4.湖の畔 ③
「結界を張りました。
言われてみれば、周りの人間は幾分顔色が悪い。彼らはティナーシャの結界に、ほっとした顔を見せた。これまでまったく異常に気づいていなかったオスカーは、自分の顔を指差す。
「俺が平気なのはお前のおかげか」
「ご名答。瘴気ぐらいは
魔女はにっこり笑った。その後ろでドアンと名乗る魔法士の青年が呟く。
「テミスの調査では瘴気の発生は記録されていなかったのですが……」
「何かが起きてるんだろうな」
「歴史の証人になるのは避けたいですね……」
ドアンは
「歴史の証人なんてなりたいと思ってなれるものじゃないぞ。子供の頃は憧れてた」
好奇心の滲む言葉に、ドアンはげっそりし、ティナーシャはそっと溜息をつく。
彼らが魔法湖に到着したのはそれからすぐのことだ。
水も草もない
「初めて来たな……普段もこの波があるのか?」
「若干は」
ティナーシャは手短に返答すると、先ほどよりも長い詠唱を始める。それに呼応して、地面に大きな円状の紋様が広がった。詠唱が終わると、円の外周から赤い糸が次々浮かび出てくる。それらは紋様の上で絡み合って半球状の
「ちょっとここ出ないで待っててください。外見てきますから」
「あ、待て、ティナーシャ」
オスカーは咄嗟に彼女の腕を摑もうとしたが、僅かに早く魔女は空中に浮かび上がった。一瞬で霧の向こうに消えてしまう。ドアンはその姿を見送って呟いた。
「彼女何者なんですか……」
「ちょっと変わり種なんだ。できれば連れ戻したいんだが……」
彼女を単独行動させたくなくてついてきたのに、結局見失ってしまった。引き戻したいが、この霧ではそれも難しい。
ただ──守護結界のある自分ならば、ここを出ても動くことは可能だろう。
オスカーは腰の王剣を一瞥する。それに気づいたメレディナが口を開きかけた時、兵士が叫んだ。
「き、霧が!」
振り返ると、分厚い霧が高波のように押し寄せてくる。それはたちまち結界内にも流れこみ、全員の視界を奪った。小さな悲鳴が聞こえ、混乱が沸き起こる。
「落ち着け! 動くな!」
たとえ何も見えなくても、この結界の中にさえいればいいのだ。ティナーシャの正体を知っていれば、それは当然の判断だ。だがそんな彼の命令を
「ティナーシャ?」
オスカーが迷ったのはほんの一瞬だ。彼は部下たちに叫ぶ。
「ここにいろ! すぐ戻る!」
「殿下!」
何も見えない中へと踏み出す。王剣を抜く。
オスカーは守護者を追って霧の中へ歩み入った。同時に、辺りの空気が歪む感覚を覚える。
それが過ぎ去った時、周囲の霧がいくらか薄らいだ。オスカーは、霧の先に立っている人影に気づいて歩を進める。──だがその手を、誰かが後ろから摑んだ。
「殿下……駄目です」
「メレディナ。ついてきたのか」
必死の顔で彼を留めているのは武官のメレディナだ。彼女は青ざめた顔で首を横に振る。
「罠です。お戻りください」
「それは分かってるが……」
罠の可能性は承知している。それでも万が一ティナーシャが危機に陥っているのだとしたら放ってはおけない。少なくとも自分一人なら守護結界があると思って出てきたのだ。
だが、それを知らないメレディナは
「分かった。じゃああれだけ確かめたら戻る」
小柄な人影は動く様子がない。そんなところを見ると、きっとティナーシャではないのだろう。だが代わりに誰かがいるのか、それを確認しなければ調査に来た意味はない。
メレディナは渋々手を放すと、彼の後ろに続く。二人は霧の中を慎重に進むと、ぼんやりとした人影の間近に辿りついた。背を向けている影に目を凝らしたメレディナが、小さく悲鳴を上げる。
「ひっ……」
「これは予想外だな」
二人の声に反応してか、人影はゆっくりと振り返る。
それは、ぼろぼろの
ティナーシャは、魔法湖の上空を一周しながら、魔力を放って辺りの様子を探っていた。
霧の切れ目から見える景色は、以前と代わり映えがない。だが隠しようのない瘴気と平時より高い魔力の波が、明らかな異常を物語っていた。
「地下かな……」
魔女は一旦結界のところへ降下していく。だが降りきるより先に、彼女は異変に気づいた。
──人数が少ない。彼女の契約者の姿もそこにはない。
「ティナーシャさん!」
悲鳴じみた声のシルヴィアに呼ばれて、ティナーシャはその隣に降り立った。
「何があったんです? 殿下は?」
「き、霧が突然押し寄せてきて……外から色んな声が聞こえて、それで殿下はわたしたちにここで待つようにと仰って……」
「…………」
これまで散々ファルサスに調査の妨害を根回ししていた敵だ。調査隊を前に何もしないはずがない。おそらく視界を奪って音で混乱を生み、結界の外に出た人間を転移であちこちに飛ばしたのだろう。そこまでの対策を講じて行かなかったのはティナーシャの失敗だが、ほんの僅かな時間だから大丈夫と思っていたのだ。オスカーだけでも気絶させていかなかったことを彼女は後悔する。
しかし言葉になったのは別のことだ。
「あ……の……馬鹿王子がっ!」
怒りに震える彼女に、残る人間は恐怖の目を向けた。シルヴィアが必死に宥める。
「でも、殿下もティナーシャさんのことを心配なさってたんですよ。すぐに戻られますから……」
「本当、一回あの人とはちゃんと話し合いした方がいいですね!」
ティナーシャは忌々しさを飲みこんで両手を広げると、そこに無詠唱で構成を組んだ。
「いなくなった人たちを探知します。そう遠くには行っていないと思いますが」
この荒野の外に出るほどの転移があったなら気づいたはずだ。その読み通り、すぐに何人かの反応が返ってくる。オスカーには「貴方以外を守る義理はない」と
ティナーシャは探知を操りながら、小さな光球を三つ手元に生む。道案内と守護を兼ねたそれらを空中に打ち出した。球は滑るように動き──けれどその一つが、何かにぶつかって跳ね返る。
「あれ?」
ガチャリ、と金属のぶつかり合う音が鳴る。霧の中からいくつもの人影が現れる。
鎧を着こみ、剣を提げた人影。それは間違っても生きた人間のものではない。空っぽの眼窩を見て、シルヴィアが甲高い悲鳴を上げた。
「し、死体! 骸骨……っ!」
「うわ、死体ですね」
いつの間にか周囲を無数に蠢いているそれらは、肉も朽ち、骨となった遺体だ。結界内にいる魔法士のドアンが眉を寄せた。
「あの鎧、ドルーザの紋章がついてますね。ファルサスの紋章をつけた者も」
「七十年前の亡霊ですか……」
当時の犠牲者は膨大で、戦場に葬られた者も多い。それらの遺体を呼び起こした術者がいるのだろう。まるで彼らは己が死んだことに気づいていないかのように剣を手に迫ってくる。四方をじりじりと囲んでくるそれらに、武官の一人が決断した。
「応戦しましょう。このままでは他の人間が戻れなくなる」
「……それしかないですね」
結界の中に立てこもることはできるが、これでははぐれた人間も回収できない。
ティナーシャは自身の剣を抜くと、肩の上のドラゴンに命じた。



