4.湖の畔 ⑥

 生まれながらに彼が負ったもの。血も責務も呪いも、全て知った上で寄こせと彼女は笑う。

 そんなものは重くもないと、だから上手うまく自分を使えと謳うのだ。

 ティナーシャの夜の瞳が、彼の双眸を覗きこむ。


「オスカー、貴方が私の契約者で、私が貴方の守護者である限り、私はどこへ行っても、何をしても必ず貴方のところに戻ります。そして貴方より先には死なない。絶対です」


 誓いに似た約束。

 彼女の目をオスカーはじっと見返す。

 底の無いしんえんを覗きこむような思いがした。

 ──どうして自分は、彼女のことを何も知らない少女のように思えていたのだろう。

 どれだけの年月の差がそこにあるのか。

 とても見通せない。今は届かない。

 ただ届かないということが分かるだけだ。

 オスカーは溜息を飲みこむ。摑んでいた手をそっと放した。


「分かった。行ってこい」


 ティナーシャは柔らかく微笑む。彼女が左手を上げると肩の上のドラゴンが一声上げて飛び上がった。先ほどよりも大きい、小屋三軒分程もある姿に変じる。


「もうちょっと信用して頂きたいですね。これでも私、無敗ですよ」

「なら、最初の敗北を俺が味わわせてやろう」

「……それについては対策を検討中なので少々お待ちください……」


 真紅のドラゴンは、首を差し伸べて美しい魔女を背に乗せる。

 絵画のような幻想的な光景。その様を見上げた者たちは、我知らず感嘆の溜息をらす。魔女に対する畏怖と、彼女個人への感情が彼らの中で複雑に入り混じった。まぶしそうにティナーシャを見上げたメレディナは、何故か胸が熱くなるのを感じる。

 ドラゴンは少し高度を落として、一度一同の眼前に留まった。燃えるような大きな左目が彼らを凝視する。装備を確認しているティナーシャにオスカーは声をかけた。


「ティナーシャ、お前が戻ってきたら……」

「来たら?」

「結婚でもするか」

「しないよ! いかにも死にそうなことを言うな!」


 毎回のやりとりに二人は声を上げて笑う。

 魔女が軽く背を叩くと、ドラゴンは砂煙をあげて飛び上がり、魔法湖に向けてあっという間に霧の中へと消え去っていった。



 かつてファルサスとドルーザの戦があった。

 戦端を開いたのは、ファルサスより北西にあるドルーザだ。

 当時のドルーザは作物の不作に悩まされており、隣国に広い領土や豊かな資源を求めたのだろう。

 きゅうきょ侵攻してきたドルーザに対し、ファルサス軍は善戦した。安定した武力を以て敵軍を押し戻し、一週間で大勢はほぼ決したかと見えた。

 だがそんな時──ドルーザは、魔法湖に眠る魔獣を呼び起こし、ファルサスに攻めこませたのだ。

 巨大魔法兵器による蹂躙。

 大陸中を震撼させたその作戦は、しかし一部の魔法士たちの独断で実行に移された。実際、魔獣の統御は不完全であり、その犠牲になったドルーザ人も多い。加えて魔獣が纏う瘴気は、戦場となった土地を今でも草木の生えぬ霧の領域へと変えてしまっている。

 当時の戦場において魔獣の出した犠牲者は、両軍合わせて二千人以上。圧倒的な力に皆が絶望を覚え──しかし魔獣はついに、ファルサス王が伴った魔女によって封印されることになった。

 その後、統御に関わっていた魔法士たちはほとんどが彼女に殺害され、彼女の虐殺を逃れた者も同じドルーザの人間に報復のため殺された。

 そうして魔獣は地下深く眠り、霧に閉ざされた土地はようやく表面上の平穏を得た。

 七十年近い時が流れ、再びこの地に魔女が訪れるまでは。



「封印の最終解呪を急げ! 時間がない!」


 老魔法士は地下の洞窟に戻ってくるなり叫んだ。若い魔法士が驚いて聞き返す。


「今すぐにですか? しかしまだ統御の構成が完全では……」

「構わん! 最終解呪の詠唱を開始しろ! 魔女に発見された!」

「魔女に!?」


 若い魔法士は事態を飲みこむと、洞窟の奥に駆け出す。老魔法士はきこみながら後に続いた。


「……ここまで来て、終わってたまるか」


 彼の生まれ育った村は、分裂したドルーザの中で、もっとも貧困にあえぐ小国に属している。

 だからこそ魔獣の力を以てドルーザを再統一し、ファルサスを滅ぼして故郷を救う。それができるのなら、七十年前同志たちと共に捨てるはずだった命など、いくらでも差し出すつもりだ。


「……まだだ、まだこれからだ……」


 上手く動かない体をりながら、彼は解呪構成のところに辿りつく。そこには既に十人余りの魔法士たちが集まっていた。皆、理由こそ違えど志を同じくする者たちだ。そして彼らが向き合う洞窟の先には、およそ人間業とは思えないほど複雑な構成紋様が青白く浮かび上がっていた。

 繊細を極めた多重構成。それは七十年前魔女が施した封印だ。

 そしてその向こう側、膨大な空洞部分には──閉ざされたままの大きな「眼」が見える。

 まなじりだけが黒いそれが何か、遠く離れれば全貌を摑むことができるだろう。

 銀色の長い体毛に覆われた巨体は、大部分が闇の中に没していて分からない。見通せるのは封印に照らされた一部だけで、そこから想像できる大きさは小さな城ほどだ。全容の摑めぬ獣は、目から続く鼻筋の形を見ると、巨大なおおかみに似ている。

 ひしひしと空間に満ちる底知れない魔力。眠り続ける獣は恐ろしくも神秘的だ。

 恐るべきこの魔獣を呼び覚ますために、既に五人の魔法士が詠唱を開始している。老魔法士は彼らの隣を抜けて空洞を見下ろした。後ろでひざまずく魔法士に問う。


「どれくらいかかりそうだ?」

「三日あれば何とか……」

「三日か……ファルサス軍が来るのと同じくらいだろうな。何とか間に合わせよう」

「分かりました」


 男の魔法士がそう返事をした時、何か軽いものが落ちる音がした。

 彼は、不思議に思って音のした方を見る。

 ──そこには骨と皮ばかりの生首が転がっていた。


「な、な……」


 言葉にならない彼の首筋に冷たい何かが落ちる。彼はそれに気づかないまま絶命した。


 惨劇は一瞬のことだ。

 岩陰で目を閉じて詠唱に集中していた魔法士は、いつのまにか自分以外の詠唱が聞こえないことに気づいた。不審に思った彼は、仲間たちがいた方を覗きこんで……慄然とする。

 ひたひたと満ちて広がる血だまり。その上に同志たちが無残な姿で倒れ伏している。見覚えのある老魔法士の首は、何が起きたのか分からない表情のままだった。


「な……」


 口を押さえた彼を、強い血の臭気が襲う。あまりの凄惨さに眩暈めまいがした。

 しかしそんな中で何よりも彼の目を奪ったのは、血の海にたたずむ一人の少女だ。血に濡れた剣を携えた魔女は、彼に気づくとにっこり笑った。


「一人刈り損ねたか」


 涼やかな声に恐怖で腰が抜ける。男は声も出せぬままその場に崩れ落ちた。

 魔女は無造作に近づいてくると彼に問う。


「どうした? 封印を解きたいのか?」


 男は口をパクパクと開閉しながら頷く。魔女は大きな闇色の瞳を瞠って微笑した。


「なら解いてやろう」


 彼女は剣を壁に向かって一閃させると、血を払って鞘に収めた。封印に向かって片手をかざす。

 濃い血の匂いの中、その姿は月光を纏ったように他から浮き立っていた。


「歌え、古き戒めよ。遠きに生み出されし鎖は我が命により朽ちゆく──」


 朗々たる詠唱。封印が効いている間は、何人たりとも魔獣に触れることができない。

 それは術者である魔女も同様だ。彼女は右手をかざすと複雑な封印を解きほぐしていく。横では魔法士の男が蒼白になりながらそれを見つめていた。

 七つの小封印で構成された紋様は、魔女の手でみるみるうちに解呪されていく。

 紋様が消える。

 そして魔獣の目がゆっくりと開き始めた。



 イヌレード砦に到着した一行は、門をくぐりかけたところで突然の地揺れを感じた。

 馬たちがおびえたようにいななきを上げる。彼らが振り返ると、魔法湖の方角から重い地響きが聞こえてきた。巨大な何かが崩落したようなその音に、シルヴィアが顔色をくす。


「今のって……もしかして魔獣が……」


 動揺する臣下たちに、しかしオスカーは何も答えない。鋭い目を荒野に向けているだけだ。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影