直接本人に手渡すのが確実だったが、なまじ時間が経っているがゆえ、なぜすぐ渡さなかったのかと問い詰められた挙句、中身を見たんじゃないのかと凄まじい剣幕で迫られること必至に思えた。そうなればシラを切り通せる自信はない。
よって正面突破は却下。代替のクレバーな案がこれだ。
かの美少女はいかなる経緯で百合小説を読むに至ったのか。気にならないと言えば噓になるが、好奇心は猫をも殺すと言うほどだし、死んでしまったら元も子もない。
だから明日になったらいつも通り、平凡な一般人として、凛華のようなアッパークラスとは関わりのない生活に戻るのがベスト。
そう心に留め、手にした本をなるべく奥へ入れようと屈んだ。
その瞬間、
「お、っと?」
パラリ。本の間から白い何かが抜け落ちた。
しおりでも挟んであったのかと思い拾い上げたが、そういうわけではない。
綴じ穴の開いた用紙。一枚のルーズリーフが小さく折り畳まれていたらしい。高校生が持っていても違和感のないその紙片に、
「? ????? ???????????」
しかし、天馬の脳はフリーズ。演算処理能力を超えた負荷に、一切の思考が停止した。
原因はそこに書かれていた、達筆な文字。というか文章。
別に見たいと思ったわけではなく、落ちたはずみで折り目が開かれてしまっていたため、手に取るだけで自然と目に入ってしまった。表題は、こうだ。
『椿木麗良を愛でるダイアリー その392』
○月◇日 朝、麗良からいつもとは違う匂いがした。「シャンプー変えてみたんです~」
そんなことを嬉しそうに言ってきたが、いえいえ、言われる前から気付いていますとも。
だって私、あなたと会話するときは分子の一つも逃さないつもりで呼吸しているし。
「……」
○月X日 ランチの誘いをまた断ってしまった。これで何度目だろう。
あーん、私のバカバカ! 印象最悪だよぉ~(これがゲームならやり直せるのにぃ……)。
でも麗良は全然気を悪くした様子もなく「また誘いますね」←かわいい♡ ちゅっちゅ。
「…………」
○月△日 麗良から新発売のアロマオイルをプレゼントされた。ラベンダーの香り。
「お気に入りで、お風呂に入れたりしてるんです。えへへ、二人でお揃いですね♪」って。
え、もうこれ結婚したようなものでしょ実質性行為だよね絶対に私のこと好きだよねそうじゃなければ私を誘惑しているとしか考えられないでしょそうでしょねえそうと言ってよ!
「………………」
うん、まあ、違うよね(落ち着け、私☆)。だってあの娘は誰にでも優しいんだからさ。
それは私が一番、よく知ってる。誰も傷つけず、分け隔てなく愛を振りまく純真さ。ときどき、その心を私だけの物にしたいと願う悪魔が現れる。浅ましい自分が憎い。できるのなら今すぐその体を抱き寄せて、首筋に私の物だという証の熱い口づけを……。
「ハアッ!?」
そこでやっと我に返る。
無駄に洗練された文体なのがいけない。考えるよりも先に文字を追っていた。
「こ、コォレハァ」
今まで一度もかいたことがない脂ぎった汗が、全身から噴き出す。
「麗良……? 口づけ……? 私の、物……」
ポエムか日記か、はたまたそのハイブリッドか。行間も空けずにびっしり書き込まれたそれはまだまだ続いていたが、これ以上読み進める気にはなれない。深淵に自ら足を踏み入れるようなマゾヒスティックな趣味を、天馬は持ち合わせていないのだから。
「…………」
何も考えず、神速で畳み直した紙を本に挟み、そのまま机の中にぶち込んだ。
天馬は鉄砲玉のように教室を飛び出し、人気のない廊下をスプリント。
足音がけたたましく反響を繰り返すが速度は緩めず、振り返ることもしない。大鎌を担いだ死神にでも追われているような気分で、一目散に疾駆していた。
そこからはどうやって家に帰ったかも覚えていない。気が付けば布団にくるまり丸くなっていた天馬は、ただひたすら「記憶よ消えろ」と海馬に指令を送っていた。
しかし、その出来事はあまりのインパクトでくっきり脳裏に焼き付いており、どんな天才外科医の手術を以てしても剝がすことはできそうにない。
代わりにできたことと言えば精々、このことは墓場まで持っていこうと決意するくらい。齢十六にしてこんな物騒な慣用句を使う機会に巡り合うとは思いもしなかった。
そんなある日の夜だった。
△
ギャップ萌えという概念が存在する。
意外性や二面性がプラスに作用することで生まれる、ときめき。
ツンデレなるキャラが典型例。強面のヤクザが捨て犬を拾うと善良な市民が同じ行為をするよりもなぜか高く評価される現象も、これに該当する。
その意味では、気の強い美人が裏で百合小説を愛読しているだなんて、ど真ん中のギャップ萌え。事実、この時点では天馬も「意外と可愛いやつなのかも」と好意的な印象を持っていたほどだったが。そこにもう一つ、こんな要素が加わったらどうだ?
その女は親友に対してベタ惚れ。友情を遥かに逸脱した劣情を、ポエミーな文章にしたためてしまうほどなのだと。ギャップと呼べるのは確かだが、ここまでくるともはや萌えの成分は行方不明。寒暖差が激しすぎて体調不良を起こすレベル。
「まぁ……あれだけ可愛けりゃ好きになってもおかしくはない……のか?」
誰にも聞こえないような声でぽつり。
四時限目が終わり、昼休みモード一色に染まりつつある教室のただ中。視線の先では今日も今日とて陽だまりのような笑顔を振りまく麗良の姿。
「凛華ちゃん、凛華ちゃん」
無邪気に親友のもとへ駆け寄り、「お昼、一緒に食べましょ?」と誘いをかける彼女は夢にも思っていないだろう。その相手から性的な目で見られているなど。
あの怪文書を見た天馬ですら半信半疑なのだから。なにせ現在、想い人である麗良からの誘いを「今日は他に用があるから」と凛華は涼やかに断っているわけで。
本日に限らずこれが日常。友好的なアプローチをかけてくる麗良に、凛華はつれない態度で接してばかり。はたから見ると心の壁を作っているようにも思えてしまう。
仲良くお喋りするだけが女子の友情ではないだろうけど、それにしたってもう少し愛想よくできないものか。何より良くないのは、あの顔。ギラついた目は獲物を狩るときの肉食獣そのもの。殺気に近いプレッシャーが対峙した者をあまねくすくみ上がらせる。
実際こうして、はたで見ているだけの天馬でさえ背中に冷たい汗をかいており。
「ん?」
憮然とした表情でカツカツ歩く凛華の姿が、どうしてだろう、視界の中でにわかに大きさを増したと思っていたら、次の瞬間には、
「矢代天馬、だったっけ? あなた」
机に、ばちん、と。はっきり音が立つくらい勢いよく手のひらを叩きつけ、腰を曲げ、鼻先が触れそうなほど顔を近づけてきた。
「は……イ?」
その二文字を発するのが精一杯。天馬は頰杖を突いたまま固まる。
眼前には人形みたいに整いすぎた相貌。鼻孔をくすぐるのは薔薇の香り。それらを感じ取ることのできる距離まで凛華に接近したのは初めて。テレビでしか知らなかった芸能人を生で見たのに近い感覚。たぶん、遠巻きに見るより十倍は迫力がある。
「ちょっと話があるの。ついてきてもらえる?」
「え?」
心の奥まで見透かされていそうな褐色の瞳から目を離せず、何を言われたのか理解するまで間ができる。ただ、ざわざわと周囲の空気が騒ぎ立つのは肌で感じていた。
それもそのはず。奇異の目をたしなめる以外の目的で彼女が教室内の男子に話しかけることなど、知る限り今日まで一度もない。事件に等しい。
なぜ天馬がその当事者になってしまっているのか?
思い当たる節などもはや一つしかない。だが、どうして……
「ねえ?」
「はっ!」
スゥーっと。吹き付けられた生暖かい吐息で意識を取り戻す。
「ついてこいって言ってるんだけど。オッケーよね?」
「あ、いや……」
いつの間にやら命令形にコンバートされている。有無を言わさぬ物腰に気圧されつつも、とにかく今は頭の中を整理する時間が必要と英断。
「悪い、無理だ。これから学食で飯食おうって話になってて……な、なあ、颯太?」