4.湖の畔 ②
「ドルーザの魔法湖です」
「ドルーザの?」
オスカーは聞き返しかけて、その意味を理解した。
「魔法士を殺させたのはそのためか」
「え、え、どういうことですか」
ついていけずにまごついているラザルに、オスカーは魔女の手首を摑んだまま説明してやる。
「あの毒殺された男は、毎月ドルーザの魔法湖に調査に行っていた。それをされたくない誰かが、恋人をけしかけて殺させたんじゃないか? パスヴァールを城都によこしたのは、内政を混乱させて時間を稼ぐためだろう」
ティナーシャはオスカーの推察を肯定した。
「ドルーザの魔法湖に高い魔力の波が発生しているそうです。誰が何をしようとしているのか、それを調べに行ってきます。──いいですね?」
そう言って、手を離すよう目で要求する彼女に、だがオスカーは頭を振る。
「一時間待て。俺も行く」
「……え?」
ティナーシャは大きな瞳を瞠る。だがぽかんとしたのも一瞬、すぐに彼女は顔を険しくさせた。
「余計なことです。というか王太子が出歩くな」
「お前一人行ってどうするんだ。あそこは調停上どこの国のものでもないが、事実上の管理はファルサスだ。何かあった時、お前だけの調査ではさすがに俺でも国政を動かせん」
彼の正論に、ティナーシャは少しだけ険を和らげる。それでも視線の鋭さはそのままに、彼女は自分の契約者を見上げた。
「貴方一人を連れて行ったら、もっと問題になりそうですよ」
「腕の立つ者を集める。十五人もいれば調査隊としては充分だろう」
「私は貴方以外を守る義理はないです」
「承知している」
オスカーはきっぱりと言い切る。
その揺るがぬ言に打たれて、ティナーシャは無言になった。
羨ましいほどの迷いのなさだ。意志を失わぬ即断だ。
それはきっと、彼の持つ王の資質だろう。全てを飲み下して立つ強者の器だ。
ティナーシャは息を吞む。止まりかけた思考の代わりに、何故か無数の記憶が脳裏を流れた。
失われた風景。子供だった自分。滅びていく国の景色。何人もの……今はもういない契約者たち。
まるで感傷の残滓だ。全てはもう取り戻せないものばかりだ。
──どうして、今になってこんなものを思い出してしまうのだろう。
ティナーシャは彼を見つめたまま、掠れかけた声で言う。
「一時間……それ以上は待ちません」
「充分だ」
オスカーはようやく彼女の手を放すと、支度をするために部屋を出た。
きっかり一時間後、国境北の
不機嫌の残る顔で隅に立っていた魔女は、待っている間、調査隊の魔法士の一人に挨拶された。
「シルヴィアと申します。お話するのは初めてですよね。よろしく」
艶のある金髪に、二十歳前後の愛らしさの残る顔立ち。自然と漂う彼女の温かい雰囲気に、ティナーシャは
「こちらこそよろしくお願いします」
「あの、肩に乗せているの、もしかしてドラゴンですか?」
シルヴィアはティナーシャの肩にいる、
「ああ、あまり人に慣れてないから気をつけてください」
「すごいですね……わたし、ドラゴンを初めて見ました」
「──ティナーシャ!」
よく通る男の声。この城で彼女を呼び捨てる人間は一人だけだ。契約者に呼ばれた魔女は、シルヴィアに断ると彼の方に駆け寄る。オスカーはドラゴンを見て目を丸くした。
「何だそいつは」
「一人ならこの子に乗って行こうと思って呼んであったんですよ」
「人が乗れる大きさに見えん」
オスカーは魔女との会話をそこで打ち切ると、集まった者たちに告げる。
「これからドルーザの魔法湖を調査に行く。何があるか分からんから注意しろ。──あと、こいつの命令には逆らうな」
そう言うと彼はティナーシャの頭の上に、ドラゴン越しに手を置いた。ドラゴンは不思議そうにそれを見上げる。予想外な命令に、ティナーシャは小声で返した。
「そんなこと言っていいんですか?」
「細かいことは言ってられないからな」
「貴方、本当に変わってます」
前の契約者のレギウスも少し変わった人間だったが、オスカーはそれ以上だ。
ティナーシャは、緊張した面持ちのシルヴィアを見る。ついで不機嫌そうなメレディナに視線を移した。心配そうな顔のアルス、クム、ラザルを順に見やる。
そうして最後にオスカーを見上げた。彼はティナーシャの視線に少しだけ微笑む。
「大丈夫だ。何とかしてやる」
心地よく響く声。彼女は息を深く吸いながら、ゆっくりと目を閉じた。かつて同じように、ドルーザと戦うためにこの城を出立した情景が
『行こう、ティナーシャ。君の力を貸して欲しい』
──まるで
そうやって何もかもが、彼女一人を置いて流れていくのだろう。
それでも同じ場所に留まり続ける。そういう己を、彼女は選んだのだ。
ティナーシャは顔を上げる。
彼女は長い睫毛を上げると、一瞬だけ、皆が見惚れるほど美しい微笑を見せた。
人の
隣でそれを見たオスカーが思わず絶句した。息を吞む気配に、ティナーシャは彼を見上げる。
「どうかしました?」
「いや……何でもない」
視線を逸らす彼は、何を考えているのかまったく分からない。彼女は気を取り直すと口を開く。
「行きましょう」
その言葉と同時に、転移魔法陣が発動し始めた。
※
国境北のイヌレードの砦に転送された一同は、そこで馬を借りるとドルーザの魔法湖に向かって国境を越えた。七十年前の戦争の影響か、未だに辺りには一年中灰色の霧が立ちこめている。ほとんど先が見えない状況だが、彼らは土地に染みついた魔力を頼りに先へと進んで行った。
やがて一時間も走った頃、霧の中僅かに見える景色が変わり始める。
ティナーシャと並んで先頭を行くオスカーが眉を顰めた。
「すごい眺めだな。悪夢みたいだ」
ところどころに生えている木々は、幹も枝もやけに
「七十年前の戦争で大分荒れましたからね。これでもマシになった方ですよ。完全な自浄を求めるにはあと二百年はかかるでしょう」
「途方もないな。当時はどれだけ大変だったんだ」
歴史に残る戦争を制したのは、彼の隣で馬を走らせている魔女だ。ティナーシャは風に乱れる髪を手で押さえた。
「そうですね……ずいぶんと
「お前でも勝てないって
「制御は不十分だったんで、無理矢理の投入でしょう。でも、封印を選んでよかったとも思いますよ。あの状況で正面から戦っていたなら、もっと凄惨な事態になっていたでしょう」
さらりと語られる七十年前の戦争は、当のティナーシャが美しい少女の姿形をしているせいか、まるで童話のように現実味がない。彼女は霧に覆われた空を見上げた。
「魔法湖はもうすぐですけど……馬が限界に近いですね。これ以上は衰弱させそうです」
ティナーシャの言う通り、先程から馬の走る速度がずいぶん落ちている。人よりも周囲の空気に敏感なのだろう。仕方なく一行はその辺りの木々に馬を繫ぐと、徒歩で進み始めた。
歩きながら、ティナーシャは軽く詠唱すると手を払う。途端、周囲の空気が変わった気がして、オスカーは辺りを見回した。
「何をしたんだ?」



