3.夜の透明 ①

 よく晴れた日の午後、ファルサス城のせんとうの上には一人の少女が浮いていた。

 正確に言えば彼女は少女ではない。三百年以上続く「魔女の時代」を代表する一人、「青き月の魔女」ティナーシャだ。この二つ名は、かつてまだ彼女が塔に棲んでいなかった頃、月のえとした夜に限って現れていたからという説もあるが、定かではない。

 ティナーシャは風に乱れる髪を押さえて、使い魔からの報告を受けていた。その調査は彼女が塔に棲むようになる以前からかかさず続けているものだが、芳しい報告が帰ってきたことは一度もない。どんな報告を待っているのかでさえ、長い時の中であやふやに思える時もある。

 魔女は目を細めて地平の彼方を見やる。遥か遠くに青い塔が小さく見える気がした。


「またお願い」


 首を撫でてやると、灰色の猫の姿をした使い魔は心地よさげに喉を鳴らす。

 ──もうずっと無駄なことをしているのかもしれない。きっとそうだろう。

 彼女は自嘲の色も濃く微笑む。

 けれど、それでも魔女は世界に使い魔を放つ。とうに死んでいるだろう、一人を捜して。



 宮廷魔法士は、出仕している時間の多くを講義の聴講と自身の研究にあてているが、それとは別にあちこちから集まる細かい依頼を分担して消化していかなければならない。

 それら依頼は、毎朝講義室の廊下側の壁に難易度別に貼りだされているのだが、本来魔法士しか見ないはずのそこを、今は王太子が興味津々に覗きこんでいた。彼は傍らにいる守護者を手招く。


「ティナーシャ、面白そうだからこれを引き受けてみよう」

「なんで貴方が決めるんですか……」


 苦い顔になった彼女の正体は、この大陸最強の魔女だ。彼女の力量ならどの依頼であっても簡単にこなせるだろう。そう思って一枚を手に取ったオスカーは、内容を読み上げる。


「城都内での転移陣の設置だそうだ。実働期間は約一か月。城下に遊びに行けるぞ」

「遊びじゃなくて仕事ですからね!」


 ティナーシャは彼の手から紙を受け取った。真剣に文面を読む姿は、美しい少女にしか見えない。通りすがりの魔法士たちがそんな彼女に見惚れているのに気づいて、オスカーは内心苦笑する。

 ──彼女の塔を訪ねることを決めたのは、五年も昔だ。

 自身に振りかかった呪いと向き合うために、彼がひたすらに勉学と剣の修行を続けていた頃のこと。「登りきれば願いを叶えてくれる」という塔の話は、彼にとってそれこそ魔法のように思えた。

 その日から彼女に会うことは一つの目標でもあって……だが実際の彼女は、想像からかけ離れたただの少女に見える。「魔女」の名から連想されるように悪辣でも理不尽でもない。口煩くちうるさくはあるが、それは面倒見の良さの裏返しだ。オスカーは小柄な彼女の頭に手を置く。


「面白そうだから俺もついてく。お前を一人にするとさらわれそうだしな」

「猫の子じゃないんだから平気ですって! どさくさに紛れて城を出ないように!」

「と言われてもな……何かあってからじゃ遅いだろう」


 息を吞むほどの美貌に華奢な体つきは、不心得者の野心を誘うには充分だ。もし目を放して彼女が危険な目にあったら、契約者である自分の責任に他ならない。

 真剣に心配するオスカーに、ティナーシャは呆れた目を向けた。


「貴方の目に私がどう見えてるのか、一回ちゃんと話し合いたいですね」

「目は悪くないから大丈夫だ」


 彼女は善良で、頭が回って、我欲が少ない。きさきとしてはこれだけ満たしていれば充分だ。加えて彼女といるのは楽しい。ファルサスの臣民でないせいか、遠慮のない態度にかえって息が抜ける。

 ──だから後は、彼女の気が変わるのを待つだけだ。

 そんな内心を隠しもしないオスカーに、ティナーシャは溜息をついた。


「ともかく、せっかく選んで頂いたのでこれを消化します。でも貴方は城にいるように。一人で充分ですから」

「あ、こら」


 オスカーは反射的に手を伸ばしたが、彼女の姿は詠唱もなく搔き消えてしまう。転移されたのだろう。離れたところで見ていた魔法士が、その技術に啞然としていた。

 取り残されたオスカーは、こめかみを搔くと踵を返す。どの道仕事は山積みなのだ。今のやり取りで少しは気分転換になった。彼は雲一つない窓の外を見上げる。

 そうして機嫌よく去っていく王太子の背を、魔法士たちは珍しいものを見るように見送った。



 ファルサスの気温は、日に日に上昇傾向にあるようだ。

 熱気にうだる城の訓練場で、アルスは若い兵士たちに稽古をつけていた。祝祭の一週間後で気が抜けているのか暑さのせいか、いまいち皆に締りがない。一旦休憩を取らせるべきか説教をすべきか迷っていた時、アルスは城の方から誰かが歩いてくるのに気づいた。

 近づいてくるその人物が誰だか分かって、彼は意表を突かれる。


「ティナーシャ嬢、殿下の使いか何かか?」

「何故私が」


 彼女は長い髪をまとめあげ、動きやすい軽装の上下を着ていた。むき出しになっている膝から下が異様に白くて、アルスは日焼けしないかと心配になる。

 ティナーシャは両手を組んで伸びをした。


「仕事は終わらせましたし、ちょっと日頃の生活に鬱憤がまっていまして……。体を動かしたいんで、差し支えなければ私にも稽古をつけてください」

「また殿下に苛められたとか」

「あの性格は誰に似たんですかね」


 忌々しい、といった身振りで彼女は首を振ってみせる。

 ──彼女がオスカーのお気に入りで、ことあるごとに構われているのは一部の間では既に有名だ。

 ある者は微笑ましく、ある者は気の毒そうにその様子を見守っているが、クムなどは折角城に精霊術士が入ってきたのに、オスカーがその力を失わせてしまわないかと気をんでいるらしい。

 ほっそりした彼女の立ち姿に、兵士たちが気を取られているのが分かってアルスは苦笑した。


「ちょうど休憩にするつもりだったから、俺が稽古つけよう」

「感謝します」


 彼が兵士たちに休憩を言い渡すと、兵の半数は詰め所に戻ったが、残りの半数は見物に残った。ティナーシャはその中の一人から練習用の剣を借りる。

 アルスは幼馴染が非番であったことに安堵しながら、自分も練習用の剣を手に取った。


「剣は初めて?」

「昔ちょっとやったことがあります」

「それは意外」


 アルスは剣を構えると、準備運動も兼ねてゆっくりと彼女に打ち下ろし始めた。

 ティナーシャはそれを一合、二合と受けていく。勘のいい滑らかな動きは、かなり腕の立つ人間のものだ。徐々に剣の速度を速めてみると、難なくついてくる。

 ──これはメレディナより上かもしれない。

 幼馴染の不機嫌な顔が思い浮かんで、思わずアルスは背筋が寒くなった。

 メレディナは性格のせいか真っ向から打ち合おうとするが、ティナーシャは相手の剣を正面から受け止めず、ほんの少し方向を逸らせて流している。小柄で非力な己の戦い方をよく分かっているのだろう。それをしながら彼女は、相手の体勢が崩れる瞬間を狙っているのだ。

 これが実戦なら、ティナーシャは機を見ると同時に素早い動きで剣を突きこんでくるだろう。

 もちろん実戦なら彼も負ける気はないが、他の兵士たちを相手にするよりは遥かにてこずるに違いない。──そんなことをアルスが考える間にも、剣の速度は増していく。興味半分で集まっていた兵士たちは、若い魔法士の腕に啞然としていた。


「……少し試してみるか」


 アルスは剣に乗せる力を不意に増した。まともに受ければ手がしびれ、剣を取り落としてしまうであろうほどの力。それだけの威力をもって、彼の剣はティナーシャに打ち下ろされる。

 彼女はしかし、その一撃に退くことはしなかった。合わせるように自ら前へ出ながら、体を半身にし剣を斜めにする。そのまま彼女は刃の上にアルスの剣を滑らし、強烈な打ちこみを左にさばいた。

 直後彼女は、もう一歩を踏みこむ。剣を持っていない左肘をアルスの手首に叩きこんだ。

 力はないが、速度に乗った打撃。関節への適切な狙いに彼は思わず剣を取り落としそうになった。慌てて柄を摑みなおす間にティナーシャの剣が喉に向けて突き出される。


「……っ!」


 向けられる切っ先を目前に、アルスは咄嗟に彼女の剣の腹を左手で払った。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影