3.夜の透明 ②
体重を乗せた突きを逸らされた彼女は、だがそのまま上体を屈めつつ右に跳ぶ。そうして横に
ティナーシャは更に、一歩外側に跳んで距離を取ると、振り返って笑顔を見せる。
「今のは危なかった」
「ちょっとやってたって腕じゃないぞ……。魔法士やめてこっちにきても充分やってけると思う」
これだけの動きができるということは、稽古事として剣を習っていただけではないだろう。実戦において剣を振るったことがあるはずだ。彼女の動きは、確かに積み重ねた経験がその裏にあると感じさせた。
「ありがとうございます」
ティナーシャはにっこり笑う。その笑顔に底知れぬものを感じて、アルスは苦笑いをした。
※
講義室に響く魔法士の声は、朗々としたものだ。
「四百年前に一夜にして滅びた魔法大国トゥルダールと共に、一部の魔法はその手法が絶えてしまったわけだが、今現在確認される魔法の大半に共通することは、術者が個の認識を強く持つことが出発点であるということだ。液体の入った硝子瓶のように自身を意識することで、世界に個として相対しながらその構成を通して現象に干渉する、それが魔法の第一歩である」
午前中の魔法概論の講義には、二十人ほどの出席者が集まっている。
ティナーシャが一番後ろの列で興味深そうに講義を聴いていると、後ろの扉が開いてカーヴが入ってくる。彼はティナーシャに気づくと手を挙げて挨拶し、隣に座った。
「面白い?」
「結構」
彼女は指の間でくるくるとペンを回す。ティナーシャにとって誰かに魔法を習うことなど、魔女になる以前まで遡らなければ記憶にない。こうして理論を聞くだけでもなかなか新鮮だ。
だが、そんな講義を妨害するように、上方から騒がしい足音が聞こえてくる。講義室は吹き抜けになっており、上階の廊下から室内の様子を見下ろすことができる作りだが、その廊下を誰かが騒ぎながら歩いてくるのだ。
何か危急事だろうか、とティナーシャが見ていると、やってきたのは脂ぎった壮年の男だ。彼は後ろを歩く文官たちに、ひっきりなしに小言を言っている。そのうるささに講師も一旦弁を止め、皆が上を見上げた。しかし男はそれに気づかず、階下の講義室に一瞥もくれないまま歩き去る。
「何ですか、あれ」
ティナーシャの呟きにカーヴが答えようとした時、講義が再開され二人は集中し直した。
彼女がその答えを知るのは、結局三日後のことになった。
※
王太子であるオスカーの部屋は、城の奥まった一画にある。私室に帰ってきてすぐ窓を叩かれたオスカーは呆れながら鍵を開ける。露台に立っているティナーシャを招き入れた。
「お前、ドアから来い」
「誰かに見られると
「今更という感じもするが」
ティナーシャは嫌そうな顔をすると部屋に入ってきた。
「今日は随分遅かったですね」
「仕事を増やすやつがやってきてたからな……。ああ、頼まれたものだ」
オスカーはテーブルに戻ると、その上に置いてあった書類の束をティナーシャに差し出した。それらは彼女が閲覧を希望していたもので、先日殺害されたテミスの研究の詳細な内容だ。発表されたものから極秘の未発表情報まで、全てが大量の書類に記されていた。
「ありがとうございます」
ティナーシャは礼を言って紙の束を受け取ると、ぱらぱらと
「フューラの周囲で目撃された老魔法士は、まだ見つからないそうだ。探させてはいるが……」
「その人が城に侵入して毒薬を差し入れたと思っていいでしょうね。けど、単なる私情のもつれへの介入にしてはやりすぎです」
だからこそ、ティナーシャは気になってテミスの研究を
「ただ実は、他にも少し引っかかる人間がいるんです。気のせいかもしれませんけど」
「引っかかる? どんなやつだ?」
「祝祭の時、通りすがりの魔法士に忠告されたんですよ。『面倒事に巻きこまれるから、持ち場を離れるな』って」
ティナーシャが濠の前ですれ違った男のことを説明すると、オスカーは眉を寄せた。
「また妙な話だな。けど、城内で目撃された人間とは別人だぞ」
「それなんですよね」
濠の前で見た男は、オスカーと同年代の若い男だ。明るい茶色の髪で、銀髪の少女を連れていた。一方、フューラの周りで目撃された魔法士は、フードを目深にかぶった老人だったという。
にもかかわらずティナーシャが謎の青年を気にしているのは、彼が自身の魔力を隠蔽していたからだ。あの男本来の魔力は、魔女ほどではないが普通の宮廷魔法士を
「一応使い魔に探させてるんで、見つかったら締め上げてみようとは思ってます」
「まったく関係ない人間だったら、突然魔女に締め上げられて驚くだろうな」
「そんなの知りません。なんだったら記憶消しといてあげますよ」
用心してし過ぎるということはない。自分に力が足りないとは思っていないが、不測の事態にも対応できるよう剣の稽古も再開したのだ。極端な話、今オスカーが死ねばファルサス王家は断絶する。それをただ傍観できるほどティナーシャは冷淡な人間でもなかった。
真剣な魔女に微笑して、オスカーは置かれていた水差しから陶器の杯に水を注ぐ。それに口をつけて、しかし彼はすぐに杯を離した。不審そうに中身を見つめる。
「何だこれ、変に甘いぞ」
「え?」
ティナーシャは書類を置くと、オスカーのところまで行って一緒に杯の水を覗きこんだ。
「砂糖水ですか?」
「そんなはずはないが……」
嫌な間が生まれる。ティナーシャは引きつった顔で契約者を見上げた。
「飲んだ?」
「一口な。でも別に異常は──」
そこまで言って彼は急に言葉を切ると、まじまじとティナーシャを見つめた。全身を注視する視線に、ティナーシャは怯んで一歩後ずさる。
「な、何。何ですか」
「いや……」
オスカーは口元を押さえて少し考えると、テーブルの上の書類を指差した。
「お前あれ持ってっていいから、今日はもう帰れ」
彼はそう言うと横を向いてしまった。明らかに不自然な態度に、彼女はむしろ詰め寄って問う。
「何故ですか? ちょっとおかしいですよ。こっち向いて理由を話しなさい」
魔女はふわりと浮かび上がると、オスカーの肩を摑んで揺さぶった。
「何を飲んだ? 吐け」
「いいから帰れ」
「首絞めますよ?」
魔女は横を向いたままの彼の顔を両手で自分の方に向ける。
一瞬の沈黙。ティナーシャは、彼の青い瞳に自分の顔が映るような錯覚を覚えた。
無意識にそれを確かめようと目を凝らす彼女の体を、オスカーは抱き取る。髪の中に差しこまれる大きな手。彼はティナーシャの頭を引き寄せると、唇に口付けた。
言葉が消える。魔女は平然と顔を離すと、緩やかにまばたきした。
「何? 冗談?」
オスカーが手を離すと彼女は音もなく床に降り立つ。その頭を軽く叩きながら彼は顔を顰めた。
「何か盛られた。多分
「…………」
重い沈黙が落ちる。ティナーシャは啞然として固まりかけたが、我に返ると声を荒げた。
「わ、私じゃないですよ!」
「それだったら意外性のある展開で面白いんだが。残念だな」
「全く面白くない!」
寝台に腰掛けたオスカーを見ながら、ティナーシャは素早く対策を思案した。
ただの媚薬なら彼の言う通りこのまま帰っていいだろうが、万が一違う効果も伴った魔法薬であった場合、ここで対処しないことが後で致命的な結果をもたらすかもしれない。
──とりあえず構成を解析するしかない。そう考えたティナーシャは、けれど不意に腕を摑まれて寝台に引き倒された。
「おーい、落ち着けー」
「だから帰れと言ったのに」
オスカーはいつものからかう調子ではなく、痛みを堪えるように顔を顰めている。
初めて見る彼のそんな表情に、ティナーシャは冷や汗を滲ませた。自分を組み敷いている男の下から逃れようと体をよじるが、体格差からどうにもならない。



