今さら、那織と両思いだったから何だって言うんだ。過ぎたことじゃないか。
「だからって……そんなこと言われても……」
「純だって那織のこと──いや、それはいい。これはわたしからのお願い。わたしを那織のお姉ちゃんに戻して欲しい。それは純にしかできない。こういう方法しか思いつかないの」
紡錘状の、くりっとした目が見開かれ、僕をまっすぐに射貫いたかと思うと、ふっと視線が落ちた。琉実が誤魔化すように前髪を搔き上げる。さらさらの髪が指を滑っていく。
そうか。そうだったのか。琉実はずっと前から僕の初恋に気付いていたんだ。僕の気持ちを知っていたんだ。言おうとして吞み込んだ言葉の先に続くのは、恐らくそのことだ。
鈍い僕でも分かる。「純にはわたしじゃダメなの」ってそういう意味で言ったのか。
本当にバカだな。
そんなのとっくに気持ちに整理はつけてたよ。
それにしたって、お姉ちゃんに戻してって言うのは……わたしの問題ってそういうことか。
──だから君は僕に別れを告げたのか? その為に?
もしそうだとしたら、君は本当に馬鹿だ。とんでもない馬鹿だ。
それが那織に対して、どれだけ不誠実で失礼で、小馬鹿にしたことか分かっているのか?
「……そんなにすぐ気持ちを切り替えられない。それにこんな気持ちで那織と付き合うのって失礼すぎる」
「那織のこと、嫌いじゃないでしょ?」
「もちろん」
「だったらいいじゃん」
「よくねぇよっ。おまえなぁ、そーやって簡単に言うけど、そんなに単純な話じゃないことくらい分かるだろ? 大体……僕はまだ琉実のことを……」
「──やめて! それ以上言わないで! 何を言われたってヨリは戻さないから!」
縋るような、絞りだしたような声で、琉実はそう叫んだ。
琉実の声が、僕の鼓膜を貫いた。
琉実との会話の中に潜む寂しそうな声色。ふとした仕草に込められた意図。時折見せる翳りのある笑顔。そういうものを見つける度、僕は可能性を探った。
もう一度やり直すためには何が必要なのか考えていた。
女々しくて、浅ましくて、立ち直ることの出来ない僕に向けられた、それは琉実からの明確な拒絶の言葉だった。どうあがいても、那織と付き合わないと君は納得しないのか。
本当にそれでいいんだな?
「それで本当に後悔しないのか? 僕が那織と付き合えばそれで満足なのか?」
「……うん」琉実がゆっくりと頷く。
なぁ、琉実。君は、本当にバカだ。とんでもなくバカだよ。
那織の恋の為に。
僕の初恋の為に。
自分は身を引いた。そういうことだろ? 姉の矜持を守る為に。
今までのは邯鄲の夢だった……ということでいいんだな?
本当にバカだ。こんなことバカげてる。
「僕と別れた理由ってつまり……いや、いい」そこまで言いかけてやめた。
一番バカなのは、間違いなく僕だ。だって、琉実の最後の願いを聞こうとしているんだから。
「でも、そういうことなんだろ?」
※ ※ ※
(神宮寺那織)
蕤賓のはじまり。かくも素晴らしき愛すべき日々。
深夜まで小説を読み耽っても、明け方まで映画を観ても許される愛おしい休日。
消費せよ! 物語を消費せよ! 独り身上等。与えられた時間を目一杯使うのだ。
私は心の声に従って、初日から不規則極まりない生活を送る。厳密には前日の夜から。
ゴールデンウィーク前日の夕食のテーブルで、連休は混むから出掛けたくないなぁと零したお父さんは、久し振りに恰好良かった。父親の威厳を少し感じました。
家が大好きなお父さんと私。外出が大好きなお母さんとお姉ちゃん。
これが我が家に横たわる根深い対立構造。資本主義と共産主義。秘密警察に気をつけろ!
ん? どっちが資本主義陣営かって?
うるさいっ! 私は家に居たいんだ! 人混みになんて行きたくない! 壁を守るんだっ!
以下、私抜きの会話。
お母さんが「そうは言っても折角の休みだもの、どこか行きたいわ」と言い、お姉ちゃんが「学校のみんなは海外やら温泉やら騒いでたなぁ」なんてここぞとばかりに煽る。
「そうは言うけど、ゴールデンウィークなんてどこも混んでるぞ。遠出した帰りに、渋滞に巻き込まれるのは御免だ。運転するのは僕なんだから」
「私も運転するから。代わり番こに運転すれば良いでしょ?」
「そういえば、この前テレビでさくらんぼ狩りの特集やってた!」
「あら、いいじゃない。でもさくらんぼの時期ってもうちょっと後じゃない?」
「ハウス栽培なんじゃないか?」
父よ! 知識をひけらかしたいという欲求を抑えたまえ! そこは否定でしょっ!
「それにしましょうよ」
「でも、混んでるんじゃないか?」
そうだそうだ! もっと言ってやれっ!
「そりゃ少しは混んでるでしょうけど、そこまで遠くないしいいじゃない」
「まぁ、それくらいならいっかぁ」
威厳、無し。恰好良くない。安易な点頭は娘の信頼失うからね。覚えとけ。
我が家はいつもこうだ。雌鶏勧めて雄鶏時を作る。そのトサカ切ってやる。
「那織はどう? さくらんぼ狩り。楽しそうじゃない?」
お姉ちゃんはいつだって、こうして私にちゃんと訊いてくれる……けど。
もう行く流れじゃん。絶対行くじゃん。拒否権なんてないじゃん。そうやって物事が決まってから、ちゃんと確認してますみたいなポーズはずるいよ! ちらっと画面に映っただけの通行人が犯人だったみたいなずるさだよ!
とりあえず私のターンだけど……同意するしかないじゃん。この流れ。
「うん。いいと思うよ」
わかったよ。一日くらいくれてやろう。これも家族の平穏を保つためだ。私はちゃんと空気を読むことが出来るのだ。なめたらいかんぜよ。行きたくないけどね!
そして父よ。威厳の消滅を自覚し、自省したまえ。許さないからね。
「じゃあ決まりだね」
お姉ちゃんの嬉しそうな顔を見られたからいい。よしとする。
「そう言えば、白崎さんのとこのお父さん帰って来てるんでしょ?」
「おお、そうだな。たまには庭でバーベキューでもするか?」
いいこと言うじゃないか、父よ。娘の信頼回復に努めておくれ。
「いいね。お肉食べたい。とりあえず訊いてみてよ」これには私も積極的に意見を述べる。