麗良の瑞々しい声が耳に届き、誘われるようにそちらを見る。天馬だけではなかった。彼女の声を号令に、とろけていた男子の表情がにわかに引き締まる。
なんと現在、彼らの視線をほしいままにしているのは麗良ではない。
「今年は同じクラスですよ、やりましたね~」
飛び跳ねそうな勢いで喜びを表現している麗良に対し、
「そうね。私も嬉しいわよ」
どこか素っ気なく返している、その人物を視界に収めた瞬間。
「あっ……」
無意識のうちにぽっかり開けた大口を、閉じることができなくなった。
女子としては高めの身長だろう麗良よりもさらに大きな身丈は、すらりと細くて縦に長い。モデル体型という言葉がしっくりくる圧倒的な存在感。
腰下まで届かんばかりのロングヘアがそこに拍車をかける。不純物が一切混じっていない黒髪は、烏の濡羽色と呼ぶのが相応しく。キューティクルの光沢で覆われ、一本一本が見えそうなほどに滑らかだった。
「彼女があと半分の理由ってわけさ。名前は皇凛華さん」
「あんな八頭身、うちの学校にいたんだな」
「これ関連の情報にはホント疎いよね、矢代くんは。一定の層から絶大な支持を得ているんだよ、あの人。それこそ椿木さん並みに人気だと思うな」
「そうなの……か?」
改めて、立ち話中の凛華へ目を凝らす。
すっと通った鼻筋に、大きくて意志の強そうな双眸。凜然たる顔立ちはとても大人びて見え、半端じゃなく美人だというのはもちろん否定しないが、なんというか。
まとっている空気が冷たい。若干ヒリヒリしてくるのは気のせいか。暖かい陽だまりのような空気を振りまく麗良とは、ある種対極をなしている。
「なんか怖そうじゃね?」
「わかってないな、矢代くん。つまり……」
男と顔を寄せ合う趣味はないのだが、颯太がやけに小さな声で話すものだから必然的に顔を突き合わせざるを得なかった、そんなとき。
「──ちょっと、そこのあなた!」
紫電一閃。雑音を駆逐する声が轟いた。反射的に「すいません!」と口にしてしまいそうだったが、幸いにもそれが向けられたのは天馬ではなかったらしく。
「さっきからジロジロこっちを見てるけど、何か用でもあるの?」
「え、あ! そのぉ……」
猛禽類みたいな目で射貫かれた名も知らぬクラスメイト(眼鏡、小太り)は、完全に泡を食った様子で口をパクパク。そんな彼にきびきびした足取りで近付いた長身の女は、腰を曲げて目線を同じ高さまで持ってくると鬱陶しそうに眉根を寄せる。
「耳はついてる? 何か用なの、と聞いたんだけど」
「い、いえええ! なんにもございません。ただ、なんとなく見てただけで……」
「そう。だったら窓の外でもなんとなく見ていてもらえる? 紛らわしいから」
「は、はいいいいいい!」
首を絞められた鶏みたいに返事をした男子は、光の速度で窓際まで移動。
──こ、怖え……
天馬は戦慄した。気のせいでもなんでもない。氷の女帝とでも評すればいいのだろうか、他者を寄せ付けない絶対零度の鎧を彼女はまとっている。一仕事終えた風に前髪を払う凛華のもとへ、怖いもの知らずにも近寄っていくのは金髪碧眼の少女。
「まぁまぁ凛華ちゃん、あんまり怒らないで。今日から皆さん、同じクラスのお友達ですよ」
たしなめるように言われたが、凛華の目は依然として切れすぎるナイフのまま。
「逆にあなたは少しくらい怒った方がいいと思うの、麗良」
「そうですか?」
「そうよ」
さして驚いてもいない、むしろ人懐っこい猫みたいにすり寄っていく麗良から察するに、たぶんこれが平常運転。よくよく考えれば麗良だけではない。凛華の冷徹な振る舞いを見せつけられ、戦々恐々として然るべきはずの一室が、なぜだ、どうしてこうも。
「凛華さま、今日も素敵……!」
耳を疑う呟きに恐る恐る見れば、頰を朱色に染めている女子の集団が指を組んでのお祈りポーズ。教会でしか使用例が思いつかないそれを、なぜか凛華に捧げている。
ところ変わって天馬のすぐ近くの席では、涙ぐんで拳を震わせる男が一人。歯を食いしばる彼の姿からは言外の思いがひしひし伝わってくる。
なぜ、あの罵声を浴びせられたのが自分ではないのか……と。
悪い予感がして、凛華の命令で窓とにらめっこする羽目になったさっきの男をもう一度確認する。ハァハァ荒い息遣いでガラスを見事に曇らせていた。
「……なあ、颯太。さっき、一定の層から支持が厚いとか言ってたけど」
「わかっちゃった?」
この有様を見せつけられれば理解せざるを得ない。要するに、こうだ。
皇凛華は、怖い。だが、それが良い!
「学校っていう小さな世界でも、優しい子だけがもてはやされるわけじゃないっていう典型例だよね、あの二人。いわゆる飴と鞭的な」
言い得て妙な発言。いろいろ起こりすぎて正直ついていけそうになかったが、
「飴だけもらえれば、俺は十分満足だけどな……」
これだけは切に思う。
二人はスクールカーストの中でも最上位に位置しているらしかった。
椿木麗良は、そこにあるだけで数多の蝶を引き寄せる大輪の花。
可憐で愛嬌もある彼女の周りは、いつも華やかな声で溢れている。成績は常にトップ、皆が敬遠する厄介な仕事を進んで引き受ける献身的な性格も相まって、教師からの受けも良い。目下、次期生徒会長の有力候補とされているとか。
皇凛華も同じく人の中心にいるタイプだが、毛色はだいぶ異なる。
品行方正そうな集団を形成する麗良とは違い、ロックでパンクな面子に囲まれていることが多い。悪く言えばヤンキー臭い。軽音部でバンドを組んでおり、ギター兼ボーカルなのだと知って妙に納得させられた。熱狂的なファンも多いという話だ。
以上、容姿端麗という点を除けば相反する二人だったが、驚くことに十年来の幼なじみ。
もっとも、天馬が目撃するのは「凛華ちゃ~ん」と微笑み満点に話しかけられたにもかかわらず、「いつも元気ね、麗良」と塩対応で返すシーンばかりなので、真偽はヤブの中。
いずれにせよ、そんな上流階級と関わり合う身分にない天馬は、中流階級の一派と親交を深め、コミュニティを築き、いつも通りの平穏で生温い学園生活を送っていたのだ。
その日が訪れるまでは。
△
「ん?」
三時限目終わりの休み時間。あくびをかみ殺すのに必死だった現代社会の授業から帰還すると、自分の机の中に見覚えのない文庫本が収まっていることに気が付いた。
「忘れ物、だよな」
確か、この教室で行われていた科目は倫理。その選択者、先ほどまで天馬の席に座っていた誰かが置き忘れていったのだろう。が、周囲に持ち主らしき人物は見当たらず。
「名前でも書いてあればお返しできるけど……」
無理だよなと思いつつも、布製のブックカバーを外して表紙を確認。現れたのは「君主論」という武骨な文字と、水彩画チックな西洋人の横顔。一分で眠りに落ちそうなタイトルに、マキャベリって何人だよとか考えながらパラパラめくってみる。
「……?」
妙だ。お堅い政治本とは思えないほど、カギかっこのついた台詞が多い。
他人の持ち物を勝手にいじくるのは良くないと自覚しているが、好奇心が勝り。気が付けば適当なところで手を止め文字をたどっていた。
『友達同士だけど……仕方ないじゃない、好きになっちゃったんだから!』
やはり小説、それも恋愛物と予想がつく。暇を潰すには最適なのでその点は何らおかしくないが、なにゆえカバーをすり替えた。エロ本隠す中学生じゃあるまいしと思いながら、とりあえず斜め読みしてみたところ。
『でも、だからって……女の子同士で恋愛するなんて、そんなの変だよ!』
『なんで? 好きだと思うことに性別が関係あるの?』
途端に雲行きが怪しくなり、顔を洗う猫並みにごしごし目をこする。
そう、きっとこれは天馬が知らない世界。耳でだけなら聞いたことはある。いわゆる少女同士の恋愛事情を描いた、とある花の名前で括られるジャンル。