第一章 あるいは、僕らの現代的自我 ③

 いまだに僕は、目の前の気弱そうな女の子が、その「二重人格」であることに現実味を感じられずにいた。

 確かに、見た目だけで言ってしまえばはるあきそのものなのだ。

 つやめいて流れる黒髪のボブヘアーに、切れ長の瞳。

 繊細な彫刻みたいな鼻に、クリームのようにやわらかそうな唇。

 けれど──今僕は、胸の痛みを感じていない。

 こんなに至近距離にいて、苦しさを覚えない。

 心があきはるを、まったく別の人間だと認識している。


「──っていう、感じなの……」


 一通り説明が終わったらしい。

 はるはふうっ、と息をつき、かばんからわたわたお茶を取り出すと一口飲んだ。


「ご、ごめんね、話が下手で……。でも、だいたいわかってもらえたかな……?」

「ああうん、ありがとう。よくわかったよ」

「そっか、よかった……」


 ほっとしたように、頰を緩めるはる

 その表情に──僕はバグの発生したゲームをプレイしている気分になる。

 あんなにもれいな印象だったあきが、中身が変わっただけでこんな緩い空気を出せるようになるのか……。

 客観的に考えれば、やっぱり二重人格なんてありえないんだろうと思う。

 何か理由があって演技しているか、実は双子で僕をからかうためにうそをついていると考える方が、きっと自然だ。

 けれど……これまでキャラといううそをつき続けてきた僕は。

 自分のうそにも他人のうそにも過敏に反応してきた僕は、はっきりこうも感じていた。

 ──目の前のはるは、演技をしてもうそをついてもいない。

 ここまでみつにキャラを作ることなんて、ただの女子高生にできるはずがない。

 これが演技ならアカデミー賞ものだし、それをここでろうする理由もない。

 この子は本当に──二重人格なんだ。


「……そういえば」


 そこでふと、僕は今さらな疑問を覚え、


「どうしてさっき、二重人格隠そうとしてたんだ? あきの振り、しようとしてたよな?」


 尋ねてから──しまった、と思う。

 人格が分かれているなんて、考えてみればかなりデリケートな話だ。

 隠したいと思って当然なのかもしれないし、無神経に踏み込んでしまったかも……。


「あー、ええっとね」


 しかし、存外はるは平気な表情で、


「理由は色々あるんだけど、周りの人を驚かせないようにとか……」

「うん」

「でも、一番は──」


 そう言って、彼女は困ったように笑い、


「──『ひとりのわたし』で、ありたいからかな?」

「……『ひとりのわたし』?」


 どこかで覚えのあるその言葉に、心臓が一拍強く脈打った。


「うん……。その、わたしって、本当はひとりの人間のはずでしょう? 一つの身体からだで、一つの心を持っているのが、もともとの形でしょう……? なのに、いくつも顔があって性格があって、っていうのは……やっぱりちょっと、よくないなって思うんだ……」

「……そう、なのかもな」

「だから、ちゃんとわたしがあるべき姿に戻れるように。一つの身体からだで一つの心になれるように、できるだけあの子に近づきたいと思ってるの……」

「そうやってあきを演じて……メインの人格に近づけば、いつか人格って一つになるのか?」

「……そうみたい」


 少し間を開けて、赤点でも取ってしまったみたいな顔ではるはうなずいた。


「だから、がんばらないといけないんだあ……」

「そっ……か」


 相づちを打ちながら……僕は、自分の中にはるへの共感が芽生えるのを感じていた。

 ──似ているかも、しれない。

 いくつもの顔を使い分けるのではなく、一貫した自分でありたい。

 どんなときも、確固たる自分を曲げずにいたい。

 はるは、僕と同じようなことを思いながら、日々過ごしているのかも……。

 そう考えると──急に目の前のはるが好ましく思えてきて、


「わかるよ」


 自然と、頰が持ち上がってしまう。


「僕も、結構人の前でキャラ作っちゃう方でさ。……いや、もちろん二重人格とはレベルが違い過ぎるし、今は素なんだけど。でも、できればそうやって演じるのはやめたいなって思ってる。だから、はるの気持ちはよくわかるよ」

「へえ、そうなんだ……」


 はるはにへらと笑った。


「じゃあ、わたしたち、仲間だね」


 ──仲間。

 この学校で、この教室で。

 こっそりと、同じような願いを胸に抱いた仲間。

 そう考えると──気持ちがふわっと軽くなった。

 ひとりぼっちで挑んでいた戦いに、味方が現れたような気分になった。


「……応援してるよ」


 そう言う口調にも、自然と熱がこもってしまう。


はるがちゃんとあきと一つになれるよう、応援してる」

「……ありがとう」


 ほほえんでいたはるは、さらにその表情をとろけさせた。


「そう言ってもらえるだけでも、すごくうれしいよ。わたしも、君のこと応援してる」


 そして、彼女は笑顔のまま、その眉を困ったように寄せて──こう言った。


「──だから、二重人格のことは……ここだけの秘密ね?」



 自分だけが、人と比べてひどくみっともなく感じられることがある。

 例えば、ぐ過ぎる髪質。僕の髪は母親ゆずりの黒髪、ストレートヘアーだ。放っておくとぎわから下にすとーんとぐ落ちるし、うねることなんてまったくない。

 それだけ聞けば「雨の日楽でいいね」と思われるかもしれない。実際、猫っ毛のどう辺りからは「何なのその髪質! 美少女にしか許されないやつだよ! わたしの髪質と交換してよ!」なんて妬まれたりもする。

 けれど実際は、そんないいものでもないのだ。ちょっと伸びるとぺたんこになって、小学生みたいな坊ちゃんヘアーになる。短くすると、今度は頭皮からぐ立ち上がって、もはや収拾がつかない。雨の日だけでなく晴れの日も曇りの日も、この髪質は僕を悩ませるのだ。これでもくせ毛の人は、本当にこの髪質になりたいと言えるだろうか?

 ……とまあそんな具合に、僕にとってコンプレックスになっていることはいくつかあって。

 その中でも、一番気にしているのは「物持ちの悪さ」だった。

 制服にしろスニーカーにしろ筆記用具にしろ、何しろ消耗が早いのだ。

 普通に扱っているはずなのに、すべてのものが他の人の倍の速さで摩耗していく。

 どうには「生き様が雑なんじゃない?」なんて言われて、本気でショックを受けたこともあった。

 だから、


「──おはよう」


 そう言って、昇降口であきに声をかけられたとき。

 自分がボロボロの校内履きスリッパを手にしていることに気づき、ひどく気恥ずかしくなった。


「お、おう、おはよ……」


 返しながらも、内心気もそぞろだ。

 や、やっぱり気づかれたかな、スリッパ汚いの……。

 ていうか、入学して一年なのに、なんでこんなもう壊れかけなんだよ。

 底のクッションほとんど取れかけてるし、ダサ過ぎだろ……。


はるから、話は聞いたわ」


 そんな僕のあせりの彼方かなたで、あきはスムーズに靴を履き替える。


「バレてしまったのね、初日から。まあ、予想していたことではあるけど」


 あっさりその話題が出たことに、少々驚いた。

 けれど、あきの口調は普通の世間話をしているときとまったく変わらない。

 周囲には他の生徒もいるけれど、具体的な単語も出ていないし、これが「二重人格」に関する話だなんて思うやつはいないだろう。


「……なんか、ごめん」


 僕もあくまで雑談の声色で、あきにそう返す。


「別にこう、探りを入れるつもりはなかったんだけど、なりゆきで……」

「ええ、それはわかってる。はるがどういう子かは、わたしもよく知っているし」


 妹について話す姉みたいな口ぶりのあき

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