目の前に、柚月湊が立っていた。
「やっと見つけたわ、久世高の天使」
「いや……なんのことだ?」
返事は、すぐに出ていた。
意表を突かれたのは間違いない。
でもこんな展開は、もう何度もイメトレしてある。正体を隠してる以上、いつでも反射的に、自然に、否定できるように。
疑われた理由も、声をかけられた訳も、わからない。なにからなにまで、昨日からわからないことだらけだ。いい加減いやになる。
でも今は、この場を何事もなく、乗り切るのが先決だ。
冷静に対処しろよ、俺。
「変な絡み方はやめてくれ。じゃあ、俺は用があるから」
「顔に触ると、なにかわかるの?」
「…………」
今度は完全に、言葉に詰まった。
さらば、冷静な俺。顔が引きつりまくってるのが、自分でもわかる。
「な……なにを、バカな──」
「好きな人」
「っ……!」
背中にじんわり、冷や汗が滲んだ。
「わかるのは、触った相手の、好きな人?」
「……」
もう、勘弁してくれよ……。
「話があるんだけど」
狙い澄ましたように、柚月が言い放つ。
俺はとうとう観念して、早足で歩く柚月のあとを、黙って追いかけた。
久世高から東に少し歩くと、広い公園にたどり着く。
城跡を整備したこの公園は、通路に沿った桜並木で薄紅色に彩られていた。
大型の遊具があるスペースを、柚月とふたりで通り過ぎる。そうして突き当たったのは、日本最大の水溜り、琵琶湖だ。
俺たちは湖畔の草はらまで歩き、ちょうどいい岩に座って向かい合った。
遊んでいたちびっ子や、ベンチにいる老夫婦が、ちらりとこっちを見るのがわかる。
「ここで話すのか……? 目立ってるぞ、普通に」
それに、なんだかおかしな光景だ。
ただ、夕方の空と湖を背にした柚月の姿だけは、驚くほど綺麗だった。
「大事なのは、会話を聞かれないことだもの。ここなら波の音で、周りに声が届きにくいわ」
「……なるほど」
たしかに、それには俺も全面的に同意だ。
たとえ見られたって、また誰かが柚月に告白してフラれてた、みたいな噂が立つだけだろう。それくらいどうってことない。
「……でも、もし変な噂になったら、そのときは私がちゃんと否定する。それでどう?」
「え……まあ、わかった」
「ありがとう」
べつにその必要すらないが、ここは素直に頷いておこう。
なにせ、今の俺は立場が弱い。それはもう弱い。
しかし、なんだが思ってた空気とずいぶん違うな……。もっとこう、裁判みたいなことをされるのかと。
「ついてきたってことは、認めたと思っていいの?」
思いのほか緊張した口ぶりと表情で、柚月が言った。
どうやら、さっそく本題らしい。
そういえば、柚月と直接話すのは初めてだ。淡々と落ち着いていて、理知的な雰囲気がある。
さすが、学年トップクラスの才女。これで美人なんだから、以下略。
「べつに、そういうわけじゃない。お前の話を聞いて、ちゃんと誤解を解こうと思っただけだよ」
半分噓で、半分は本当だった。
俺を天使だと疑って、あろうことかちからのことにまで言及してきた、そのわけ。それをしっかり、否定しなきゃならない。このまま野放しにはできないからな。
ただ、状況は明らかに不利だ。弱みを握られてるといってもいい。
そのわりに柚月の態度が控えめなのは……まぁ、不思議ではあるけれど。
「去年の、十月」
柚月がぽつりと言った。
どうやら、恐怖の謎解きが始まるようだ。いや、マジで怖すぎる……。
「卓球部の長尾くんが、山吹さんに告白して、フラれた。覚えてる?」
その言葉で、当時の記憶が蘇る。
ああ、覚えてるとも。それは天使の、つまり俺のせいだったんだから。
「長尾くんは、お世辞にも派手っていえる子じゃない。オシャレで、男の子から人気もあるあの山吹さんとは、釣り合わない。フラれて当然。身の程知らず。それが、噂を聞いた多くの人の感想だった。そうよね」
「……だな」
そう、その通りだ。
でも、長尾は頑張った。俺の言葉を信じて、勇気を出して気持ちを伝えた。フラれたなんてのは、ただの結果にすぎない。
だが、なんで今、その話が出る?
「『天使に頼めばよかったのに』。冗談半分に、そんなことを言う人もいたわ。そうすればうまくいったかもしれないのに、無謀なやつ、って。だけど、私は思った」
「……」
「長尾くんは、天使に頼んだからこそ、告白できたんじゃないか、って」
その言葉に、全身がスッと冷たくなった。
反論しようにも、なにも言葉が出なかった。
「私はそれから、しばらく長尾くんの周りに気を配った。なにか変わったことはないか。もっといえば、天使と接触してる様子はないか。それを確かめるために」
心臓をわし摑みにされたような息苦しさに、思わず顔が歪む。
ミステリーとかの犯人は、きっとこういう気持ちなんだろうな……。
けれど、柚月はなぜか緊張したような面持ちで、湖風になびく髪を手で一度すいた。その表情は、とても犯人を追い詰めた探偵のそれには見えない。
「その日、長尾くんはある男の子と廊下ですれ違った。彼とクラスも違えば、関わりも一切なさそうなその子は、長尾くんの背中をポンと叩いた。まるで慰めるみたいに。それが──」
それが、俺だ。
長尾は俺、久世高の天使が素顔を晒した、数少ない相手のひとりだった。相談を受ける中で、どうしてもその必要が出たからだ。
気を抜きすぎた……のだろうか?
いや、そもそも怪しまれてさえなければ、あんなのはどう見ても、地味な男子同士のただのじゃれあいだ。
それに、必死に頑張ったあいつを、俺は労わずにはいられなかった。
だが俺のその行為が、天使を探してた柚月の目に止まってしまった。
「私はあなたに監視先を移した。ほかにも候補はいたけど、最有力はあなただった。そして、誰かが誰かに告白したっていう噂を集めて、あなたの行動と照らし合わせた。この半年間」
「半年……」
柚月の話は、思ってた何倍も周到だった。
単なる思いつきとか、そういう次元じゃない。たっぷり時間と労力をかけて、俺を疑ってたんだ。
地面の草を睨む俺の頭に向かって、柚月は続けた。
「そうしてるうちに、あなたにはある行為が、特別多いことがわかった。それが、他人の顔に触ること。しかもほとんどが、告白の噂に関わった人たちの、ね」
……おいおい、それはさすがに無理だろ。
正気か? この美少女は……。