一章 彼女と彼女の恋愛事情 ⑤
明確なSOSだったが、呼ばれた男は「ん?」と
ただならぬ雰囲気で肉薄する
よしそうだ、それでいい、今すぐ俺を連れ出せ、と。
「大丈夫! 僕のことは気にしないで
「おいぃ!」
爽やかに言い切り、ファインプレーでも決めたように
「拒否する理由はなくなったみたいね」
くいっと。顔を廊下の方に振って見せる女。ちょっと
「ま、待てよ。話があるって言うならここで聞くからさ……いいだろ?」
鋼の意志。断固としてこの場を離れない。
「行くわよ」
それもうたかたの夢。問答無用とばかりに手首をつかまれ、ひねられ、
「ひぃー!」
女の細腕とは思えない万力じみた握力を発揮したまま、
春の嵐はいつだって突然だ。
痛い離せわかった自分で歩くからと半泣きになって訴える
永遠にも思えたランデブーが停止を迎えたのは、別棟の視聴覚室。そこでようやく拘束を解かれたが、次の瞬間にはグイッと首根っこをつかまれ、背中へ張り手を食らわされる。もつれる足でステップを踏み、ずっこけるのをなんとか回避。
ガチャリ、嫌な音に振り返れば案の定、後ろ手にドアを
「お前! いったいどういうつもり……!」
あまりに横暴な振る舞い。正直、
「ヒェッ……」
密室と化した空間で救いの手を差し伸べてくれる神父がいるはずもなく。
待て、話せばわかる。そんな命乞いの言葉を発する暇さえ与えず、真正面で仁王立ちする長身の女はくすんだ瞳を凶悪に
「顔はやめてぇっ!」
反射的に目をつぶる。同時に、交差した両腕で
しかしいくら待っても、一方的な暴力が
「これ、知ってるわよね?」
「今朝、机の中に入ってたのよ。あんたが入れたんでしょ」
「…………」
知らんと返そうとした言葉も、高圧的な下目遣いであえなく封殺。身長的には対等くらいなのだが、
「ほん……っと、馬鹿したわよね、私も。冷静になって考えれば、すぐわかるのに」
はぁ、っと。不幸の黒猫でも呼び寄せそうな闇色のため息を吐き出した
「セクハラまがいのジョークをかますしか能のないハゲ
自戒の念を表すためか、
「へえ? な、な~んだ……クンシュロンじゃなかったんだ、その本?」
傷口を最小限に抑える処方箋。ただ単に忘れ物を返却しただけ。自分は何も知りはしないのだと。
「とぼけるんじゃないわよぉ!」
「ごめんなさい!」
あっさり降参。繰り出された
「直接返しに来なかったのは、何か後ろめたい思いがあったから。つまり……中身を見たんでしょ。違う?」
「う……」
図星も図星、ど真ん中を貫かれて反論の
「……そ、そうです、そうだよ、その通り!」
自暴自棄になった
「こうなるのが一番嫌だったんだ! これだからプライド高いやつは面倒くせえ!」
「鼓膜が痛いから大声出さないで!」
「そっちも大声だろ! こっちはこの件を穏便に済ませたいだけなんだよ!」
「いいか? たかが同じクラスってだけで友達でもない、それどころか今の今まで一度も話したことすらなかった女のことなんて、俺は別にどうだっていいし。ましてやそいつがどんな本を読んでどんなエキセントリックな趣味を持っていようがぜん…………っぜん興味がないから、安心しろ! 絶対に、誰にも、言わねえよ!」
一息で言い終えた
「そう、良かった。安心したわ」
「な、なら、もう用は済んだ……よな?」
ふぅ、っと。熱を冷ますように息をつく。
なんだかんだで、うまくいった。よくやった。
なにせこのままいけば、触れずに終わらせることができる。一番危険な部分には。
「じゃあ、俺はもう行くからな」
一方的に言い捨て踏み出す。頼む、何も言うな、決して呼び止めるな、このまますんなり解放してくれ。商品を隠し持った万引き犯はこんな気分なのだろう。しかし、
「もう一つだけ聞いてもいい?」
空気を一瞬で凍り付かせるような声音に
「この本……中に何か、挟まってたりしなかった?」
「ッ……!!」
ドクン、と。破裂しそうに音を立てた心臓が、熱い血潮を送り出すのがわかった。
恐怖に支配された体は硬直、小指の先すら動くことはない。
駄目だ。これは一種のカマかけ。
「何かって……」
例のアレを指しているのは、瞬時に理解できた。問題はどう答えるのが最善か。顎を引いた
「……ッ」
まずった。何を悠長に時間をかけている。
どんな策を選ぶかは重要じゃない。選んだ策を全うするのが重要。
「何か、入ってたのか?」
自信を持てと自分に言い聞かせる。事実、最初の時点では日記の存在など知らなかったのだ。



