──、


「あ、あの。ごめんなさい、転校の色々で少し疲れていて」


 ──急に、その顔にりんとした表情を浮かべた。


「なんだか、み、みっともないところを見せてしまったわね……」

「……ああ、いや、それはいいんだけど」

「まあ、普段はもう少し落ち着いているから、今見たことは忘れてもらえると助かるわ……」

「うん、わかった、けど」

「どうかした?」

「いや、みなさん……」


 僕は、数秒ほどかけてためらってから。

 言っていいものかとしゆんじゆんしてから──、


「──すげー、無理してる感があるんだけど……」


 確かに、表面的には朝の彼女の通りなのだ。

 浮き世離れして落ち着いた口調に、素っ気ない表情。

 さっきより背筋も伸びているし、仕草もどこか清廉だ。

 けれど、目はあたふたと泳ぎ声は不安げに揺れ……演技にしか見えない。

 誰か別の人間が、文化祭のクラス演劇以下の演技力で「みなあき」を演じているようにしか、見えない。


「い、いや、別にそんなことは……」


 僕の指摘に、みなさんの目が一層せわしなく泳ぎはじめる。

 無駄に何度もかばんを持ち直し、足下はゆらゆらと覚束ず、声はあからさまにうわずっている。


「こ、これが普段通りのわたしよ。とにかく、今日はこれで失礼するわ……」


 言って、彼女は僕の隣をすり抜け、教室を出ていこうとし──、


「──わっ!」


 またしても、その小柄な身体からだがふらりとかしいだ。

 足下には、誰かがきちんとしまわなかった椅子の脚。

 ──つまずいた。

 慌てて手を伸ばし、細い腕をつかんだ。

 そのやわらかさに驚く間もなく、身体からだにかかる生々しい女子の重み。

 慌てて足に力を入れ、逆向きに体重をかけ──ギリギリのところで踏みとどまる。

 よかった、二人とも転ばずに済んだ……。


「……だ、大丈夫?」


 恐る恐る尋ねると、みなさんはゆっくりこちらを向いた。

 そして、それまで作っていたりんとした表情をくしゃっと崩し、


「……もう、ダメだあぁぁ……」


 今にも泣き出しそうな顔で、そんな声を漏らした。


「ごめんあきぁ……初日からバレちゃったぁ……」



 ──あ、あのね、わたしの中には……この身体からだの中には、二つの……魂? 人格? 人……が、入っててね。

 今朝、君が会ったのはメインの人格の『あき』で……わたしはサブの人格の『はる』です……。

 え、ええっと……事情があって。もともとは一人だったんだけど、七年くらい前かなあ? わたしが生まれちゃったんだ……。

 ……うん。なんだか、そのときあきにすごくストレスがかかってたみたい……。

 あ! でももう、それは解決したから大丈夫なの! ごめんね! 心配させちゃって……。

 ……うん、そう。

 そう、だね。だから、お医者さんにも言われてるんだ。

 わたしたち──二重人格なんだって。



「……二重人格……」


 小説でしか聞かないようなその話に、まいを覚えていた。

 もはや、空腹だってこれっぽっちも気にならない。

 ただ、目の前の女の子が──みなはるが語ったことを吞み込むので、精一杯だった。

 二人しかいない二年四組の教室の、まどぎわの席で。

 一連のドジをさらし、もうこれ以上は隠し切れないと判断したらしい彼女は……夢物語みたいな「二重人格」の説明を、一生懸命続けてくれている。


「──えっと……今は確か……百三十一分! 百三十一分で人格が入れ替わるの! 不思議だよね……。でも、たまにこういう人っているんだって……」

「──あ、入れ替わりの時間は絶対決まりじゃなくて、そのときの調子によって、早くなったり遅くなったりもするの。百三十一分ていうのは、今のだいたいの平均で……」

「──そう、だから記憶は別々なんだ。スマホでお互いやりとりしてるから、大事なこととか授業のこととかは、わかるようになってて……」


 これまで僕にとって、「二重人格」はあくまで「物語でたまに見る題材」だった。

 ジキル博士とハイド氏もそうだし、最近のマンガなんかでもちらほら見かけるありがちなキャラ設定。

 それらの作品の中では、第一の人格と第二の人格はえてしてかなりの落差があったけれど……このみなあきはるも、例に漏れず正反対と言ってもいい性格らしい。

 冷静で、超然としていて、感情の読みにくいあきと。

 今目の前で必死に解説をしてくれている、おっちょこちょいのはる

 強いストレスから自分を守る、というのが別人格の生まれる目的らしいから、必然的に第二の人格は第一の人格と真逆になりやすいのかもしれない……。

 ──そんな思考を無理矢理展開してみても。

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