4.湖の畔 ⑧

 爪の二撃目が襲ってくる。魔女は地面を蹴って避けながら、構成を詰めた赤い球を魔獣の後ろ足目がけて投げつけた。球は見えない刃を纏っているかのように銀の体毛を切り裂きながら、その下の肉に食いこむ。──次の瞬間、魔獣の後ろ足が血肉をらして爆ぜた。

 苦悶の咆哮が辺りにとどろく。怒りで真っ赤に染まった目が彼女を探した。魔獣は魔法湖の上に立つ彼女を見つけると、牙を剝き出しに食らいつこうとする。


「おっと」


 迫りくる巨大な顎を、ティナーシャは防御結界を展開して受け流した。再び宙に浮き上がりながら爆ぜた後ろ足を見ると、そこは既に真新しい肉が盛り上がっている。たちまち塞がった傷の上に銀の体毛が生えだしていた。


「相変わらず治りが早い早い」


 魔女は謳うように皮肉ると、円筒を振ってまた赤い球を取り出す。彼女は空中で一回転すると、今度は別の前足に向かって赤い球を放った。肉が飛び散る鈍い音が辺りに響く。



『もし七十年前、国王レギウスの傍に青き月の魔女がいなければ、魔獣はそのまま城都までも蹂躙していたであろう』


 それはある有名な歴史書に書かれた一節で、多くの学者たちが同意するところだ。

 魔獣の特徴と言える、魔法を受け付けぬきょうじんな体。巨体からくる無尽蔵の体力に、森を薙ぎ払う膂力、驚異的な回復力。人間が太刀打ちしえないそれらの力は、数万の軍勢をものともしなかった。

 当時の戦争を傍観していた諸国でさえ、ファルサスが滅びた後、魔獣に対しどのような対策を取ればいいのか、答えの出ぬ問題に騒然となっていたくらいだ。

 だが、彼らの心配はゆうで終わった。戦場に現れた王の魔女は、半日にも及ぶ苛烈な戦闘の後に魔獣を封印し、その後ファルサスを去ったのだ。

 或いは彼女に救われたのは、ファルサスだけでなく他の多くの国や人もそうだったのかもしれない。人々はこの一件により、魔女の力の強大さを改めて実感した。

 そして七十年が経ち──彼女は新たな契約者のもと再び魔獣と相対する。



「っと……危ない」


 魔獣の爪が彼女の黒髪を掠めていく。先程から間断ない攻撃をかわしているティナーシャは、その過程で持っていた七つの球を使い果たしてしまった。しかし魔獣の体は、どんな傷を与えても瞬時に塞がってしまう。後には銀の体毛が何事もなかったように揺れているだけだ。

 一方ティナーシャの方は、休む暇もなく飛び回ることで息が上がってきている。彼女は爪の一撃を避けて高く跳躍すると、再び魔獣を上空から見下ろした。


「なまったつもりはなかったんだが……体力のなさは仕方ないな」


 少女の華奢な体ではどうしても限界がある。彼女の額や首筋には、粒になった汗が浮いていた。

 ティナーシャはべったりと張り付いた黒髪を背後に流すと、自嘲ぎみに独りごちる。


「さて、問題はここからか。──七十年前の繰り返しになるか?」


 結果がどう転ぼうと、最終的に行きつく先は一つ、どちらかの死だ。

 魔女は深く息を吸う。淡々と詠唱を始めた。


「上昇せよ。とらわれしろうごくは未だ闇の中にあり。汝が見るはただ七つの束縛のみ」


 詠唱に呼応して、魔獣の体内に埋めこまれた赤い球が肉を貫いて光り出す。体のあちこちから湧き出る光に、魔獣は苦しげなうなり声を上げた。


「意味を求めぬ安寧は盲目。拒絶せし愚鈍の洞窟に眠る」


 七つの球から溢れ出る魔力の光、それらは無数の糸になると、互いに絡み合いながら魔獣を束縛し巨大な構成を織り上げていった。魔獣がそれから逃れようともがいても、網状になった構成は柔軟に巨体に絡み付いて離れない。

 そうして作られた紋様が完全に魔獣を捕らえた時、ティナーシャは詠唱をやめて一息ついた。


「悪いが、今度は死んでもらう。お前もここにいても何も得られないだろう」


 魔法生物として生を受け、戦争の道具として呼び覚まされた。

 それはひどくいびつな、ままならぬ在り方だ。望んでそうなったわけではない獣に、ティナーシャは哀切さえ込めた視線を向ける。

 そして彼女は、殺すための詠唱を開始した。


「我が意志を命と認識せよ。全ての空間に満ちる沈黙者よ。我が言葉なくして力は在らず。消失のための光を定義せよ……」


 ティナーシャの頭上に巨大な光の構成が現れる。円環状の紋様は、ゆっくりと回転しながら魔法湖の魔力を吸い上げ始めた。ティナーシャの頭上に恐ろしいほどの力がこごり始める。





 みるみるうちに光を増す紋様に気づいて魔獣が頭を上げる。憎悪に燃える赤い目が、魔女の闇色の目とぶつかった。低い唸り声が地を揺るがす。

 殺意と空虚。両者の間に交差するものは、似て非なる感情だ。

 無音の数秒が過ぎる。それが永遠になるかと思われた時──不意に魔獣の巨体が跳ね上がった。

 銀色の顎が戒めを突き破り、魔女に迫る。


「……っ!」


 ティナーシャは咄嗟に外套を外すと、白い牙目がけて投げつけた。魔法で織られた布が空気を孕んで広がる。そこに込められていた防御陣が発動し、光の壁が生まれた。

 しかし魔獣の牙は、その防御を一瞬で突破した。

 巨大な顎は刹那で肉薄すると、止めるまもなく彼女に食らいつく。薄い腹に深々と刺さる牙。彼女の体はあっけなく魔獣にくわえこまれた。


「あ──」


 衝撃と激痛が、ティナーシャの体を弓なりに反らせる。彼女はそれ以上の苦悶を飲みこんだが、代わりに頭の中は真っ白になりかけた。魔獣はなおも彼女をしゃくしようと口を開く。

 ──気が遠くなる。

 だが、意識を失うことはできない。そうなれば組みかけた構成が消えてしまう。

 ここでとどまらなければ──自分は何にも届かぬままだ。

 魔獣の顎が大きく開かれる。ティナーシャは全身の力を揮って牙を蹴った。爪先に灯った構成が白い牙を割り砕く。その反動を利用して彼女は魔獣の顎から逃れた。

 左手で押さえた腹から血が大量に零れ始める。


「これで、終わりだ」


 ティナーシャは右手を頭上にかざした。眩い光が掌上に集まっていく。

 そうして放たれた構成は、湖を覆うほどに広がりながら銀色の巨体を飲みこんでいった。


 轟音と共に地が揺れる。

 その日魔法湖に上がった閃光は、イヌレードの砦のみならず、旧ドルーザの城都にまで届いた。

 真っ白な光が空を焼き、地響きが遠い街にまで伝わる。人ならざるえんの叫びが、空気を震わせて人々の耳に響いた。

 しかしそのような異変を受けても、旧ドルーザの民は皆、かつての苦い記憶が残る場所、今は無国籍地帯となっている魔法湖に近づいてみようとはしなかった。

 七十年前の戦争の遺産は、こうして人知れず姿を消したのだ。



 陽が少しずつ落ちていく。砦に届く風は乾いた匂いがした。

 砦の城壁に出ているオスカーに、メレディナが遠慮がちに声をかける。


「殿下、そろそろ城にお戻りになられては……」


 遠い荒野を見ていた青年は、そう問われて振り返る。二時間ほど前に魔法湖の方角で閃光が確認されてから、彼はずっとここに立っているのだ。そろそろ辺りは暗くなり始めており、砦のあちこちには火が灯されつつあった。

 オスカーはかぶりを振って返す。


「いや、もう少し待つ」


 メレディナは何か言いたげに、だが黙して引き下がった。オスカーは再び荒野に向き直る。

 ──本当は様子を見に行こうかと何度も思った。だが、結局はそれをできないでいる。

 守護者である魔女を信頼するのもまた、契約者の務めなのだ。彼が連れてきたのは塔に閉じこめられた無力な少女ではなく、歴史の影に立つ圧倒的な力の体現者だ。そこを履き違えてはならない。


『レグなら行かせてくれましたよ』


 彼女のそんな言葉は、オスカーの知らない遠き日のことだ。


「曾祖父か……」


 あの魔女は、顔も知らない曾祖父を愛していたのだろうか。もしまた会えるのなら聞いてみよう……オスカーはそう思って、まるで彼女が戻ってこないかのような発想に苦笑した。

 ──まだ契約終了まであと十月以上もある。いつでも聞けるはずだ。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影