2.繰り返し触れられる過去 ⑨
彼女の返答にオスカーは喉を鳴らして笑いながら別の書類に手をつけていく。ペン先をインクにひたしたところで、彼はあることを思い出して顔を上げた。
「そういえば、お前も精霊術士ってことは、純潔じゃなくなると魔女の力もなくなるのか?」
ティナーシャはテーブルを拭きながら、「あぁ、その話ですか」と微笑んだ。
「それ本当なんですけど俗説です。実際は性交渉を行うと魂が混じりやすくなるんで、精霊魔法の実行に以前の数倍の魔力を要するようになるだけです。でもそうなると実際ほとんどの術者は精霊魔法が使えなくなっちゃうんですね。簡単なものだったら別ですが……。殺害に使われたリマスも彼女自身が調合したんじゃないでしょうか。あれは構成自体は簡単ですから」
彼女はそこで言葉を切ると、テーブルを拭き終わった布を畳んでお茶の盆まで置きに行く。手ぶらになると執務机の前まで戻ってきて肩を竦めた。
「私なんかは元々の魔力量が違うんで、あまり困らないんじゃないですかね。精霊魔法しか使えないわけじゃないですし。そりゃかなり大きな術を使う時には苦労しそうですが」
「ほう、それはよかった」
そこまできて、ティナーシャはようやくオスカーの意図に気づいてハッとした。慌てて机を回って彼に詰め寄る。
「いや今の噓。困ります。かなり困る。魔法使えなくなっちゃいますよ」
彼はティナーシャの必死さも意に介さず、からかうように笑っている。
「そうなったらそうなったでいいじゃないか。俺がちゃんと責任とって守ってやるぞ」
「よくないから!」
その時──執務室の扉が激しく叩かれた。兵士が一人駆けこんでくると、息を切らせて叫ぶ。
「魔法士殺害のため投獄されていた女が自殺しました!」
それを聞いてティナーシャが息を
フューラにあてがわれた小さな部屋には、既にクムとアルスも到着していた。
部屋の中央には、うつぶせに倒れた女がそのままになっている。彼女は右手に小瓶を握っており、辺りには血が僅かに飛び散っていた。
「殺害に使われたのと同じリマスを服用したようです。食事を絶っていたのか吐瀉物はありませんでしたが、目と鼻から血が出ていました」
「持ち物を調べなかったのか?」
「調べたのですが、その時は発見できなくて……」
見張りの兵士が状況を説明している間、ティナーシャはフューラが握り締めている小瓶を覗きこんだ。白い指を伸ばして、瓶の口にのこっている
他の者は皆オスカーを中心に集まっており、彼女の行動を
皆に指示を与えたオスカーは、部屋から出てすぐ、廊下で待っていた彼女に手招きされた。小柄な魔女に応えて身を屈めると、ティナーシャは軽く背伸びして耳打ちしてくる。
「フューラの周囲をもう一度調べさせた方がいいです。あの毒薬を作ったのは彼女ではありませんでした。彼女にはおそらく協力者がいます。──あるいは、別の目的を持つ黒幕が」
オスカーは真面目な顔で頷くと、兵士に命令を出すために部屋の入り口に戻っていく。
一人になった魔女は深い溜息をついて、その場を離れた。
再度の調査により、一月ほど前からフューラの周りに怪しい老人が出入りしていたということが報告された。更にフューラが自殺した当日、やはり見慣れぬ老魔法士が城内を歩いていたことも。
それらの証言を付き合わせると、どうやら同一人物ではないかという結論になったが、肝心の老人の足取りは摑むことができなかった。不穏の残る結末に、オスカーは気分の悪さを覚える。
フューラの遺骸は、ティナーシャが引き取ってどこか遠くの森に埋葬してきたようだ。
男のために力を捨て、そして自分の矜持のために男を殺した孤独な魔法士にティナーシャが何を見たのか──彼女は結局、何も語ることはなかった。



