4.湖の畔 ⑨

 彼は顔を上げる。ふと視界の先に黒い影が映った。小さな影は、遥か遠くの空から徐々に砦の方へと近づいてくる。大きな翼を羽ばたかせてぐ向かってくるそれは、ティナーシャのドラゴンだ。オスカーは無意識のうちに安堵の息をついた。ドラゴンは、主人の契約者である彼を目標にしてきたらしく、オスカーの頭上まで来るとゆっくり高度を下げた。まだ見えないその背に向かって彼は呼びかける。


「ティナーシャ、どうだった?」


 彼女の勝利を疑っていない問いに対し、しかしドラゴンの背からは何の返事もない。


「ティナーシャ?」


 彼は急に不安になって、ドラゴンの体に手をかけるとその背に飛び乗った。体勢を整えながら視線を動かし、愕然とする。

 そこに横たわっていたのは、まみれの彼の魔女だ。

 一瞬で血の気が引く。彼はその体を抱き起こした。意識のない魔女から目を離さぬまま叫ぶ。


「誰か! 魔法士を呼べ!」

「殿下!? どうかなさいました!?」


 近くに控えていたメレディナが駆けてくる。その後ろにいるシルヴィアを見つけて、オスカーは彼女を呼んだ。


「シルヴィア! こいつの怪我を診てくれ!」


 魔女の体は全身が血塗れだが、特にひどいのが腹部だ。魔法着は引き裂かれて、ところどころ肉片と思しきものがこびりついている。息はあるようだが、こんな状態でいつまでもつか分からない。

 オスカーが彼女の体を抱いて降りると、その有様を見たシルヴィアは悲鳴を上げた。


「へ、部屋に運んでください! すぐに処置しますから! メレディナ、お湯と布を早く!」

「分かった! 殿下は彼女をあちらの部屋に!」


 叫んで走り出す女性二人につられて、周囲も一気に騒然とする。オスカーは魔女の体を抱えこむと駆けだした。その後を小さくなったドラゴンが追う。

 治療にかかった時間は、そう長くなかった。手を拭きながら部屋を出てきたシルヴィアは、待っていたオスカーに軽く一礼する。


「全身診させて頂きましたが、大きなお怪我はありませんでした。小さな傷は治しましたが……」

「怪我はないって、腹はどうしたんだ」

「ご自分で塞がれていたようです。中がどうなってるかは分かりませんが……」

「そうか……助かった」


 安堵に全身から力が抜ける。オスカーが礼を言うとシルヴィアは笑った。


「見た目があの出血でしたから、処置しきれない重傷かとも思ったのですがよかったです。体の血は拭いて、破れた服は他の装備と一緒に置いてあります」

「ああ」


 頷く彼の肩には、小さくなったドラゴンのナークが止まっている。その口には大きな紅石が咥えられていた。オスカーはドラゴンの頭を撫でる。


「入っても構わないか?」

「どうぞ。魔力が回復するまではお目覚めにはならないとは思いますが」


 頭を下げるシルヴィアの横を通って、オスカーは室内に入った。

 広い寝台の上、ティナーシャは安らかな顔で目を閉じている。彼は近づいてその寝息を確認し、また掛けられた布越しに腹に触れて何でもないことを確かめると、ようやく安心した。


「まったく……心配させるな」


 彼は手を伸ばして小さな頰に触れる。疑いようのない温かさがそこにあった。



 結局その晩オスカーは砦に泊まった。

 調査隊のうち、メレディナを初め兵士のほとんどは先に城へと帰ったが、シルヴィアやドアンら魔法士たちと護衛の兵士二人は、ティナーシャが急変した時のために砦に留まった。重傷を負った魔女をすぐに動かすのは躊躇ためらわれて、オスカー自身がそう決めたのだ。

 何事もなく一晩明けての昼過ぎ、彼は魔女の回復を待って砦の一室で仕事をしていた。砦を見回って来たドアンが報告する。


「昨日の魔法士の気配はないようです。結界は補強しておきましたが、何分、得体の知れない相手ですので……」

「ひとまずはティナーシャが目を覚ますまで近づけさせなければいい。あいつが起きたら相談だな」


 怪しい魔法士の青年は、ティナーシャのことを知っているようだった。ならば魔法士同士、彼女本人に意見を仰いだ方がいい。そのために今は、彼女を守ることが肝心だ。

 オスカーはもう一度彼女の様子を見に行こうか迷う。

 ちょうどその時──ティナーシャのいる寝室から女の叫び声が聞こえてきた。


「なんだ!?」


 魔女の声ではない。襲撃を予想してオスカーは駆け出す。

 寝室の前にはシルヴィアが何故か赤い顔をして立っていた。


「どうかしたのか!」

「あ、殿下……いえ失礼しました。何でもないのです。少々お待ちください」


 シルヴィアは妙に焦った様子で扉の前に立ち塞がる。不審に思ったオスカーは彼女を押しのけた。


「入るぞ」

「殿下! お待ちを!」


 制止の声を聞きながら中に入ったオスカーは、理解不能な光景に思わず硬直した。

 寝台の上に、魔女が裸の半身を起こしている。それだけなら別に驚くべきことではない。

 だがその黒髪は、たった一晩で床に届くほど伸びて広がっていた。

 彼女はオスカーに気づくと、己の裸身を掛布で隠す。ひきつった笑いを見せるその姿は、彼が知る少女のものではなく──二十歳前の大人と言っていい容姿になっていた。

 魔女は、彼を睨んだまま背後の枕を手に取る。


「服を、着るまで、入ってくるな!」


 投げられた枕を避けると、オスカーは無言のまま外に出て扉を閉めた。肩の上では我関せずのナークが欠伸をしている。


「なんだあれ……」

「だから、お待ちくださいと申し上げたじゃないですか……」


 シルヴィアが片手で顔を押さえて呟いた。


 ティナーシャはシルヴィアの服を借りると、長い髪を鬱陶しそうに引きずって出てきた。

 これまでも息を吞むような美少女だったが、年齢の上がった今はせいれつさと艶を併せ持っている。

 長い睫毛が作る影が、憂いを帯びて人目を引く。悠久を含んだ両眼は神秘そのもので、放っておけば時を忘れていつまでも見入ってしまっただろう。

 事実、外で待っていたオスカーは、現れた彼女にどうもくすると、まじまじとその双眸に見惚れてしまった。いつまでも何も言わない契約者に、ティナーシャは嫌そうな顔になる。


「なんですか……気味が悪いんで、何か言ってくださいよ……」

「いや……」


 オスカーは迷いながらも魔女に手を伸ばした。いつものようにぐりぐりと頭を撫でると、ティナーシャは猫のように目を細める。そんな姿は、やはり前と同じ彼の魔女だ。

 オスカーは自分の気を落ち着かせつつ尋ねた。


「一体何があったんだ。その姿はどうした」

「内臓の破損がひどかったんで、体の成長速度を急激に早めて修復したんですよ。髪邪魔ですね」


 言いながら彼女は無造作に短剣を出して髪に当てようとした。シルヴィアが慌ててそれを止める。


「わたしがしますから座っててください」

「え、すぱっと切っちゃいますよ」

「わたしが! やりますから!」

「はい……」


 大人しく椅子に座ったティナーシャの髪を、シルヴィアは丁寧にくしけずり始めた。オスカーは魔女の向かいに座り直す。


「内臓の破損って、大丈夫なのか?」

「もう平気です。ちょっと出血し過ぎて血が足りないくらい」

「あれはさすがに死んでるかと思ったぞ。その外見は戻るのか?」

「戻りません。塔でも言いましたけど、私の外見って成長を停滞させてるだけで、魔法で変えてるわけじゃないですから。見せかけだけなら戻せますけど、貴方、少女愛者なんですか?」

「全く違う」


 むしろ今の姿の方がよほど惹かれる。だが、彼女の精神から鑑みるだに、こちらの方が本質に近いのだろう。大人びた眼差しが似合うようになった魔女に、オスカーは内心で嘆息した。

 そんな彼の肩から、ナークが魔女の膝に飛び移る。彼女はその背を撫でてやった。


「オスカー、懐かれましたね。これをくれるみたいですよ」


 ドラゴンは咥えていた紅石をティナーシャの手の中に落とす。片手に余るくらいの大きな宝石を、彼女はオスカーに放った。彼は空中で受け止めた赤い石をまじまじと眺める。石は、元はもっと大きかったのか、大きく割れた跡があった。


「魔獣の核ですよ。半分しか拾えなかったみたいですけど。もうただの宝石だから大丈夫です」

「魔獣の核って……お前魔獣を倒してきたのか!?」

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影