第一章 あるいは、僕らの現代的自我 ④

 あれだけ性格が違うのだし、この子にとってはるは別人格というよりも、妹に近い存在なのかもしれない。


「最初から、ちょっと難しいだろうなと思っていたの。隠し続けることなんてできないだろうって。けど、まさか初日から失敗するとは思わなかった」


 そう言って、あきはかすかに笑う。

 不意打ちのその表情に、胸が詰まるような気分になった。

 考えてみれば、朝から片思いの相手とこんな風に話せるなんてずいぶんと運がいい。

 それも、他の人に知られるわけにはいかない秘密の会話をできるなんて……。

 そして、そんな僕に追い打ちをかけるように、


君でよかった」

「……へ?」

「最初にバレたのが、君でよかった」

「……どうして?」

「だって、大騒ぎして言いふらしたりはしないでしょう。そこは、信頼できるわ」

「……そっか」


 素っ気なく返しながらも……完全に舞い上がっていた。

 ──君でよかった。

 ──信頼できる。

 それは少なくとも、好意的な評価と受け取ってもいいだろう。

 どちらかといえば、あきは僕に好印象を抱いてくれているのかも……。

 半ば強制的に、頰の辺りが持ち上がってしまう。

 重たかった教室へ向かう足取りが、軽やかになってしまう。

 ただ、


「だからそう、はるからも聞いたと思うけど、この件は漏らさないようお願いね」

「ああ、うん。それはもちろん」

「ありがとう。勝手で申し訳ないけど、あの子がそうしたいってゆずらないから……」


 彼女が続けたその言葉に、小さな違和感も抱いた。

 ──あの子がそうしたいって、ゆずらないから。

 まるで、自分はそうでもない、とでも言いたげな口ぶりに思える。

 あくまで、二重人格を隠したがっているのは、はるだけ、と──。

 じゃあ──あきはどう思っているんだろう。

 隠さなくてもいいと思っているんだろうか?

 このまま二重人格でいてもいいと思っているんだろうか?

 しかし、それについて尋ねる前に、


「じゃあ、あの子をよろしくね」


 僕らは二年四組の教室前についていた。

 もう一度小さく笑い、あきは自分の席へ向かう。

 その後ろ姿を見送りながら──もっと知りたい、と願っている自分に気が付いた。

 僕はもっと、あきのことを。

 二人の考えていることを、知りたい──。



 しかし、授業がはじまってからは、そんなのんきなことも考えられなくなった。

 こうして見ていると──あまりにも拙いのだ。

 はるによる「二重人格」の隠蔽が。


 ──移動教室に向かう途中、筆箱を落として派手に中身をぶちまけたり。

 ──ふいにクラスメイトに話しかけられ「……へぇ!? な、何!?」と素の口調で答えてしまったり。

 ──入れ替わり直後に「あれ、ここどこ……?」みたいな顔できょろきょろしてたり。


 ある程度は予想していた。

 あんなにぼんやりしたはるなんだ、きっと演技も穴だらけにちがいない。

 けれど、実際の彼女は予想をはるかに下回り、はたにもはっきりわかるほどにボロを出しまくっていた。

 もちろん、それくらいで「二重人格では?」なんて疑うやつはいないと思う。


みなさん、ああ見えてちょっと抜けてるとこあるのかも」と思われたり、「不思議ちゃんキャラ」扱いされたりするのがせいぜいだ。

 けれど、昼休み。


「じゃあ、仮入部の件考えておいてね。無理にとは言わないけど」


 と、入部を誘ってくれた手芸部員に対して、


「ええ……あきと相談しとく」


 と答えてしまうにいたり──僕は決心した。

 もうこんなの、見ているだけで寿命が縮む。

 ヒヤヒヤして、背中に変な汗をかいてしまう。

 なら、いっそのこと──、


「……あのさ」


 手芸部員が困惑気味に去ったあと、思い切ってはるに声をかけた。

 あきよそおったはるは、演技臭い無表情でこちらを見上げ、


「……な、何?」

「放課後、ちょっと話したいことがあるんだけど──」



「──僕は勝手に、部室って呼んでるんだけど」

「へー……」

「昔は、文芸部の部室だったらしい。でも、今となっては空き教室で、しかもスペアキーもベタに鴨居の上に隠してあって……だから、一人になりたいとき、たまにここに来るんだ」

「そうなん、だ……」


 相づちを打ちながら、はるはその狭い部屋の中をうろうろと歩き回っていた。

 備品を興味深げに観察し、時折手を伸ばして触ってみているはる

 あまりこういう場所に来たことがないのか、その表情はちょっと緊張気味に見える。

 ……でもまあ、それも仕方がないか。

 辺りを見渡しながら、僕は苦笑してしまう。

 確かに、この部室はちょっと異様な空間だ。

 はるの目の前。ほこりだらけの本棚には、触れれば崩れそうなほどに古びた本が詰まっている。文豪の全集に、百科事典に、何年前のものかわからない文芸雑誌。一冊だけ、色あせた二十年ほど前のグラビア誌が挟まっているのは、当時の部員の置き土産なんだろう。

 三組ほど置かれた机と椅子は、教室にあるものとは違う旧タイプだ。

 表面に彫り込まれた誰かのイニシャル、わいな図形、H13.10.29という日付。

 他にも部室内は、まだソ連がある地球儀や、一部の欠けた鳥の剝製や、グレイタイプの宇宙人が浮かび上がるホログラムステッカーが貼られたラジカセなんかであふれていて……よく言えば隠れ家、悪く言えば不要品置き場といった様相を呈していた。

 いきなりここに連れ込まれれば、驚きもするだろう。もしかしたら、変な目的があるんじゃ? なんて疑われているかもしれない。

 けれど、大事な話をするなら、これ以上の場所は校内にない。


「……ちなみに、なんだけど」


 本棚から本を抜き出し、ぱらぱらとページをめくっているはるに尋ねた。

 カーテン越しの光にはちみつ色に染められ、彼女はこちらを向いた。


「まだしばらくは、はるのままだよな?」

「うん、そうだね。えっと……今回は、十六時五十四分くらいまで、かな……」


 彼女は制服のポケットからスマホを取り出し、ぬるぬるとディスプレイに指を走らせそう答えた。なるほど、それで入れ替わりのタイミングは共有してるんだな。


「そっか、それくらい時間があれば十分だな……」

「……あ、あの!」


 はるがふいに、切羽詰まった声を上げる。


「な、なんで急に……ここに連れてきたの……? 話って、何……?」

「……ああ、それなんだけど」


 近くにあった椅子に腰掛け、僕は本題に入ることにした。

 こみ上げる照れくささを頰をかいてごまかしながら。


「……あの……よければ、えっと……」


 僕は、我ながら『らしくないこと』をはるに提案する。


「……手伝わせて、もらえないか」

「……手伝う?」

「ああ。はるの、二重人格がバレないようにする、その……手伝いを……」


 ──言いながら、心臓がゆるゆる加速していく。

 本当に僕は……なんて差し出がましいことを言っているんだろう。

 彼女のプライベートに首を突っ込んで、手伝いたいだなんて……。

 けれど、どうしても──放っておけないと思ったのだ。

 僕の目には、彼女がキャラというものに悩んでいる自分とダブって見えた。

 あんな風にはるが失敗を繰り返すのを、傍観している気にはなれない。


「……あ、あぁあ」


 ようやく緊張の解けた様子で、はるははぁあと息を吐いた。

 胸元に押しつけるようにして抱いていた『こうぼう全集 第三巻』から、力が抜けていく。


「そ、そっか、手伝う……話って、そういう……。わたし、てっきり何か怒られるのかと……って、えええ!?」


 一瞬で、その身体からだに緊張が戻った。


「え、ど、どうして……? なんで急に、そんなことを……? めんどくさいだけだと、思うんだけど……」

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