1.呪いの言葉と青い塔 ②

「分かった。これ、百年くらい前に東の小国で研究されてた数学理論だな。解けない命題として一部で有名だった」

「解けないんですか!?」

「当時はな。十年くらい前に解かれてる。この塔の魔女は随分と博識のようだ」


 オスカーは手を伸ばして石板に触れる。指の触れた箇所がうっすらと白く光った。その軌跡を頼りに答えを書きこんだ直後──巨大な石板は砂となって崩れ落ちる。同時に足下で蠢いていた蛇たちもまた、幻のごとく消え去った。

 砂の山だけが残る踊り場を、オスカーは感心の目で見回す。


「なるほど、こういう感じか」

「……やっぱり帰りませんか?」

「駄目。面白くなってきたし」


 機嫌よく通路を登り出す主人を、ラザルはあわてて追いかける。塔の頂はまだはるか遠くだ。



 最上階の窓から流れこむ風は、いつもどこか乾いている。

 あちこちに本の積まれた床、雑然とした広い室内に声がかけられた。


「久しぶりの挑戦者がいますよ、マスター」


 戸口に立ってそう言うのは、姿形だけを見れば五、六歳の小さな子供だ。

 肩までの白い髪に薄青い瞳。整った顔立ちをしているが表情に乏しく性別は分からない。感情の感じられない声はどちらかというと、人形を連想させるものだ。

 子供の姿をした魔女の使い魔は、誰もいないテーブルを見つめる。そこには湯気の立つお茶のカップだけが置かれていた。一時間前からそこにあるお茶は、けれどまったく冷める様子がない。

 いるべき人間だけが欠けた光景。にもかかわらず、答えはすぐに返ってきた。


「挑戦者なんて珍しい。もうみんなこの塔のことを忘れたかと思ってた」

「一月前もおりましたよ。最初の石板が解けずに時間切れになりましたが」


 塔内の仕掛けは定期的に変えられているが、最初の試練があの問題になってから一つも突破できない挑戦者が増えた。大陸最難関とまで言われる塔で、まさかいきなりあんな問題を解かされるとは思っていないのだろう。加えて元々挑戦者も少ないので、塔の主人が勘違いするも無理はない。

 使い魔は、遥か階下にいる挑戦者たちの気配に意識を合わせる。


「この度の挑戦者は、順調に登っていらっしゃっているようです。様子をご覧に行かれますか?」

「行かない。全てはここに辿たどりついてからだ」

「左様で」


 魔女は歴史の影に潜むべきものだ。彼女が所在を明らかにしているのも、この塔の試練を越えられる人間が滅多に出ないからで、それを自ら踏み越える気はない。

 彼女は涼やかな声でうたう。


「お行き、リトラ。挑戦者が失敗した時にはいつものように」

「かしこまりました」


 乾いた風が吹く。リトラと呼ばれた使い魔が姿を消すと、魔女は天井に逆さに浮いたまま首をかしげた。開いたままの本を押さえてつぶやく。


「順調に登ってきてるって言っても、みんな大体、最初の守護獣辺りで詰むんですけどね」



 両刃の剣がの喉元を貫く。

 予想していた飛沫しぶきはかからない。真白い獅子は、侵入者に飛びかかろうとした姿勢のまま、造り物のように床へと崩れ落ちた。オスカーは剣を抜きながら、馬よりも一回り大きい体をのぞきこむ。


「やけに白いと思ったら本物じゃないのか。魔法で動く守護獣か何かか?」

「こんな大きな獅子がいたら恐いですし、まったく怯まない殿下も恐いです……」

「いい準備運動になった。次は何が来るんだろうな」


 獅子のいた広間を抜けると、そこは再び塔の通路だ。オスカーは吹き抜けになっている塔の中央部を見下ろす。いつのまにかかなりの高さにまで到達していたようだ。思わず気の遠くなりそうな階下の光景を、しかしオスカーは何の恐れもなく眺める。


「落ちたら死ぬかな」

「そんな端に寄らないでください!」

「下で待ってればよかっただろう……」


 振り返るとラザルは壁伝いに恐る恐る歩いている。あの調子ではいつまでっても最上階にはつかないかもしれない。だがラザルは、表情だけは必死に訴えた。


「殿下一人を死なせるわけにはいきません!」

「誰が死ぬか」


 オスカーは抜き身の剣を軽く振る。ここまで来る間に、いくつもの仕掛けや守護獣と思しき魔物がいたが、彼はそれらを難なく切り抜けてきている。そろそろ塔の中程は過ぎたはずだ。

 当初一番の心配だった塔自体の高さは、仕掛けを解くと次の階に自動転送されるようになっており、今のところ大した影響がない。一方の仕掛けは、体力、瞬発力、判断力、頭脳を満遍なく必要とし、試されているのだ、ということがありありと伝わってくる。


「本来は何人かで組んで登るものなんだろうか」

「二人で登る物好きなんていませんよ……」

「最後の達成者は俺の<外字>祖父だったって?」

「あの時は十人で登ったらしいですね。行き着けたのは当時の国王陛下だけだったようですが」

「なるほど……」


 彼は空いている方の手で顎に触りながら思案する。

 ──七十年ほど前、この塔を登りきった<外字>祖父、当時のファルサス国王レギウスは、「達成者」として魔女の助力を得た。しかし、そこにはそれなりの代償もあったらしい。今ではとぎばなしとして子供たちの間でのみ語られる話である。


「今のところは楽勝だがな」

「帰りましょうって!」

「お前だけ帰れ。役に立ってないし」


 きっぱり言われてラザルはさめざめと泣いた。

 そんな会話をしているうちに次の扉はもう目前だ。五階を過ぎた頃から、試練は通路の踊り場でなく区切られた一つの部屋に置かれるようになった。

 オスカーが何のためらいもなく扉を開けると、人の二倍はある翼の生えた石像が二体、部屋の中央に置かれている。子供が見たら泣き出しそうな光景に、彼はのんな感想をこぼした。


「近寄るといかにも動きそうだな、あれ」

「絶対! 動きますって! 帰りましょう!」

「お前本当に外で待ってろ……」


 彼が息を整えて剣を構えるのと、石像の肌が艶やかな黒に変わっていくのはほぼ同時だ。うつろながんあかい光がともる。

 二体の石像は、音もなく巨大な翼を羽ばたかせると、空中に浮かび上がった。

 オスカーが左手だけで指示すると、ラザルがあわてて壁際に下がる。

 ──その直後、石像の一体が彼めがけて飛びかかってきた。

 もうきんるいが獲物を襲うように黒い魔物は風を切って急降下する。鋭いかぎづめが体を引き裂こうとする寸前で、しかしオスカーは素早く左に飛びのいた。

 だが、そこまでを予測していたかのように、もう一体が彼の眼前に回りこんでくる。


「おっと」


 突き出される爪を剣で受け流しながら、彼は二体の間をすり抜けて背後に回った。無造作に、しかし圧倒的なりょりょくを以て最初の一体の片翼を切り落とす。

 翼を切られた石像は、耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げた。体勢を崩しながら床へと転がる魔物へ、オスカーは更に剣を振るう。そこまでがほんの一瞬の出来事だ。



「マスター、挑戦者は石像の間まで到達しました」


 使い魔の声が投げかけられると、お湯を沸かしていた魔女は軽くほほむ。


「それはすごい。何人?」

「二人……いえ、実質一人です」


 なかなか驚くべき事実に、彼女は片眉を上げた。

 ここ数十年、数人がかりでもそこまで到達した者はいなかったのだ。

 しかし石像の間を一人で何とかするのは無理だろう。宙を飛ぶ俊敏な敵二体が相手では、誰かが片方を引きつけておかなければ、もう一体とはまともに戦えない。今まででもっとも多く脱落者が出たのもあの部屋なのだ。


「お茶を用意しようかと思ったのに無駄になったかな。せっかくだから敢闘賞でも出しとこうか?」

「あっさり突破されそうですよ」

「……え?」



 すさまじい絶叫が広い部屋に響き渡る。

 右目に剣を突き立てられた魔物は、金切り声を上げてのたうった。

 もう一体の魔物は既に床に伏している。動きを止めた巨体は徐々に黒い粒へと分解され、その粒もまた宙にせつつあった。

 残る一体は、右目から黒い液体を流しつつも左腕を振るう。傷つけられた怒りのこもる一撃は、食らえば即死を免れないものだ。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影