5.水の中に落ちる ①
体を
だからたくさんの夢を見た。整理しきれていない、遠い過去の記憶を。
その中の自分は、子供で、魔女で、無数の時を無数の形で過ごしていた。
まるで何もない乾いた荒野を一人行くようだ。
先に進み続けるのは自分だけだ。否、進んでいると思っているだけで、本当は立ち止まり続けているのかもしれない。全てを失ったあの日のまま、自分は──
その時、ふっと誰かの手が髪に触れた。
意識が浮き上がる。視界に光が差す。
周囲に明るさを感じて、だが眠りは覚めない。温かな手がゆっくりと頭を撫でていく。
まるで守られているかのような優しい手。その感触に彼女は夢のない安息の中へ降りていく。
そうしてようやく体が癒えて目覚めた時、ティナーシャは裸の膝を抱いて首を傾げた。
「……オスカー?」
何故彼の名が浮かんだのかは分からない。
ただふっと胸の奥に温かさを覚えて……魔女は淡くはにかんだ。
※
魔女から聞き取った内容を加えて、オスカーはすぐに砦の執務室で今回の報告書を作成した。
あとは城に戻ってこれを提出すれば終わりだ。彼は顔を上げると、近くにいた彼女を手招く。
「何ですか?」
怪訝そうに寄ってきたティナーシャの体を、オスカーは無造作に抱き上げると自分の膝に横向きに座らせた。華奢な体は意識がない時は体重を感じられたが、今は人間とは思えない軽さだ。普段ふわふわ宙を漂っているのも、魔法で重さを軽減しているせいかもしれない。
子供のように抱き上げられたティナーシャは、白い目を契約者に向けた。
「何なんですか……」
「いや、どうもつい触りたくなるような外見になったな」
「…………」
ティナーシャは嫌そうな顔になったが、オスカーは気にせず切り揃えられた黒髪を梳いている。
「一応先に帰った者には口止めをしたが、この姿では魔女であることをもう隠せないな。見せかけでも戻していくか?」
「いえ、もういいです。人の口に戸を立てるのは難しいです」
「そうか」
「この馬鹿王子を殿下って呼ぶのも疲れるんでちょうどいいです」
「疲れるのか……」
魔女は細い足を組むと、空中をうろうろしていたナークを膝の上に引き取る。窓から差しこむ日の光が、彼女の白い足に温かみを持たせた。
「魔法湖に霧がかかってたのは魔獣のせいだったので、まもなく晴れると思います。これからは三ヶ月に一度観測に行けばいいでしょう。あ、落盤してるので気をつけるように言ってください」
「魔法湖はなくならないのか」
「あれはあの地に飛び散ってしまった強力な魔法の残滓ですから……。ちょっと消費されても、すぐ周囲の魔力や生命力を吸い取って戻るんですよ」
「そういうものなのか」
オスカーは剝き出しになっているティナーシャの爪先を撫でる。その手にナークがじゃれついた。魔女は腕組みをして考えこむ。
「でも、貴方が斬ったその魔法士の男は気になりますね。つまりあの骸骨に入れ知恵してたのは、その男ってことなんでしょう?」
「多分そうだろうな」
「そうまでして、私に何の用事なんでしょう。鬱陶しいから真正面から来ればいいのに」
「それをしたら殺されそうだからじゃないか?」
「人を何だと思ってるんですか。殺しますけど」
白々と言う辺り、相手が用心するのも無理はない。だがあの様子から言って、今後も間接的に手出しをされる可能性はあるだろう。直接的に挑んでこられるより余程面倒だ。
けれどティナーシャは、きっぱりと言いきる。
「ともかく、私狙いで貴方に迷惑をかけるわけにはいきませんから。次に仕掛けてきたらきっちり始末をつけます」
「気持ちは分かるが無理をするなよ。お前一人に任せている方が心配だ」
「……以後気をつけます」
彼女が小さくうなだれたのは、心配をかけた自覚があるからだろう。オスカーは微笑すると、ナークを自分の肩に乗せる。それをしながら聞きたかったことを口にした。
「そう言えば、俺の<外字>祖父はどんな人間だったんだ」
「……何ですか急に。どうしてそんなこと知りたいんですか」
「いや、好奇心。あの骸骨が言ってただろ」
あの老魔法士はレギウスのことを「魔女の愛しい男」と言っていたのだ。ティナーシャはしかし、頭を抱えて悶絶する。
「あれはぁぁっ! 当時もああいう誤解している人はいたんですけど。まったく違うと言わせて頂きたいです!」
「ファルサスにも昔話で伝わってるぞ」
七十年前の王と魔女の話は、御伽噺として子供の間に広く伝わっている。当然オスカーもそれを聞いたことがあった。話の中のティナーシャはいかにもといった魔女で、だからオスカーも実際の彼女を知って意外に思ったのだ。
「そういう話があるらしいとは知ってるんですが、腹が立ちそうなので聞いたことはないです」
「助力を要請する王に、代償として国をくれと結婚を迫ったという……」
「うわぁぁぁ」
「しかし戦争が終わった後、王が観念して結婚式を開いたが、姿を見せず消え去ったとか」
「ところどころあってるけど全く違う!」
怒気と共に魔力が洩れているのか、窓の硝子がピシピシと異音を立てる。そうしているだけで精神を消耗するらしく、ティナーシャは肩で大きく息をついた。その首筋をオスカーは指で撫でる。
「まぁそんなことだろうと思ったが」
魔女はぶるっと全身を震わせると暴れた。
「くすぐったい! いい加減やめてください」
「ああ、悪い。あんまり触るとまずいな」
オスカーが触れていた手を離して解放してやると、魔女は空中に音もなく浮かんだ。ナークがその後を追って飛び上がる。ティナーシャはナークを抱き取ると、空中で足を組み直した。
「レグはですね……一言でいうと……馬鹿王でした」
「…………」
第十八代ファルサス王レギウス・クルス・ラル・ファルサスは、父王の急死により弱冠十五歳で即位した。その人柄は、真っ直ぐで人を疑うことをせず、諦めることを知らず、公明正大で、善き王であったと言われる。
「初めて会った時はまだドルーザ侵攻の前で……。塔に登ってきたから望みを聞いたら、いきなり結婚を申しこまれたんですよね……」
「非常識な話だ」
「もう一人いましたけど」
オスカーは聞こえないふりをしてナークを手招く。ドラゴンがその手招きに応えて飛び立つと、魔女は宙でゆるやかに回転しながら、彼を白眼で見下ろした。
「まぁ貴方みたいな特殊な事情があったらまだ分かるんですが! まったく! なかったんですよ! だから、魔女を王妃にするなんてどうかしてると説教したんですが……」
「国をくれと迫ったことになっていると」
「いらないよ!」
オスカーが似たような苦言を賜ったのは、<外字>祖父のせいなのかもしれない。
「で、それからどうしたんだ?」
「断ったんですが二日粘られました」
「…………」
「いい加減怒ったら、ようやく別の案を出して来たんですが、それが『自分が死ぬまで目の届くところに居て欲しい』だったんですよ。そもそも何しに塔に登って来たんですかね」
「……馬鹿だな」
聞くべきではない話を聞いてしまっている気がする。しかし彼は頭痛を堪えて続きを促した。
「それを飲んだのか?」
「条件つきで。私はその代わり、レグのために何もしない、助けない。もし私の助けを要請するようなことがあったら、それを新しい契約条項として、私は二度とレグの前に現れない、と」
「で、魔獣が現れたわけか」
「すっごく嫌そうに頼みに来ましたよ。決断は比較的早かったと思いますが」
「それは重臣たちも歴史に残したくなかっただろうな……」
だから事実を捻じ曲げて、あのような御伽噺が流布されたのかもしれない。だが当の魔女にしてみればいい迷惑だろう。ティナーシャは空中で両手をわななかせた。
「そこで終わっていれば、まだよかったんですけどね!」
「まだ何かあるのか……」
「契約の件は終了だけど、一人の人間としての関係はそれに縛られないからと言って」
「言って?」
「か、勝手に結婚式を……いつの間にか用意されていて……
「…………」
オスカーはこめかみを押さえる。頭痛だけではなく眩暈がした。



