一章 彼女と彼女の恋愛事情 ⑦

 昼休みをフルに使い泣きじゃくったりんは現在、部屋の隅っこで膝を抱えての体育座り。水をやり忘れてしおれた朝顔のようにぐったりこうべを垂れていた。


「おい、その……」


 視聴覚室の角へすっぽり収まり消沈する女のもとまでやってきたはいいものの、てんはなんと声をかければいいのかさっぱりわからず。


「生きてる、か?」

「……」


 答えはない。長すぎるストレートの髪は床に黒い川を作っていた。泣いた赤鬼という童話のタイトルがなぜか思い浮かんだが、どんな内容だったかは思い出せない。

 現実逃避していても仕方ないので、とにかく、床に落ちていたネクタイを拾い上げ、持ち主に差し出してみる。


「ほらこれ、締め直せよ。五時限目、もうすぐ始まるぞ」

「……」

「赤い目のままだと戻りにくいから、さっさと泣きやんだ方がいいって」

「……」


 対象は沈黙。一向に動く気配がない。こうなったら一発ショック療法でもかましてみようかと思い立ち、不本意ながらも実行に移す。


「非常に申し上げにくいんですけど……さっきからお前パンツ丸見えだぞ」

「死ね」


 ダメもとだったが効果は抜群。粘着性のジト目で仰ぎ見てきた女は、釣り上げられたように立ち上がる。やっぱりこいつタッパあるなぁとされるてんの前で「ズズーッ!」恥じらいなく鼻をすすった後、袖で顔をごしごし。涙の痕を消そうとしているらしい。

 一通り拭い終えると、てんの手に垂れ下がっていたネクタイをぶっきらぼうに引っつかみ、首には巻かずブレザーのポケットへ押し込んだ。シャツもしっかりボタンを留め直す。

 そして、それから。

 居心地悪そうに目を泳がせたが、最終的にてんをロックオン。マッチが載りそうなくらい長いまつ毛は朝露にれる花弁のよう。不服そうに口をとがらせ、もの言いたげな視線で、しかし何も言わぬままにらみをかされる。


「ごめんな、いろいろ」


 無言の圧力に屈したてんは、もう何度目かわからない謝罪。さっきまではむしろ自分が被害者だと思っていたのに。そんな考えはすっかり吹き飛んでいた。女性の涙がこんなにも強力だなんて知らなかった。ずるい、きようだと訴えたところで、裁いてくれる者はいない。


「なんで、謝るのよ」

「勝手に見たのは事実だし……本の中とか、挟んであったやつとかもろもろ

「わざとじゃないって言ったじゃない。あれはうそ?」

「本当だけど」

「なら必要以上に謝ることないでしょ。そういう内罰的なの、ウザい」

「ああ、うん…………え、あれ?」


 会話がスムーズに成立していることに、違和感を覚える。


「なに不思議そうな顔してんの」

「いや……ビンタの一発はらうと覚悟してたからな」

「…………」


 されたいの? とでも言いたげに右手をグーパーさせたものだから「冗談、冗談です!」即刻訂正。


「勘違いしないで欲しいんだけど……さっきはちょぉ~っと取り乱しただけで。私って、もともとは理知的で大人しいんだからね?」


 先ほどの落ち込みぶりはどう見てもちょっと取り乱したというレベルではなかったし、普段のりんを大人しいと表現するのもしっくりこないが。野暮なツッコミはなしにしよう。


「言われなくてもわかってるよ」


 実際、好奇の視線に対して威嚇することは多々あれども、物理的に手を出すシーンは一度も見たことがない。その意味では安全……なのか?


「ふぅん? あっさり納得されるとそれはそれで気に入らないわね」

「無理やり突っかかるのはよせ」

「はぁ……まったく」

「な、なんだよ?」


 大仰に首を振って見せたりんは、片頭痛をこらえるようにこめかみへ手を添えてしまった。


「どうしてよりにもよってこんな、ザ・普通みたいな何の特徴もない地味な顔した能天気でえない凡愚に、私のトップシークレットが…………ああ~、不幸だわ」

「言葉の暴力って、知ってるか?」


 切り裂くやいばてんの心をでまわした自覚もない女は、


「いいえ……この際ポジティブに考えましょう」


 パチン、と。いかにもなしたり顔で指をはじく。


「一人で何を盛り上がってる」

「むしろこの点は不幸中の幸いだったとも言えるわ」

「だから何が」

「知られたのがあんたみたいな人間で良かったって言ってるの」

「……って、え?」


 出し抜けに前傾姿勢を取ったりんがずいっと顔を近付けてきて、てんは腰を引く。


「黙ってて、くれるんでしょ? 私に関して見知った、全てを」


 こうさいと瞳孔の境まではっきりわかる距離。とびいろのグラデーションの中にはてんの顔がはっきり映し出されているのに、なぜだろう。それはまるでもっと遠く、さらに向こう側の景色を見つめているように思えた。

 くわけでも、脅しをかけるわけでもない。ただ純粋に見定めようとしている瞳。目の前にいる一人の男が信用に値するのか。真実を口にしているのかを。


「あ、ああ……約束、するよ」


 吸い込まれそうなそうぼうを前に、てんは夢遊病のようにぼおっとしていた。


「……よし! なら何も問題はないわね」


 ふんす、と。満足げに鼻で息をしたりん。口元には笑みを浮かべ、夕立が過ぎ去り傘を放り出した子供のようにもろ手を上げて伸びをしている。


「切り替え早いのな、お前……」


 数分前の自我喪失はどこへ。釈然としないてんは渇いた目でまばたきを繰り返す。


「秘密がばれたって言ってもたった一人なんだから。あせる必要ないでしょ」

「あのな、こっちはハナっからそう言ってんのに……」


 どこかの誰かさんが勝手に我を忘れたりするからややこしくなったんだろ……と。

 憎たらしい気持ち全開でりんに視線を送るのだが、


「言いたいことがあるなら大きな声で言ってもらえる?」


 見事にかえされてしまったので、恨み言は口の中でつぶすしかなかった。

 こうして直接言葉を交わすうち、てんの中にぽつりと生まれた感覚。もしかしたら自分はすめらぎりんに対する認識を改めなければいけないのかもしれない。見た目通りに切れ味鋭いのは確かだが、理不尽な怒りを振りまいているわけではない。それに、何より……


「否定も何も、しないんだな」

「何が?」

「いや、なんつーか……」

れいのこと?」


 黙ってうなずきを返す。


「今さら変に隠し立てしたって仕方ないでしょ。私はれいのことが大好き。好きすぎて頭が沸騰しそうで、痛い独白を文章にしちゃうくらい」


 否定はおろか、気の迷いだったとはぐらかすことすらなく、だからといって開き直るわけでもない。そこから感じたのは彼女の強い信念とぐな心。


「もしもあのを悲しませる人間がいたら絶対に許さないし。万が一でも傷付ける人間が現れたら、この世全ての苦痛を味わわせたあとに東京湾へ沈めるわ。そして私も死ぬの」

「いや生きろ! 親分殺されたヤクザかてめえ!」

「わ……悪かったわね。それくらい好きって言いたかったのよ」


 りんの耳にカッと赤みが差し、舌打ちみたいな破裂音が聞こえた。今日だけでいくつ彼女の新しい表情を見ただろうか。数えると片手では足りない気がする。


「恋をすると人間って変になるもんなの。あんたも経験あるでしょ?」

「ない」

「カァーッ! 何よそんな死んだ魚の目ぇしちゃって。乙女の純な秘め事をことごとく手中に収めたくせして、自分のことはなーんにも話そうとしないのね?」

「そうじゃなくって……」


 チッと今度は正真正銘の舌打ち。煮え切らないてんの態度が、くすぶっていたはずの怒りに新たな火種を与えてしまったようだ。


「言っとくけどォ! あんたがさっき『お前の気が済むんなら何でもするから!』って宣言したの聞き逃してないからね?」

「……ハハ」


 聞く耳など持たなかったくせして、都合のい部分だけはしっかり覚えている。


「あなた様のお怒りが静まるようならどんなご命令にも従います、首輪をはめられた飼い犬のようにでも、奴隷のようにでもなんなりと……そう言ってたわね、確か」

「言うかボケぇ! 悪乗りしてねつぞうするのはやめろ!」

「似たようなもんでしょ。何でもするってそういう意味なんだから。いい? やる気も誠意もないなら、そんな台詞せりふ軽々しく口にするんじゃないわよ」

「俺だって無責任に言ったつもりは、ひとつも……」


 できる範囲でなら力を貸してやりたいと、本気で思っていたからこそ出た言葉だ。


「ならあんたの好きなやつの名前教えなさいよ」

「はぁ?」

「あとその子を思って書いた詩集と小説を全編読ませなさい。そうすれば気が済む」

「お前なぁ……」

「今言ったやつ全部こっちは見られてるのよ? 不公平でしょ」

刊行シリーズ

この△ラブコメは幸せになる義務がある。4の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。3の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。2の書影
この△ラブコメは幸せになる義務がある。の書影