一章 彼女と彼女の恋愛事情 ⑤

 明確なSOSだったが、呼ばれた男は「ん?」とげんそうに振り向く。覚えのない約束に同意を求められたのだから当然だが、大丈夫。察しのい彼なら話を合わせてくれるはず。

 ただならぬ雰囲気で肉薄するりんと、それにたじろぐてん。奇妙な構図に戸惑いつつも、そうはしばらくして「あっ」と何か気が付いたように口をすぼめる。

 よしそうだ、それでいい、今すぐ俺を連れ出せ、と。てんは内心ほくそ笑むのだが。


「大丈夫! 僕のことは気にしないですめらぎさんを優先してよ、しろくん」

「おいぃ!」


 爽やかに言い切り、ファインプレーでも決めたようにそうはサムズアップ。きらめく瞳は「楽しんできてね」とでも言いたげ。どうやら彼のお節介スキルが発動したらしい。


「拒否する理由はなくなったみたいね」


 くいっと。顔を廊下の方に振って見せる女。ちょっとつらァ貸せや。表出ろよ。不良漫画で頻出のフレーズがお似合い。従ったらひどい目に遭いそうなので、なけなしの勇気を振り絞る。


「ま、待てよ。話があるって言うならここで聞くからさ……いいだろ?」


 鋼の意志。断固としてこの場を離れない。せつこうで固められた像にでもなった気持ちで、不動の構えを敷いたのだが、


「行くわよ」


 それもうたかたの夢。問答無用とばかりに手首をつかまれ、ひねられ、められ、引っ張られる。突如降って湧いた女子との触れ合いに心躍らせる余裕もなく。


「ひぃー!」


 女の細腕とは思えない万力じみた握力を発揮したまま、りんはダンプカーのように発進。てんの体をどこまでも、どこまでも引きずっていくのだった。

 春の嵐はいつだって突然だ。あらがすべはない。



 痛い離せわかった自分で歩くからと半泣きになって訴えるてんなどにもかけず、終始無言を貫いたりんは一段飛ばしで階段を上り、大股で渡り廊下を通りすぎる。

 永遠にも思えたランデブーが停止を迎えたのは、別棟の視聴覚室。そこでようやく拘束を解かれたが、次の瞬間にはグイッと首根っこをつかまれ、背中へ張り手を食らわされる。もつれる足でステップを踏み、ずっこけるのをなんとか回避。

 ガチャリ、嫌な音に振り返れば案の定、後ろ手にドアをじようしているりん。拉致という表現がここまでしっくりくる状況もそうそうない。


「お前! いったいどういうつもり……!」


 あまりに横暴な振る舞い。正直、てんは頭にきていた。ムッとしていた。ここは男らしくガツンと言ってやろうと怒鳴ったが、その気力が持ったのも数秒。


「ヒェッ……」


 まばたきもせず、カッと大きな目をさらに大きく見開いた女が、一歩、また一歩とにじり寄ってきていたのだから。猟奇殺人鬼に追いつめられたときのような絶望感。

 密室と化した空間で救いの手を差し伸べてくれる神父がいるはずもなく。まどぎわまで追いつめられ、もはや捕食されるのを待つしかない子羊と化したてん

 待て、話せばわかる。そんな命乞いの言葉を発する暇さえ与えず、真正面で仁王立ちする長身の女はくすんだ瞳を凶悪にすがめる。

 られると本能で察したのもつかの間、ビュンと風を切って拳が突き出された。


「顔はやめてぇっ!」


 反射的に目をつぶる。同時に、交差した両腕でわいくもない顔面を精一杯守るポーズ。

 しかしいくら待っても、一方的な暴力がてんの体を痛めつけるようなことは、なく。


「これ、知ってるわよね?」


 りんの声。おっかなびっくりガードを下げてみると、眼前に突きつけられていたのは手のひらサイズの本。君主の道を説くとおぼしきその表紙には見覚えがある。


「今朝、机の中に入ってたのよ。あんたが入れたんでしょ」

「…………」


 知らんと返そうとした言葉も、高圧的な下目遣いであえなく封殺。身長的には対等くらいなのだが、てんは猫のように背中を丸めて縮こまり、一方のりんはピンと背筋を伸ばしたモデル立ちなため、このような構図になっていた。


「ほん……っと、馬鹿したわよね、私も。冷静になって考えれば、すぐわかるのに」


 はぁ、っと。不幸の黒猫でも呼び寄せそうな闇色のため息を吐き出したりんは、鬱陶しそうに耳へかかった髪を払う。


「セクハラまがいのジョークをかますしか能のないハゲやまの授業を、少しでも快適な時間にしようと携帯したのがこの『欲望のヴァージン』だったのに……すっかり頭から抜け落ちていたわ。まったく、動揺っていうのは人類を滅ぼす魔物ね」


 自戒の念を表すためか、りんは大げさに肩をすくめる。あの小説、そんな十八禁めいたタイトルだったのかよときようがくするてんだったが、言葉には出さず。


「へえ? な、な~んだ……クンシュロンじゃなかったんだ、その本?」


 傷口を最小限に抑える処方箋。ただ単に忘れ物を返却しただけ。自分は何も知りはしないのだと。うそはつけんも欺くくらいの精神で、シラを切り通そうとしていたのだが、


「とぼけるんじゃないわよぉ!」

「ごめんなさい!」


 あっさり降参。繰り出されたしようていは頰をかすめ背後の窓ガラスに突き立てられた。視界一杯に映るのはふんの形相。壁ドンなる行為をされるのは初めて。この場合は窓ドンか。どちらにせよ少しもうれしくない、エモさのかけらもない初体験だ。


「直接返しに来なかったのは、何か後ろめたい思いがあったから。つまり……中身を見たんでしょ。違う?」

「う……」


 図星も図星、ど真ん中を貫かれて反論のすべを失い。


「……そ、そうです、そうだよ、その通り!」


 自暴自棄になったてんは、ほとんど泣きべそをかくように思いのたけをぶちまける。


「こうなるのが一番嫌だったんだ! これだからプライド高いやつは面倒くせえ!」

「鼓膜が痛いから大声出さないで!」

「そっちも大声だろ! こっちはこの件を穏便に済ませたいだけなんだよ!」


 きゆう猫をむ。追いつめられたてんの中ではリミッターが外れていた。


「いいか? たかが同じクラスってだけで友達でもない、それどころか今の今まで一度も話したことすらなかった女のことなんて、俺は別にどうだっていいし。ましてやそいつがどんな本を読んでどんなエキセントリックな趣味を持っていようがぜん…………っぜん興味がないから、安心しろ! 絶対に、誰にも、言わねえよ!」


 一息で言い終えたてんは短距離走のあとみたいに肩を上下させつつ、思った。捨て鉢になって出た発言だが、もしかしたらこれが一番えたやり方だったのかもしれない。

 りんのむくれた表情が崩れることはなかったが、その片眉がぴくりとけいれん


「そう、良かった。安心したわ」


 さやに刀を納めるように、ようやく突き出していた手を引き、体も一歩下がる。人類にとっては小さなその一歩が、今のてんにとっては大きな一歩。


「な、なら、もう用は済んだ……よな?」


 ふぅ、っと。熱を冷ますように息をつく。

 なんだかんだで、うまくいった。よくやった。てんは自画自賛していた。

 なにせこのままいけば、触れずに終わらせることができる。一番危険な部分には。


「じゃあ、俺はもう行くからな」


 一方的に言い捨て踏み出す。頼む、何も言うな、決して呼び止めるな、このまますんなり解放してくれ。商品を隠し持った万引き犯はこんな気分なのだろう。しかし、


「もう一つだけ聞いてもいい?」


 空気を一瞬で凍り付かせるような声音にかれる。叫ばれたわけでも、怒号を浴びせられたわけでもないのに、てんの体は挙動を停止。


「この本……中に何か、挟まってたりしなかった?」

「ッ……!!」


 ドクン、と。破裂しそうに音を立てた心臓が、熱い血潮を送り出すのがわかった。

 恐怖に支配された体は硬直、小指の先すら動くことはない。

 駄目だ。これは一種のカマかけ。りんはきっとてんの反応を見極めている。ならばこんな、いかにも狙い撃ちを食らったかのような姿をさらすのはまずい。

 いたボルトで関節を留められたようにギシギシ骨を鳴らし、振り返る。


「何かって……」


 例のアレを指しているのは、瞬時に理解できた。問題はどう答えるのが最善か。顎を引いたりんの顔は黒髪のカーテンで覆われ、感情を読み取ることはできない。


「……ッ」


 まずった。何を悠長に時間をかけている。

 どんな策を選ぶかは重要じゃない。選んだ策を全うするのが重要。


「何か、入ってたのか?」


 自信を持てと自分に言い聞かせる。事実、最初の時点では日記の存在など知らなかったのだ。

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この△ラブコメは幸せになる義務がある。4の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。3の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。2の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。の書影