4.湖の畔 ⑤

 ティナーシャはそれに気づいて眉を顰める。


「防御されたみたいですね」


 老魔法士は、彼女の視線を受けると意外にも朗々とした声を上げた。


「お久しぶりですね。生きている内に再びお会いできるとは思いませんでしたよ」


 オスカーを初め、皆が何か問いたげにティナーシャを見たが、彼女はそれを黙殺した。感情のこもらない目を向ける魔女に、老魔法士は続ける。


「そのいでたち、その美しさ、七十年前に戻ったかと思いましたよ。またそちらについているのはいとしい男の面影のためですか? ──青き月の魔女殿」


 最後の言葉に、オスカーを除く一同は全員無音の叫びを上げた。シルヴィアは動転しておろおろし、他の兵士は意味なく両手を上げている。オスカーの背後に立つメレディナが震える声で聞いた。


「魔女って……ほ、本当ですか」

「本当」


 オスカーは何故か不機嫌そうに答える。一方ティナーシャはそれら後ろの動きを一切意に介していないらしく、老魔法士に向かって妖艶な笑いを浮かべた。


「お前は随分歳を取ったな。あの時はほんの子供だったのに。禿げたというか干からびたというか」


 率直な感想を受けた老人は高らかに笑うと、自身の骨と皮だけの頭を撫でた。


「とっくに死んでいるような歳ですから。誰もが貴女のようにいられるわけではないのですよ」


 やんわりとした嫌味を魔女は鼻で笑う。


「話し方や外見まで師に似てしまったようだな。……むしが走る」

「貴女が首を刎ねた我が師にですか? それはなかなか嬉しいですね」


 老人は芝居がかった仕草で両手を広げた。それを挑戦と取ったティナーシャは、無造作に剣を抜くと結界の外に歩み出る。


「折角だからお前の首も刎ねてやろう。師に殉じられること、這いつくばって感謝するがいい」


 その笑顔は寒気がするほど残酷で、美しい。

 ティナーシャは細身の剣を振る。ぜるような音を立てて、刃に青い雷光がまとわりついた。

 だが、彼女がもう一歩を踏み出すより先に、老魔法士の姿は霧のように搔き消える。しゃがれた声だけがその場にこだました。


「貴女とやりあうほどの力はありませんので、失礼させて頂きます。貴女方もそろそろお帰りになった方がよろしいかと。それとも一人二人死なねばその気になりませんか?」


 喉を鳴らす笑い声を残して気配は消失した。途端に辺りには静寂が満ちる。魔女はしばらく何かを考えていたが、剣を収めて振り返ると子供のような表情で舌を出した。


「逃げられた」

「知ってる顔か?」

「七十年前の戦争で、魔獣の統御をしていたドルーザの魔法士のうちの一人ですね」

「魔獣の……」


 オスカーは顎に手を掛けて考えこんだ。戻って来た彼女に、シルヴィアが恐る恐る話しかける。


「あ、あの……ティナーシャさんって本当に『青き月の魔女』なんですか?」

「黙っててごめんなさい。驚かせたくなかったんですよ」


 魔女は、先ほど見せた残酷さの微塵もない、少し寂しげな顔で微笑んだ。それを見たシルヴィアは胸が痛む。同時によく知りもしないのに、魔女を恐れていた自分が少し恥ずかしくなった。


「あ、あのわたし……」

「駄目ですよ。魔女は怖いものなんです。気にしないで」


 かぶりを振ってそれ以上を留めるティナーシャは、曇りのない笑顔だ。どこか遠さを感じさせる美しい微笑に、シルヴィアは言葉を飲みこむ。オスカーが顔を上げて言った。


「一度帰るか。人員と装備を整えよう」


 王太子の決定に全員が胸を撫で下ろす。これ以上ここに残っても薄気味悪いことこの上ない。

 一同はお互いの様子を確認すると、見晴らしのよくなった大地を引き返し始める。オスカーが隣を行く魔女の頭に手を置いた。


「馬は燃えてないだろうな」

「そこまでは多分……」


 不安な笑顔を作る主人の肩の上で、小さくなったドラゴンが欠伸をした。



 馬はちゃんと元の位置で待っていた。その周囲にはまだ霧が立ちこめている。一同は早々に騎乗すると、イヌレード砦に向かって戻り始めた。オスカーはティナーシャの横に馬首を並べる。


「やつらの狙いは魔獣の復活だと思うか?」

「十中八九そうでしょうね。面倒なことです」


 後ろから魔法士のドアンが口を挟んだ。


「別のものを作っているという可能性はないのでしょうか」

「それは無理です。誤解があるみたいですが……魔獣は別に彼らが作ったわけじゃないんですよ。あんなもの普通の人間に作られたらたまったもんじゃないです。おそらく魔法湖に核となる何かが入って、それに魔力の波が徐々に吸着して……何百年かかけて魔獣になったんじゃないですかね」

やつらはそれを制御していただけなのか」

「だから制御も不十分だったんですって。まったく、蛇のいるやぶをつついて何をしたいやら」


 話している内に、ようやく前方の霧が晴れ出した。しばらく走ると地平の先に砦が見え始める。

 だがそこまで来ると、ティナーシャは急に馬の足を緩め、そのまま止まってしまった。


「どうした、ティナーシャ」


 魔女は馬から飛び降りると、その手綱を兵士の一人に預ける。


「皆で帰ってください。私は戻ります」

「何言っているんだ」


 オスカーは自身も馬を降りると彼女に詰め寄る。だがティナーシャは平然と返した。


「ここで私たちが一旦帰って準備を整える──勘づかれた以上、相手もそれを狙っているはずです。急いで封印を解こうとするでしょう。けどそんな時間は与えません。今叩きます。さっきの骸骨、うまく逃げたつもりかもしれませんが、ちゃんと追跡しています」


 魔女は右の手の甲を上げた。手甲についている水晶が、中に炎を閉じこめているかのように赤黒く揺らいでいる。オスカーはあまりのことに絶句した。目の前の守護者を睨みつける。


「お前……最初からそのつもりでその装備なのか。調査だけで戻る気などなかったな」

「勿論」


 即答する彼女の瞳には何の感情も見えない。細い魔女の腕をオスカーは摑んだ。


「俺も行く」

「またか!」


 心底呆れた、とでも言いたげに彼女は渋面になる。ティナーシャは宙に軽く浮かぶと、彼よりも少し高い位置からその顔を見下ろした。それでも細い腕を放さぬままのオスカーに、彼女は言う。


「貴方は何でもできますし、自分でやろうという姿勢は評価できます。でも王になるというなら、もう少し周りを使うことを覚えなさい」


 彼女はまるで母親のように、空いている手でオスカーの頰に触れる。彼はその手に目を細めたが、視線も、摑んでいる手も放さなかった。


「それは分かっているし、気をつける。でも今は駄目だ。俺はお前を手足として使う気はない」

「そのつもりで塔から連れて来たんじゃないんですか?」

「違う」

「レグなら行かせてくれましたよ」

「知るか」


 オスカーは腕を握る手に力を込める。この地に眠る魔獣は、彼女自身が封印しか選べなかった相手なのだ。当時は契約者であったファルサス国王と彼の率いる軍があってそれだ。到底一人だけを行かせることなどできない。

 だが同時に……オスカーはそれが自分の言い訳に過ぎないとも気づいていた。

 七十年前きっと彼女は、他の人間たちを庇いながら戦ったのだ。「あの状況では封印しか選べなかった」と言っていたのは、兵士たちの犠牲を増やさぬためだろう。

 だから、今ここで自分がついていっても、同じてつを踏ませるだけだ。

 ──それでも、彼女を一人で行かせたくないと思う。


「奴らの標的はファルサスだ。お前だけに負わせるわけにはいかない」

「それについては私の事情もあるんですが……本当に、貴方は譲りませんね」


 ティナーシャはふっと困ったように微笑む。そんな顔はいつもの、城にいるときと同じ表情だ。

 長く艶やかな髪が、魔力を帯びて風もないのに揺らめく。黒曜石のような瞳がゆっくりとまたたいた。

 そこに浮かぶものは過去の風景か、それとも年月の厚みそのものか。

 魔女は穏やかな微笑を浮かべる。


「たった一年の契約なんですよ。せいぜい面倒事を回してきなさい」

「ティナーシャ」

「それに私、貴方の重みを背負うくらいなんでもありませんから」


 軽やかに、歌うように、彼女は言う。

 その言葉に、眼差しにオスカーは息を詰めた。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影