4.湖の畔 ⑦

 彼はほんの数秒そうしていたが、軽くかぶりを振ると指示した。


「中に入るぞ。馬が逃げ出したら困る」

「でも、ティナーシャさんが……」

「あれだけ言ったんだ。何とかするだろう」


 きっと自分たちは皆、彼女の本当の姿を知らないのだ。

 大陸最強の魔女。圧倒的な力の体現者。

 この大陸を長く病ませた「暗黒時代」が終わった後、この時代が「魔女の時代」と呼ばれるのは、彼女たちの力が容易たやすく歴史を変え得るものだからだ。

 魔女の怒りを買えば、一夜にして国が滅ぶ。そんなことは小さな子供でも知っていて──ただそれが今まで、ティナーシャ個人と結びついていなかっただけだろう。

 けれどいつかは知らなければならない。それが、彼女の契約者であるということだ。

 オスカーは、皆が迷いながらも門に入っていく中、一人だけその場で馬を降りた。気づいたドアンが振り返る。


「殿下、どうかなさいましたか?」


 イヌレードの門前には何もない。見張りの邪魔にならぬよう木々も取り払われている。

 オスカーはそんな周囲を軽く見回すと、おもむろに腰のアカーシアを抜いた。間を置かず地面を蹴ると、一瞬で数歩先へ肉薄する。

 恐ろしい速度で振りかかるアカーシアの刃。

 何もない場所を斬るだけのはずだったそれは、けれど次の瞬間、濃い灰色の布をたなびかせた。

 王太子を見ていたドアンは、その光景を理解してぎょっとする。

 ──アカーシアが斬り裂いたものは、不可視の結界と、そこに潜んでいた術者のローブだ。

 すんでのところで跳び下がったらしいその相手に、オスカーは誰何する。


「何者だ? お前もあの魔法士の仲間か?」

「……参ったね。勘がいいとは知っていたけど、さすがに予想外だ」


 斬られたローブを一瞥して笑ったのは、若い男の魔法士だ。甘めの顔立ちに明るい茶色の髪。同じ色の瞳は緊張をたたえている。その容貌にオスカーはすぐ心当たりを思い出した。


「お前、ひょっとして祝祭の時に城都にいた男か? さっきティナーシャと別れた後から俺たちの方についてきてたな。ずっとあれを見張っていたのか?」

「まさか。そんなことをしたらすぐに捕まるよ。現に彼女は僕を探知しようとしてたみたいだしね」


 その言葉が意味するところは、この男はティナーシャの探知に気づいていたということだ。魔女が伸ばした手に気づいて逃げきれるのは、並の実力者ではない。

 オスカーは一段警戒を強める。気取られないように足の重心を移動させた。

 男は腹を押さえたまま苦笑する。


「僕がしたいのは、ただの助言だ」

「助言?」

「ああ、あなたの守護者がもっとも知りたがっているものだ。できれば仲介してもらえると嬉しいな。きっと彼女も喜ぶ」

「俺が怒られるの間違いだろう。あいつが知りたがっていることを、あいつ自身が手に入れられないはずがない」


 オスカーの即答に、男は笑顔を少し強張らせた。何かを言おうとして、だが結局嘆息する。


「本当に……彼女もあなたもそういうところが厄介なんだよ。頭が回って甘言に乗らない。だからいつも結局、からを取る羽目になるんだ」

「戯言を吐くな。うちの魔法士を殺させたのもお前か?」

「調査に来させない方がいい、とは言ったけどね。やり方を決めたのは彼らだ。僕がすることはいつも、誰かに何かを教えることだけだ。その先は当人の自由だよ」

「回りくどいことを言う。ドルーザの魔法士とは別口なのか?」


 目の前の男はまぎれもなく魔法士ではあるのだが、それだけではない嫌な気配も感じる。ティナーシャはこの男について「かなりの魔力を隠蔽している」と言っていたが、そのせいだろうか。


「僕はどの国の人間でもないよ。厳密にはあなたたちの敵でさえない。ただ彼女に用があるだけだ」

「なるほど。あいつに用があるのは本当か。──ならここで死んでゆけ」


 言い終わるより先に、オスカーは距離を詰める。

 全ての魔法結界を斬り裂く刃が、男に向けて振るわれた。

 しかしその刃は、突如宙に現れた岩に当たり跳ね返る。オスカーが目を丸くする間に、男は転移構成を組んだ。ドアンの放った捕縛魔法が届くより一瞬早く、男はその場から消え去る。

 すんでのところで怪しい魔法士を取り逃してしまったことに、ドアンは歯嚙みした。


「申し訳ありません、殿下……力及ばず」

「いや、それはいいんだが。なんだこの岩。どこから出てきた」


 オスカーの足元に転がっているのは、大きな猫ほどの大きさの岩だ。突然現れたこの岩に、アカーシアの刃は防がれたのだ。ドアンは苦い顔で説明する。


「別の場所にあったものを転移で引き寄せたんでしょう。相当機転の利く相手です」


 アカーシアはあらゆる魔法を斬り裂くが、実体があるものを斬るなら普通の剣より少し強度があるくらいだ。それを知っていて対応してきた男は確かに面倒な相手だろう。

 オスカーは周囲に気配がないことを確認して、アカーシアについた血を払う。


「殺すつもりだったんだがな……」


 相手の目的がティナーシャである以上、今、排除しておきたかった。せめて彼女が魔獣と戦っている時くらい、足止めをしてしかるべきだっただろう。

 だができたことは、最初の一撃を与えることくらいだ。ローブの上から斬った感触からして、致命傷ではないが、そう軽くもないだろう。ドアンがかぶりを振る。


「あの傷なら、治癒を施すとしてもしばらくは動けないでしょう」

「足止めくらいにはなったか。次は仕留めよう」


 再び地を伝ってくる震動に、オスカーは魔法湖の方を見やる。

 まるで大きな繭にも見える霧。その中には彼の魔女がいるはずなのだ。



 立ちこめる爆煙の中、ティナーシャは上空に浮かんで眼下を見下ろしていた。

 魔獣が目覚めた衝撃で、地中には激しい落盤が起こっている。おそらく生き残った魔法士も他の死体もろとも地中に眠ることになっただろう。

 ティナーシャは周りを飛んでいるドラゴンに声をかけた。


「ナーク、終わるまで危ないから下がってろ」


 ドラゴンは主人の命をうけて、土煙と霧の混ざる中にその赤い姿を消した。

 地上の砂煙が徐々に晴れてくる。

 魔法湖の中央、巨大な銀色の狼が頭を上げてティナーシャを睨んでいた。銀の体毛に覆われた額には大きな紅石が嵌まっている。同じ色の瞳は敵意に輝いて、宙に立つ小さな魔女を捉えていた。

 ティナーシャは嫣然と微笑む。


「七十年ぶりだな。よい眠りだったか?」


 数十年ぶりのかいこうがお互いにもたらすものは、どちらかの死だ。

 きっと魔獣もそのことは分かっているのだろう。銀の体毛が、獣の戦意に呼応してうっすらと光を帯び始める。純粋な魔力量なら、他の魔女に匹敵するほどかもしれない。


「けどまあ、魔法士の強さは魔力量じゃ測れないからな」


 ティナーシャはそう言うと右手を掲げた。白い手の上に光球が現れる。

 まばゆい光球は、あっという間に膨れ上がると耳障りな音を立て始めた。枝状に広がる雷光が球にまとわりつく。それに応えるかのように魔獣がほうこうした。

 びりびりと空気を振るわせる威嚇。開かれた口から衝撃波が放たれる。

 魔獣からの先制をティナーシャは横に跳んで避けた。すかさず光球を開いたままの口に放つ。

 しかし魔獣は、光球が口内に飛びこむ寸前で頭を伏せた。己の額で白光を受ける。

 光球は銀色の長い体毛に吸いこまれ、火花を上げながら拡散していった。


「どれだけフサフサなんだ……」


 七十年前、彼女が苦労した理由の一つが、この魔法抵抗の高さだ。生半可な攻撃では傷を与えることもできない。そしてこの抵抗を超える攻撃を放てば──周りの人間も無事では済まない。

 だからこそかつては、封印を選ばざるを得なかった。


「知ってはいたが厄介だな」


 ぼやくティナーシャの体を、鋭い爪が薙ぎ払おうとする。

 彼女はその一撃をすんでで避けた。空中を駆けると魔獣の足元に滑りこむ。彼女は白い足に装備していた円筒を引き抜くと、小さな蓋を指で弾いた。中から赤い球が掌に転がり出る。彼女はそれに構成を注いだ。


「満ちよ、我が定義よ……」

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影