一章 彼女と彼女の恋愛事情 ③

「……ったく、誰が忘れていったんだ、これ」


 ため息まじりの独り言は休み時間のけんそうにかき消されていった。

 待っていれば向こうから取りにくるような気はするが、なんとなく、この本をあまり長いこと保有しておきたくない。外見上は君主論だからひとまずは安心だが。

 パッと読んだ雰囲気、親友同士が禁断の道へ踏み入ってしまう物語。本来のタイトルは何というのか。それだけがほんの少し気になり、確認しようとしたら。


「何してるの、しろくん」

「ひぃいっ!」


 耳元で名前を呼ばれたものだから、ぶっ飛んだ。


「えっと、どうしたの、その格好?」


 てんは胎児のごとく床にうずくまっていた。見上げるとそうきようしんしんな顔。


「何か隠してる?」

「いいやぁ? なーんも」


 ブレザーの内側にしっかり文庫本を押し込んでから立ち上がる。明らかにダウトな状況だったが、「ならいいけど」追及はされない。そもそも忘れ物だと素直に説明すれば済むことだったが、このときは思いつきもしなかった。


「ふぅ……そういや、そうは倫理選択だったよな?」

「そうだねー。席の移動だけで教室は変わらないから楽だよ」

「ちなみになんだけど。ここ、俺の席っていつも誰が使ってる?」

しろくんの席? えぇっと……ああ、それならたぶん」


 くいっと顎を動かして示すそう。そこには教壇の上、黒板消しをかけている日直が一名。艶やかな黒髪が揺れる。後ろ姿だけでも強烈なオーラを放つそれは、見間違えるはずもない。


「……すめらぎりん

「だったと思うよ。あ、なんなら本人に直接聞いて……」

「いい、いい、いい! やめとけって! 大したことじゃないからー!」


 すめらぎさ~んと今にもにこやかに声をかけそうだったそうを、ひとまず引きとめる。

 うわさを、聞いていたからだ。すめらぎりんの男嫌いを象徴する逸話。

 まだ入学したばかりのころ。抜き身の業物みたいな性格が知れ渡る以前は、その見た目に釣られてりんには交際を申し込む男が後を絶たなかったとか。

 しかし例外なくごうちん。「男って生き物が大嫌いなの」、そんな砲弾を面と向かって撃ち込まれトラウマを抱えた者も多数。付いたあだ名は令和の撃墜王。

 想像をした。そんなキレた女に、特に面識も持たない男が、「これってお前の本?」などとれしくも問いかけたりしたら、どのような展開が待ち受けているか。


『こんなもん私が読むわけないでしょ馬鹿にしてんのアンタ!?』


 胸倉をつかまれたてんが「しゅいましぇん!」きっつらで謝る。もはや未来予知に近い。

 クールでエレガント、それこそ帝王学でも読み込んでいそうなあの女が、よりにもよってこんなサブカル臭の強い趣味を持つはずがない。


「でも、だったらどこのどいつが……」

「なにさ。やけに考え込んでるけど、大丈夫?」

「あ、いや平気。サンキューな」


 どのみちこれ以上起こせるアクションはなく、ご本人様登場の時を待つしかない。

 ──誰かは知らんけどさっさと取りにこいよな。あーあー面倒くせ。

 そんな風に悪態をつく程度だったてんは、わずか数時間後に思い知る。

 その考えが、クリスマスケーキの上で自己主張するサンタの砂糖菓子並みにあまあまで、ぜいじやくだったということを。


     △


 同日、放課後。

 帰宅部のてんにしてみればお勤め終了を迎えたハッピーな時間帯。帰り支度を済ませて立ち上がったところで、異変は起きてしまった。

 ガシャガシャガシャーッ! としか表現できない騒々しい音。

 しやべごえあふれる穏やかな教室。突如として響いたそれに、皆等しく何事かという視線を飛ばす。てんもその一人。ぎょっとして目を向けたところで、「げっ」図らずもめんらう。


「ハァ……ハァ、ハァ……ヒフゥ~~~~……っ」


 そこにあったのは、過呼吸寸前みたいな息遣いでつうがくかばんをひっくり返し、中身をまるっきり机の上にぶちまけているりんの姿。

 ノートや参考書の上に散らばるのは、イヤホンが巻き付いた音楽プレイヤー、折り畳みのミラーにくし、化粧ポーチ、スマホ、ブランド物の長財布。制汗スプレーの缶やリップクリームは床に転がっている。なかなかの惨状、大惨事と言っても差し支えない。

 しかし、それ以上に目を引いたのは。


「ど、どこ……?」


 絶望にかすれた声でつぶやりんだった。青ざめた顔で唇を震わせ、もう何も入っていないかばんむなしくまさぐっている。普段のクールビューティーからかけ離れたきようこう。全員があつに取られていたが、当人はそんな周囲の総意など気にかける余裕すらない。かばんを放り出したかと思うと、髪を振り乱さん勢いで今度は机の中をあさはじめた。

 あまりに鬼気迫る様子だったせいもあり、声をかける者も現れない中。


りんちゃん、どうかしましたか?」


 静寂を破ったのは彼女の親友。心配そうに近寄ってきたれいの声を聞いて、りんは冷水でも掛けられたかのようにびくっと震える。


「れ、れい……」

「何かなくなってしまいましたか? お財布……は、あるみたいですね。良かったら一緒に探しますけど」

「い、いいえ、いいえ、いいえ! な、なに言ってるの? 私はなーんにもなくしていないし落としていないし、いたって正常で元気だから気にしないで放っておいて!」

「そう……でしょうか?」


 このときばかりはれいほほみも鳴りを潜め、青い瞳に疑問を宿していた。本人は全力で否定しているが、あれはどう見たって何かをなくした人間がパニックに陥った際に取る行動なのだから無理もない。そんな、疑問符一色が充満している中にありながら、ただ一人、てんだけが異なる感情をあらわにしていた。

 あちゃー……と。がっくりうなれたまま、汗ばんだ両手で顔面を覆う。

 つまりこのとき、てんは答えを得たのだ。血眼になって彼女が求める何かはきっと、今もまだてんの机で眠りにつく一冊の文庫本。

 それは同時に、新たな問題を生じさせるやっかいな展開を迎えていた。

 ──どうすんだよ、これ。

 放っておく分には無害なはずだった時限爆弾のスイッチが、ひとりでに作動してしまった気分。しろうとにはいよいよ処理が難しい。

 意気消沈して見やれば、お目当てのブツを見つけられなかったりんが、この世の終わりみたいな顔で椅子に体を預けている。あのまま昇天してもおかしくない。

 さっさと気付け。お前はその本を最後どこに持って行った。

 心の叫びをテレパシーで送り、てんは対象が動くのを待つ。さあ来い。おもむろにこちらへ歩み寄り、


『ねえ、倫理の授業のあと机に何か入ってなかった?』


 とか聞いてこい。そうすればこっちも、


『え? あーほんとだなんか入ってる。これもしかしてすめらぎさんの?』


 とか素知らぬ顔で対応してやるから。早くしろ、早く。

 念じること、数秒。ハッと何かをひらめいたように立ち上がるりん。願いが通じたのかと思ったのもつかの間、風の速さで廊下へ飛び出していった。

 拾った誰かが職員室にでも届けているのではないかと、確認しにいったのかもしれない。それで見つかったとしても困るのは彼女の方なのでは。てんは落ち着いてそう分析できるが、本人としてはそんな心のゆとりもないのだろう。


「どうしたんでしょうか?」


 憂いの表情を浮かべるれいが、散乱したりんの私物をかばんにしまっている。

 その優しさに、やっぱりあめむちならあめの方がいいよなぁと、てんは再認識するのだった。


     △



「なぜ俺がこんなことまで……」


 誰に向けたわけでもない言葉は静まり返った空気に吸い込まれる。時刻は午後六時を回ったところで、窓の向こうに見える空もすでに赤みがかった紫色。

 たそがれどきの教室は生徒のけんそうから隔離され、どこかノスタルジックな雰囲気をかもしているが、そんな情緒を楽しむ気はさらさら起きない。


「……誰もいない、よな?」


 小声で確認するまでもなく、かすかな人の気配さえ辺りには感じられず。そうわかると急に気が楽になり、ほとんどスキップみたいに目当ての机へ歩み寄る。


「ったく、手間かけさせやがって……」


 手にした文庫本はその名に違わず小さなたいだったが、心なしかずっしり重い。

刊行シリーズ

この△ラブコメは幸せになる義務がある。4の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。3の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。2の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。の書影