3.夜の透明 ③
──こうなったら一度吹っ飛ばして気絶させようか。そんなことを考え出す彼女に、オスカーは真面目な表情で顔を寄せると、右の耳朶に口付ける。
「今ふと気づいてしまったんだが……」
「何ですか」
魔女は白い目でオスカーを見返す。
「別にここで我慢しなくても、俺には支障があまりない」
「あるよ! 私にある! 天井まで吹っ飛ばしますよ!」
「適当にやってくれ」
ティナーシャは小さく溜息をついて目を閉じると、オスカーの額に自分の額を触れさせた。触れた部分から魔力を注ぐ。閉じた目の中に、彼に侵入している魔法構成が紋様となり浮かび上がった。
円環が三つ。強力だが、単純な構成。
彼女が力を込めて意識した瞬間、それらは跡形もなく砕け散った。
彼の下から解放されると、ティナーシャは問題の水差しを手に取った。
「だから守護結界は毒には効かないって言ったじゃないですか! 気をつけてください。これからは私が先に口をつけますよ」
「お前に媚薬が効いても俺は止めないぞ」
「私に魔法薬は効かないんですよ!」
魔女は真っ赤になって怒ったが、叫んだ分だけ冷静になって首を傾げる。
「それにしてもまったく仕掛けてきた意図が分からないんですが……。本当にただの媚薬でしたよ」
「俺には一人心当たりがある。証拠がないが」
オスカーは、彼にしては珍しいことに嫌悪の表情を
「じゃあ証拠を摑みましょうか」
ティナーシャは口の中で短く呪文を詠唱すると、残る媚薬に構成を注ぎこむ。その構成に反応して、空中にうっすらと糸状のもので描かれた立体が浮かび上がった。
三つの円環で構成されたそれに、ティナーシャは更に詠唱を少し加える。
「少し待っててください。これの製作者を割り出します」
「そんなことができるのか」
「できないと思ってるでしょうね。これを仕込んできた人間は。かなり昔に途絶えた術なので、この構成を知っているのはもう私しかいないはずです」
ティナーシャが少し詠唱を加えるたびに、立体は少しずつ形を変えてくるくると回る。
「私にとって未知の術者なら分かりませんが、知っている人間の中にいるなら、誰が作ったか分かりますよ。ほら……って……」
答えが分かったティナーシャは、一層顔を顰めて回る立体を眺めた。
※
面倒事があっても日々の仕事は減らない。だからオスカーにできることは、面倒事を増やしてくる相手を排除するくらいがせいぜいだ。
執務室で書類を処理していた彼は、ティナーシャが淹れたお茶を、礼を言って受け取る。
ちょうどその時、扉が叩かれた。呼び出していた人間が来たのだ。
「お呼びとのことで参上致しました」
おずおずと入ってきたのは魔法薬を専門とするカーヴだ。オスカーは杯に入った水を差し出す。
「これに覚えがあるだろう? 飲むなよ」
カーヴは歩み出てそれを受け取ると、まじまじと眺めて匂いをかいだ。きょとんとした顔から、音を立てて血の気が引いていくのを、ティナーシャが面白そうに眺める。
「何故殿下がこれを……」
「誰かが俺の部屋の水差しにいれたようだ」
「え……え!?」
動転した声を上げ、カーヴは代わる代わるオスカーとティナーシャを見る。その視線をオスカーは無表情で受け止め、ティナーシャは眉を顰めて頷いた。
カーヴはその意味を理解すると、ティナーシャに向かって激しく頭を下げる。
「申し訳ありません! まさかそんなことに使われるとは……! ティナーシャさんにはどう謝っていいのか……!」
「いや、そこまで謝らなくてもいいですけど」
「でもこれ、一番強力なやつですよ! 少しでも飲んだ瞬間、理性は
真っ青なカーヴの言葉に、ティナーシャは目を丸くするとオスカーに向かって拍手した。
「すごい! えらい!」
「もっと
無邪気に手を叩く魔女の姿を可愛らしく思いつつ、オスカーはカーヴに向き直る。
「で、誰に頼まれて作った?」
カーヴは少しだけ
「パスヴァール公爵です。殿下の叔父君です……」
オスカーは予想していた通りの答えに、頭痛を覚えた。
※
現国王のケヴィンは、三人兄弟の長男である。
彼には弟と妹が一人ずついたがどちらも既に故人だ。宰相をしていた弟は先月病死し、元々体の弱かった末の妹は、嫁いで数年後に亡くなっている。彼女は、かつてファルサスを震撼させた連続失踪事件で子供がいなくなり、その心労で急激に衰弱してしまったのだ。
彼女の夫であったパスヴァール公爵は有名な俗物で、妻の死後はその遺産で城都から離れたコラスの地に館を建てていた。そこで人目もはばからず自堕落な生活を送っていたそうなのだが、つい先日の祝祭後から、何故か城都内の
そんな彼に、皆は陰口を叩きつつも、表面上は姻戚の一人として丁重に扱っていた。
その夜、屋敷に戻ったパスヴァールは、酒瓶を手に部下からの報告を受けていた。
「例の薬は効いたかどうか分からんのか?」
「仕込みは完璧ですが、何分そこまでは……」
「まぁいい、結果をゆっくり待つさ」
部下を下がらせると、彼は
「あの生意気な小僧が、精霊術士を傍に置いてるとはな。今頃自分で台無しにして青い顔してるかもしれん。あの話が本当で、女が死にでもしたら更にいいな」
「──あの話ってどんな話ですか?」
突然かけられた女の声に、パスヴァールはぎょっとして振り返った。大きな窓の外、闇の中に冴え冴えと青い月が浮かび上がっている。
その冷たい光の下、一人の少女がいつの間にか部屋の中に立っていた。
彼女は白すぎて人形にも見える美貌に、酷薄な笑みを浮かべている。
「その話、私にも聞かせていただきたいです」
冷え切った刃のような声。パスヴァールは、本能的な恐怖に自分の声がうわずるのが分かった。
「お、お前は誰だ! どこから入ってきた!」
少女はふわりと浮かび上がると、空中を滑り彼の眼前まで近づく。長い黒髪が水中にいるかのように揺らめいた。闇色の目がパスヴァールを覗きこむ。
「お初にお目にかかります。わたくし、魔女ティナーシャと申します。人は私を『青き月の魔女』と呼びますが……。ああ、窓から入るなとよく貴方の
「ま、魔女……?」
「普通の精霊術士じゃなくて残念でしたね」
その言葉に、パスヴァールはようやく、自分が罠にかけた
「何故魔女が……」
「あの話って何です?」
ティナーシャは一見優しげに問うたが、魔女の怖さは外見では計れない。機嫌を損ねれば、一瞬で灰にされることさえあり得る。パスヴァールは息も絶え絶えに答えた。
「あいつには魔女の呪いがかけられている……あいつと関係した女は例外なく死ぬらしい……」
「関係しただけで死んでたら、とっくに死人が出てると思うが」
若い男の呆れたような声が部屋に響く。パスヴァールが振り返ると、いつの間にか壁際に彼の義理の甥が立っていた。
「お、お前、いつの間に!」
オスカーは腕を組んで壁に寄りかかったまま、パスヴァールを無視して魔女に声をかける。
「ほら、窓から入ると驚かれるじゃないか」
「便利でいいじゃないですか」
ティナーシャは身を屈めると、床に投げ出された報告書を拾い上げた。そこには城の人事や内政、外交についての調査が書かれていたが、特に秘密にされているようなものは見当たらない。
「で、叔父上。その話は誰から?」
「お前、薬は効かなかったのか……?」
「効いたというか、効かなかったというか。正直ちょっと惜しいことをしたかもと思っている」



