4.湖の畔 ①

 乾き、ひびれた大地。

 魔女の塔周辺をほう彿ふつとさせる荒れ果てた風景は、七十年前より一年中霧の中に閉ざされている。

 ファルサスとドルーザが衝突し、魔獣という名の巨大魔法兵器が蹂躙した土地。魔法士たちからは「魔法湖」と呼ばれる枯れた大地を、魔法士のローブを着た青年は見つめる。

 隣に立つ銀髪の少女が、彼を見上げた。


「こんなところに何があるの、ヴァルト? 確かに魔力は濃いけど……」

「目に見えるところにはないんだよ。でも、もうすぐ始まる」


 彼はそう言うと、明るい茶色の髪をかき回す。

 ファルサスの城都は離れたが、魔力隠蔽はまだ残したままだ。「魔女」からは遠ざかっても、この地にはまた別の者たちがいる。今まで、彼らが円滑に目的を果たせるように少しの手と知識を貸してはやったが、これ以上の助力を期待されても困る。彼が自身の魔力を以て事を構えるのは、あくまでも最終手段だ。


「さて、彼女もそろそろ気づく頃だ。お手並みを拝見と行こうか」

「青き月の魔女が? こんな離れたところに本当に来るの?」

「来るよ。彼女の目は大陸のあちこちに届く。ここならばなおさらだ」


 青年は空を見上げる。雲の合間を駆けていく灰猫は、彼女の使い魔だ。彼女はそうして大陸中を探し続けている。自身の運命とも言える一人の男を、いつまでも諦められずにいるのだ。

 だから、この転換点にもすぐに気づくだろう。


「僕たちもしばらくは雲隠れだ。彼女と正面からやり合う気はないからね」


 彼に普通の魔法士を凌駕する魔力があっても……そして余人の及ばぬ「記憶」があったとしても、魔女たちは、それを平気でねじ伏せてくる。それだけの力の差がある。


「魔女と正面からたいして殺せるのは、アカーシアの剣士くらいだよ」

「アカーシアの剣士って、ファルサスの王太子? そいつに魔女を殺させるの?」

「今は無理だよ。彼は彼女に勝てない」


 だから、まだ何も始まってはいない。あわれな魔女の願いも、この世界の転換も。


「行こう、ミラリス」


 青年は、己の少女だけを連れて枯れた土地を後にする。

 そうして遠ざかる彼らの姿を覆い隠すように、灰色の霧はより一層厚みを増していった。



 城の訓練場の上には今日も夏の澄んだ青空が広がっていた。

 ティナーシャは剣を置いて日陰で涼んでいる。やって来たアルスがその隣に座った。


「大分上達してきたな。というか勘が戻ってきたのか」

「本当ですか? ありがとうございます」


 初めて彼と手合わせしてから、ティナーシャはちょくちょく稽古を受けに訓練場に顔を出している。アルスは自分の手が空いている時としてメレディナのいない時間を指定しているが、幼馴染はそれに気づいているかもしれない。だが、メレディナには悪いが、ティナーシャが来ると兵士の士気も上がる。アルスはこの魔法士の少女を歓迎していた。

 ティナーシャは小さな膝頭に肘をついて頰を支える。


「どれくらいであの人と互角くらいまでなれそうですか?」

「あの人って殿下? だったら俺に稽古受けてる限り無理だと思う。俺、殿下に勝てたことないし」

「え。本当に?」


 ティナーシャは大きな目を丸くしてアルスを見上げた。日の光の下で、闇色の瞳は黒水晶のように光る。アルスは靴の紐を結び直しながら頷いた。


「本当本当。ここだけの話、初めて手合わせした時かなり落ちこんだぞ。王族なんて大したことないだろうって侮ってたから」

「そんな強いんですか……」


 空に向かって彼女は溜息を吐く。上空は風が強いのか、雲が速い速度で流れていた。


「大体、殿下は最近こそ大人しく城にいらっしゃるけど、ちょっと前まですぐラザルとどこかに抜け出されてて……。それも危なげなかったから放置されてたけど、さすがに魔女の塔に行ったって聞いた時はやばいと思った。普通に帰ってきてびっくりした」

「塔の守護魔獣をあっさり撃破してたらしいですよ」

「本当に人間かあの人」


 二人は揃って嘆息する。アルスは赤い前髪を邪魔にならない位置に梳いた。


「大体、魔法を使えばいいんじゃないか? 接近戦だと使えないとか?」

「そりゃ普通なら障壁張ったりしますけどね。あの人アカーシア帯剣してるじゃないですか」

「あー……そうだったな」


 絶対魔法抵抗を持つ王剣。魔法士の天敵となる剣を、二年前からオスカーは帯剣しているのだ。


「やっぱり無理だろ」

「無理ぃぃぃ」


 きっぱりした結論にティナーシャは小さな頭を抱えた。その様子をアルスは気の毒そうに眺める。


「まだ殿下に稽古受けた方が可能性あるんじゃないか?」

「うーん……あんまりあの人に手の内見せたくないんですよ。どう転ぶか分かりませんから」

「ふむ……ふむ……」


 ファルサスでもっとも若い将軍は首を傾げて思案する。


「まぁ無理だな」

「わぁぁぁ」


 ティナーシャは頭を抱えてもんぜつしたかと思うと、ぐったりと力つきた。


 稽古を終えて渡り廊下を歩いていたティナーシャは、ふと自分を呼び止める声に気づいて足を止めた。他の誰にも聞こえない声。魔女はそのまま外に出ると、庭の大樹の下に歩み寄る。


「リトラ」

「お元気そうでなによりです、マスター。よい契約者に恵まれたようで」

「そうか?」


 木の枝の上に座っていたリトラは、音もなく飛び降りると一礼する。


「前よりずっと楽しそうでいらっしゃいますよ」

「楽しいと言えば楽しいが……。まぁ悪くない」


 魔女は肩を竦めると苦笑した。そんな主人の言葉に、リトラはほんの少し眉根を緩める。


「このままご結婚なさってもよろしいのでは? 一年も百年もさしてお変わりはないでしょう」

「変わる変わる。それに、私は伴侶を持つ気は無い」


 ティナーシャが軽く手を振ると、リトラはやけに人間くさい仕草で恭しく頭を下げた。


「出すぎたことを申しました。お許しください。本日はご命令の調査が終わりましたので、ご報告に参りました」

「ああ、話せ」


 闇色の瞳に、さっと感情を隠す幕が下りる。揺るがない水面のようなまなし。そこにあるものは、普段オスカーやアルスに見せているものとは違う魔女としての顔だ。

 そうして彼女は報告を黙って聞いていたが、全て聞き終わると忌々しげに舌打ちした。



 休憩時間中に執務室でラザルと古い駒遊びをしていたオスカーは、現れた魔女の姿に驚いた。

 彼女が着ているのは、普段の魔法士のローブや軽装ではない。紋様の入った黒布で作られた魔法着だ。柔らかな体の曲線に沿ったそれはファルサスでは見ない作りのもので、不思議な威圧感となまめかしさがあった。その上に彼女は、やはり紋様の入ったがいとうを羽織っている。

 それだけに留まらず、彼女は腰にも細身の剣を帯びている。白い手には水晶を嵌めた手甲があり、他にもいくつか武器と思しきものを、ティナーシャは足や腰にベルトを使って装備していた。

 ──これはおそらく、戦闘用の完全装備だ。

 そう直感したオスカーは立ち上がる。


「何があった? その格好はどうしたんだ」

「ちょっと二、三日出かけてきます」


 魔女はそっけなく言うと踵を返した。その手首を立ち上がったオスカーはかろうじて摑む。


「待て待て。どこに行くんだ」

「どこだっていいじゃないですか。ちゃんと戻ってきますよ」

「遊びに行くって格好じゃないだろう。大体封飾を全部はずしてるじゃないか」


 普段の彼女は見習い魔法士を装うために、指輪やみみの形をした封飾具をいくつも身に着けているのだ。魔力を封じるそれらの封飾は、普通の魔法士なら一つ着けただけで構成が組めなくなる。にもかかわらずティナーシャは十近い封飾を着けたうえで宮廷魔法士として働いている。それは彼女の力の強大さを示すものだが、今は全てのかせが外れた状態だ。オスカーは、部屋を出て行こうとする魔女の体を引き寄せた。その間にラザルが慌てて扉を閉めて出口を塞ぐ。


「せめて行き先をちゃんと言え。俺が契約者だ。勝手に離れられては困る」


 魔女はその言葉にオスカーをにらみつけた。いつもとまったく異なる彼女の様子に、ラザルはおろおろしている。射るような視線にも一向に怯まないオスカーを見て、彼女は渋々口を開いた。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影