2.繰り返し触れられる過去 ④

 もっとも、城内で言えば彼よりもオスカーの方が遥かに問題行動が多い。とかく単独行動が好きな王太子は、抜け出し常習犯でもあるのだ。城内にいると言って本当に居続けているか分からない。


「なあ、殿下には誰かついているのか?」

「警備は必要ないとおっしゃられた。もう少し信用して頂きたいけど……」

「殿下には警備より見張りが必要だと思うんだけどな……。けどまあ確かに、警備に関しては不要なのかもな。殿下の方がお強いし」


 アルスは肩を竦めると、ふと気づいて手を打った。


「ああ、メレディナは自分が警備につきたかったのか」

「そんなんじゃないから」


 頰を膨らませる彼女の横顔は、少女の頃から変わらない。アルスはこの幼馴染が、主君である王太子に憧憬めいた感情を持っていることを知っていた。

 明るい夜空には星が見え始めている。大通りを歩いてきた二人は城の濠沿いに差しかかった。

 ──けんそうを引き裂く悲鳴が聞こえてきたのは、その時だ。

 甲高い女の叫びに、二人は駆け出す。声の主は濠の縁に両手をついて水面を覗きこんでいた。


「子供が……子供が!」

「落ちたのか!」


 女は真っ青な顔でアルスを見ると、ただ呆然と頷いた。


「アルス!」


 メレディナが彼の襟に手をかける。その手に任せて、彼は上着を脱いだ。剣帯ごと長剣を外すと、ためらいもなく濠の中へ飛びこむ。

 祝祭用の光源があるとは言え、水中は薄暗い。アルスは目を凝らしながら底へと潜っていった。

 濠の深さは大人の身長で約四人分だ。流れはないが、その分見通しが悪い。泥が光に照らされて蠢くだけの視界を見回しながら、アルスは焦りを覚えた。一度息継ぎに上がろうかと思いかけた時

 ──ぼんやりと光っていた光球が、急にその光量を増した。

 光は届く範囲をあっという間に広げ、闇を浸食してまるで昼のように水中を照らす。

 アルスが突然の出来事にぎょっとしながらも周囲を見ると、少し離れたところに二歳くらいの男の子が漂っていた。彼は意識のないその体を抱えると、水を蹴って上昇する。水上に顔を出して、息をつくと、周囲からわっと歓声があがった。


「メレディナ、頼む」


 アルスは子供の体を押し上げると、メレディナがそれを引き取って介抱を始める。蒼白な顔色の母親に向かって彼女は言った。


「大丈夫。脈はあるし、水はほとんど飲んでないみたい」

「あ、ありがとうございます!」


 母親は泣きながら二人にお礼を言うと、子供の体を抱きしめる。そのまま母子は駆けつけてきた医師に付き添われ、念のため診療所へと去っていった。

 アルスは彼らの後ろ姿を見送りながら、ずぶ濡れの服の裾を絞る。


「いやー……酒飲んでなくてよかったな……」

「当然でしょ」

「視界がかなり悪くて焦ったんだよ。ああ、そういえば……ここの光作ってる魔法士は誰だ?」

「──私です。不注意で申し訳ありません」


 声を大きくしてのアルスの問いかけに、人だかりの中から白い手が上がる。そうして進み出てきたティナーシャを見て、アルスは一瞬忘我してしまった。濡れ髪を手でかき回す。


「……ああいや、そうじゃなくて……光強めてくれて助かった。ありがとう」


 ティナーシャは黙って頭を下げる。彼女の頭越しにアルスが向こうを見ると、騒ぎを気にしていたのか、隣を担当していたローブ姿の魔法士が、紋様の彫られた手を挙げて彼の視線に応えた。

 周囲の人々がばらけ始めると、メレディナは預かっていた剣帯を持ち主に差し出す。


「とりあえず着替えなさいよ」

「ああ……分かった」


 二人は詰め所に向かって歩き出す。濠から大分離れたところで、アルスはようやく声を上げた。


「びっくりしたぞ! 何だあの美少女。前から城にいたか……?」

「魔女の塔にいた魔法士らしいわ。殿下がお連れになったの」


 メレディナは不吉な言葉を口に出すように声を潜める。


「あ、ああ! 話は聞いたことあるな。なるほど道理で」

「何が道理でなの」


 アルスは首を振って髪についた水滴を払った。隣にいるメレディナに飛沫がかかり、彼女は迷惑そうに顔を顰める。


「いや、殿下は女に執着しない性質だと思っていたから、その話を聞いた時に意外に思ったんだよな……でもあれなら無理もないか」

「何が無理もないのよ!」

「嫉妬は醜いぞ、メレディナ」


 メレディナは思いきり後ろからアルスの背中を殴りつけた。



 祝祭が続く夜の中、ティナーシャは城の上空に漂いながら、眼下の街を眺めていた。

 様々な色のあかりが溢れる街はさながら、漆黒布の張られた宝石箱のようだ。ティナーシャは黒いドレスの裾を風になびかせながら、手の中の紙鳥に息を吹きかける。露店で売られていた飾り物のそれは、白い羽を小刻みに震わせた。


「ティナーシャ!」


 下から彼女を呼ぶ声は契約者のものだ。魔女は回廊に立つ彼に気づくと、ゆっくりと降下する。


「貴方、目いいですね」

「お前の周りはぼんやり明るく見えるぞ」

「ええ? なんですかそれ」


 魔法迷彩こそかけていないが、下から見つけにくいようにわざわざ黒い服に着替えたのだ。不思議そうに自分の体を見回すティナーシャに、オスカーは笑った。


「楽しみにしてたのに、祭りを見に行かなくていいのか?」

「もう見てきましたよ。ちゃんと照明も維持してますし。ついでに濠に誰も落ちないように空気で壁作ってあります」

「何だそれは」


 濠での一件は、まだオスカーにまで報告がいっていないらしい。彼は無造作に魔女を手招いた。


「こっちも仕事が一段落したから遊びにでも行くか。街を案内してやる」

「それ、もしかして城を抜け出そうっていうんじゃないですよね。駄目ですよ。何のために事前の警備計画を立ててたんですか」

「毎年抜け出してるから平気だ」

「うわあ……」


 こういう性格だから魔女の塔に二人だけで来てしまうのかもしれない。

 ティナーシャは音もなく彼の隣に降り立つと、また紙鳥に息を吹きかけた。ファルサスでは珍しくもない玩具で遊ぶ魔女に、オスカーは面白そうな目を向ける。


「どうしたんだそれ」

「子供がみんな持ってたので気になって。楽しいです」


 ティナーシャはそう言うと紙鳥に口付ける。途端白い鳥は、まるで生命を得たかのように大きく羽ばたくと夜の中を飛んでいった。遠ざかるその姿を目で追った魔女は、広がる景色に目を細める。


「街がすごく綺麗ですよ。全ての光の下に人がいるなんてうそみたいです」


 穏やかな微笑みを見せる彼女の頭をオスカーはゆっくりと撫でた。


「塔を下りたがあったか?」

「ええ」

「ならよかった」


 彼のそんな口ぶりは、まるで自分の方が彼女の面倒を見ていると思っているかのようだ。ティナーシャはくすくすと笑いながら、再び浮かび上がろうとする。

 だが、その手を急にオスカーが摑んで引きおろした。


「ちょ、何を……!」


 文句を言おうとしてティナーシャは、彼の肩越しに向こうからラザルが走ってくるのに気づく。


「殿下! 大変です!」


 ラザルの動転した様子を見て、二人は不思議そうにお互いの顔を見合わせた。駆けてきた青年は、ティナーシャに気づくと驚きの声を上げる。


「ティナーシャさん、こんなところにいらしたんですか! 今みんな貴女あなたを探してますよ!」

「え」


 ばつの悪い顔になったティナーシャの頭を、オスカーがぽんぽんと叩く。


「遊んでるからだ。説教だな、きっと」

「それどころじゃないんですよ! 人が殺されました!」

「え?」


 ラザルの言葉に今度は二人の驚きの声が揃った。



 ラザルが二人を案内してきたのは、普段人のほとんど通らぬ城下の路地裏だ。

 薄暗い行き止まりに、兵士や魔法士たちが集まっているのを見て、オスカーは声をかけた。


「死体は見られるか?」

「殿下……こちらです」


 人の中から宮廷魔法士長のクムが現れる。彼はオスカーを手招くと地面に掛けられた黒い布を持ち上げた。──そこにあったのは人間の原型を留めていない、ただの黒焦げの肉塊だ。


「うっ……」


 ラザルを初め、遺体を見てしまった人間たちが口元を押さえて後ずさる一方、オスカーは平然と、ティナーシャは目を細めて、かつて人間であったものを観察した。オスカーが周囲に問う。


「誰だか分かっているのか?」

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影