4.湖の畔 ④

「ナーク、私の契約者を探して連れてこい! さっきいた青い目の男だ。印があるから分かるだろう? 他の人間もいたら拾ってこい。食うなよ!」


 ドラゴンは一声鳴くと、首と尾を反らし伸びをした。みるみるうちに赤い体が伸びて、馬と同程度の大きさになる。驚く一同を尻目に、ドラゴンは翼を広げて飛び立つと霧の中に消えていった。

 ティナーシャはその行く先を見ることなく、自ら結界の外に踏み出る。斬りかかってくる死体の剣に空を切らせると、自身の剣でその首をねた。


「全員揃ったら離脱しましょう。それまで持ちこたえてください」

「援護します」


 シルヴィアが彼女の後ろに駆けてくる。他の人間も同様に各々の戦闘準備を整えた。

 じりじりと輪を狭めてくる死体たち。吐き気を催す光景の中、けんげきの音が上がる。



 襲いかかってくる死体は、斬っても斬っても途切れることがない。

 湿った空気の中近づいてくる幾つもの足音。かびと土の臭いが鼻につき、胃液を誘う。メレディナは己の剣を振って戦いながら、叫び出しそうになるのを何とか堪えていた。もしここにいるのが自分一人だったら、とっくに死体の仲間入りをしていたかもしれない。

 頭上から振り下ろされる大剣をかろうじて受け止めた彼女は、その衝撃によろめく。霧の中から別の剣が彼女の脇腹めがけて突き出された。メレディナには避けきれないその剣は、しかし別の剣にはじかれる。


「大丈夫か?」

「殿下……ありがとうございます」


 先程から、オスカーも終わりの見えない戦いを強いられているというのに、息切れ一つしていない。その確かな存在感に支えられて、メレディナは息をついた。同時に苦い思いが胸を焼く。


「強行突破して戻りましょう。彼女はきっと平気です」

「だとは思うんだが。一応俺はあれの保護者みたいなものだからな」


 オスカーの視線は、霧の中を一人の少女を探している。

 その言葉だけを聞けばただの義務感だ。けれどそれ以上を知るメレディナは、嘆息を飲みこんだ。

 ──きっと彼自身は気づいていないのだ。

 今でもただ、自分が連れてきた年若い少女を守らねばと思っているだけなのだろう。

 けれど、はたから見ていれば気づくこともある。城を出る時、ティナーシャが一瞬だけ見せた透明な微笑……そんな彼女の姿に、オスカーが一目で惹きこまれたことも。

 今まではきっと、彼の目にあの少女は愛らしい子猫と変わらぬ存在に映っていたはずだ。その異様なほどの美貌も魔法も、一番傍にいる彼が一番重要視していなかった。むしろ彼よりもメレディナの方が、彼女のそれらに正しく気づいて……ひそやかな劣等感にさいなまれていた。彼女がアルスのところに剣の稽古に来ていて、その腕が自分よりも上だと知ってからはなおさらだ。比べる必要はないと分かっていても、そんな相手が存在するということに敗北感を覚えて仕方ない。

 だが彼もきっと、あの微笑で分かったはずだ。──ティナーシャが、自分の保護下にある無力な子供ではなく、他者と交わらない時間を経てきた何者かであるのだと。


「大丈夫です、殿下。きっと今頃彼女は、戻って殿下を待っているでしょうから」

「メレディナ」


 きっとここから先は時間がかからない。勘のいい主君は遠からず自分の感情に気づくだろう。

 だからそれまでの間、臣下である自分ができることは、無自覚な彼をいさめることくらいだ。

 メレディナはほろ苦い感情を飲みこんで、剣を握り直す。


「足手まといで申し訳ありません。ですが、私が道をひらかせて頂きますので」


 きっとまたティナーシャに会えば、どうしようもない嫉妬を覚えるのだろう。それでも自分は武官の一人だ。他に惑わされず己の為すことを為さなければならない。そうでなければ幼馴染のアルスにも呆れられてしまう。

 メレディナは向かって来る死体に怯まず、剣を振るった。崩れ落ちた鎧を踏み越えて先に進む。

 それでも先が見えない包囲に焦り出した時、オスカーが苦笑混じりに言う。


「悪い。面倒をかけた」


 空気を裂く一閃。

 音もなく、メレディナに斬りかかろうとしていた死体が崩れ落ちる。

 それに留まらず、周囲の死体が次々倒れ伏した。メレディナは驚いて前に出た男を見上げる。

 王剣の一閃が、霧までもを切り裂く。彼は草でも薙ぐように死体を斬り捨てながら、突きこまれる切っ先に空の左手を向けた。何もないはずなのに、何かが剣を彼の手に触れる寸前で砕く。


「え……今の……?」

「ここだけの話、俺にはほとんどの攻撃を無効化する結界がかかってるんだ。巻きこんで悪かった」

「え?」


 呆然としかけたメレディナは、だが襲いかかってくる敵に気づいて剣を上げる。小走りになりながらも主君についていこうとした時、背後で大きな羽ばたきの音が聞こえた。

 霧が、たちまち押し流されていく。何かが後ろに降り立つ気配がする。メレディナが吹きつける空気に振り返ると、そこには燃えるような赤い両眼が彼女を見つめていた。


「……ドラゴン? 本物の?」

「大きくなってるな……人が乗れそうだ」


 そんな二人の感想に、魔女のドラゴンは高い声を上げて応えた。




「あとは殿下たちだけか!」

するな!」


 怒号が飛び交う戦場で、ティナーシャは剣を振るいながら魔力を広げて、周囲を探っていた。

 いくら魔法湖の上で魔力が溢れているとは言え、独りでに死体が歩き出すはずがない。どこかにこれらを操る大本がいるはずだ。それを叩ければ早い。

 しかし相手もそれを承知なのか、絶えず移動しているらしくなかなか位置を摑ませない。

 ティナーシャはシルヴィアに襲いかかる剣を腕ごと薙ぎ払う。ぼろぼろの腕はそのまま軽々と空を飛んで、霧の中に落ちた。


「あ、ありがとうございます」


 ほっと息をつくシルヴィアに、ティナーシャは笑って見せた。


「大丈夫。もう少しです」


 その時、主人の言葉に応えるように上空で鋭い鳴き声が上がった。赤いドラゴンは翼を広げると、風を受けながらゆっくり降りてくる。その背には一組の男女が乗っており、男の方はドラゴンが地上に達する前に飛び降りてきた。ティナーシャは彼を冷ややかな目で一瞥する。


「説教ものですよ」

「悪い」

「全員、結界内に下がって!」


 その言葉に皆が赤い半球の内に入る。ドラゴンもメレディナを背に乗せたまま半球内に着地した。死体たちが更に輪を狭めて集まってくる。魔女は剣をさやに戻すと詠唱を開始した。


「我が意志を命と認識せよ。地に眠り空をかける転換者よ。我はなんじの炎を支配し召喚す。我が命が現出の概念の全てと理解せよ」


 白い両手の中に、炎でできた円環が出現する。ティナーシャはそれを右手で掬い上げた。


「──焼き尽くせ!」


 炎の紋様は一気にその輝きを増す。

 円環はたちまち炎の波となり、轟音を上げながら全方向に恐ろしい威力で炎の舌を伸ばした。

 むらがっていた死体たちは炎の波にまたたくまに薙がれ焼き払われる。声にならぬ断末魔の悲鳴がいくつも荒野に重なった。熱風が、結界の中を走り抜けていく。

 その衝撃に思わず顔を背けていたシルヴィアが目を開けると、外にはただ地平が広がっているだけだった。残っているのは物が焼ける嫌な焦げ臭さのみで、あれ程いたはずの死体の姿は見えない。


「こんなものかな。やっとすっきりした」


 術者である女はけろっと言う。他の者たちは、間近で見た魔法の威力に呆然としていた。

 メレディナはドラゴンから降りると、恐怖の眼差しでティナーシャを窺う。幼馴染のアルスが、彼女のことを怖い人間だと称した理由がようやく分かった気がした。

 そんな中、一人平然としていたオスカーは周囲を見回して口笛を吹く。


「霧が晴れたじゃないか。好都合だ」


 一帯をくした炎のせいで、辺りの霧がなくなっている。枯れた大地がほどよく見通せる状態だ。オスカーは背後を振り返ると、魔女の頭に手を乗せる。


「ティナーシャ、死体が一体焼け残ってるぞ」


 何もなくなった土地の上、少し離れた場所に、魔法士のローブを着た老人が立っている。骸骨と見まがう程に瘦せこけた老人は、くぼんだ目で一行をじっと見つめていた。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影