5.水の中に落ちる ①

 体をいやすための浅い眠りだった。

 だからたくさんの夢を見た。整理しきれていない、遠い過去の記憶を。

 その中の自分は、子供で、魔女で、無数の時を無数の形で過ごしていた。

 まるで何もない乾いた荒野を一人行くようだ。

 つかの契約者たちも皆、自分の時を生きて死んでいく。

 先に進み続けるのは自分だけだ。否、進んでいると思っているだけで、本当は立ち止まり続けているのかもしれない。全てを失ったあの日のまま、自分は──

 その時、ふっと誰かの手が髪に触れた。

 意識が浮き上がる。視界に光が差す。

 周囲に明るさを感じて、だが眠りは覚めない。温かな手がゆっくりと頭を撫でていく。

 まるで守られているかのような優しい手。その感触に彼女は夢のない安息の中へ降りていく。

 そうしてようやく体が癒えて目覚めた時、ティナーシャは裸の膝を抱いて首を傾げた。


「……オスカー?」


 何故彼の名が浮かんだのかは分からない。

 ただふっと胸の奥に温かさを覚えて……魔女は淡くはにかんだ。



 魔女から聞き取った内容を加えて、オスカーはすぐに砦の執務室で今回の報告書を作成した。

 あとは城に戻ってこれを提出すれば終わりだ。彼は顔を上げると、近くにいた彼女を手招く。


「何ですか?」


 怪訝そうに寄ってきたティナーシャの体を、オスカーは無造作に抱き上げると自分の膝に横向きに座らせた。華奢な体は意識がない時は体重を感じられたが、今は人間とは思えない軽さだ。普段ふわふわ宙を漂っているのも、魔法で重さを軽減しているせいかもしれない。

 子供のように抱き上げられたティナーシャは、白い目を契約者に向けた。


「何なんですか……」

「いや、どうもつい触りたくなるような外見になったな」

「…………」


 ティナーシャは嫌そうな顔になったが、オスカーは気にせず切り揃えられた黒髪を梳いている。


「一応先に帰った者には口止めをしたが、この姿では魔女であることをもう隠せないな。見せかけでも戻していくか?」

「いえ、もういいです。人の口に戸を立てるのは難しいです」

「そうか」

「この馬鹿王子を殿下って呼ぶのも疲れるんでちょうどいいです」

「疲れるのか……」


 魔女は細い足を組むと、空中をうろうろしていたナークを膝の上に引き取る。窓から差しこむ日の光が、彼女の白い足に温かみを持たせた。


「魔法湖に霧がかかってたのは魔獣のせいだったので、まもなく晴れると思います。これからは三ヶ月に一度観測に行けばいいでしょう。あ、落盤してるので気をつけるように言ってください」

「魔法湖はなくならないのか」

「あれはあの地に飛び散ってしまった強力な魔法の残滓ですから……。ちょっと消費されても、すぐ周囲の魔力や生命力を吸い取って戻るんですよ」

「そういうものなのか」


 オスカーは剝き出しになっているティナーシャの爪先を撫でる。その手にナークがじゃれついた。魔女は腕組みをして考えこむ。


「でも、貴方が斬ったその魔法士の男は気になりますね。つまりあの骸骨に入れ知恵してたのは、その男ってことなんでしょう?」

「多分そうだろうな」

「そうまでして、私に何の用事なんでしょう。鬱陶しいから真正面から来ればいいのに」

「それをしたら殺されそうだからじゃないか?」

「人を何だと思ってるんですか。殺しますけど」


 白々と言う辺り、相手が用心するのも無理はない。だがあの様子から言って、今後も間接的に手出しをされる可能性はあるだろう。直接的に挑んでこられるより余程面倒だ。

 けれどティナーシャは、きっぱりと言いきる。


「ともかく、私狙いで貴方に迷惑をかけるわけにはいきませんから。次に仕掛けてきたらきっちり始末をつけます」

「気持ちは分かるが無理をするなよ。お前一人に任せている方が心配だ」

「……以後気をつけます」


 彼女が小さくうなだれたのは、心配をかけた自覚があるからだろう。オスカーは微笑すると、ナークを自分の肩に乗せる。それをしながら聞きたかったことを口にした。


「そう言えば、俺の<外字>祖父はどんな人間だったんだ」

「……何ですか急に。どうしてそんなこと知りたいんですか」

「いや、好奇心。あの骸骨が言ってただろ」


 あの老魔法士はレギウスのことを「魔女の愛しい男」と言っていたのだ。ティナーシャはしかし、頭を抱えて悶絶する。


「あれはぁぁっ! 当時もああいう誤解している人はいたんですけど。まったく違うと言わせて頂きたいです!」

「ファルサスにも昔話で伝わってるぞ」


 七十年前の王と魔女の話は、御伽噺として子供の間に広く伝わっている。当然オスカーもそれを聞いたことがあった。話の中のティナーシャはいかにもといった魔女で、だからオスカーも実際の彼女を知って意外に思ったのだ。


「そういう話があるらしいとは知ってるんですが、腹が立ちそうなので聞いたことはないです」

「助力を要請する王に、代償として国をくれと結婚を迫ったという……」

「うわぁぁぁ」

「しかし戦争が終わった後、王が観念して結婚式を開いたが、姿を見せず消え去ったとか」

「ところどころあってるけど全く違う!」


 怒気と共に魔力が洩れているのか、窓の硝子がピシピシと異音を立てる。そうしているだけで精神を消耗するらしく、ティナーシャは肩で大きく息をついた。その首筋をオスカーは指で撫でる。


「まぁそんなことだろうと思ったが」


 魔女はぶるっと全身を震わせると暴れた。


「くすぐったい! いい加減やめてください」

「ああ、悪い。あんまり触るとまずいな」


 オスカーが触れていた手を離して解放してやると、魔女は空中に音もなく浮かんだ。ナークがその後を追って飛び上がる。ティナーシャはナークを抱き取ると、空中で足を組み直した。


「レグはですね……一言でいうと……馬鹿王でした」

「…………」



 第十八代ファルサス王レギウス・クルス・ラル・ファルサスは、父王の急死により弱冠十五歳で即位した。その人柄は、真っ直ぐで人を疑うことをせず、諦めることを知らず、公明正大で、善き王であったと言われる。


「初めて会った時はまだドルーザ侵攻の前で……。塔に登ってきたから望みを聞いたら、いきなり結婚を申しこまれたんですよね……」

「非常識な話だ」

「もう一人いましたけど」


 オスカーは聞こえないふりをしてナークを手招く。ドラゴンがその手招きに応えて飛び立つと、魔女は宙でゆるやかに回転しながら、彼を白眼で見下ろした。


「まぁ貴方みたいな特殊な事情があったらまだ分かるんですが! まったく! なかったんですよ! だから、魔女を王妃にするなんてどうかしてると説教したんですが……」

「国をくれと迫ったことになっていると」

「いらないよ!」


 オスカーが似たような苦言を賜ったのは、<外字>祖父のせいなのかもしれない。


「で、それからどうしたんだ?」

「断ったんですが二日粘られました」

「…………」

「いい加減怒ったら、ようやく別の案を出して来たんですが、それが『自分が死ぬまで目の届くところに居て欲しい』だったんですよ。そもそも何しに塔に登って来たんですかね」

「……馬鹿だな」


 聞くべきではない話を聞いてしまっている気がする。しかし彼は頭痛を堪えて続きを促した。


「それを飲んだのか?」

「条件つきで。私はその代わり、レグのために何もしない、助けない。もし私の助けを要請するようなことがあったら、それを新しい契約条項として、私は二度とレグの前に現れない、と」

「で、魔獣が現れたわけか」

「すっごく嫌そうに頼みに来ましたよ。決断は比較的早かったと思いますが」

「それは重臣たちも歴史に残したくなかっただろうな……」


 だから事実を捻じ曲げて、あのような御伽噺が流布されたのかもしれない。だが当の魔女にしてみればいい迷惑だろう。ティナーシャは空中で両手をわななかせた。


「そこで終わっていれば、まだよかったんですけどね!」

「まだ何かあるのか……」

「契約の件は終了だけど、一人の人間としての関係はそれに縛られないからと言って」

「言って?」

「か、勝手に結婚式を……いつの間にか用意されていて……はなよめしょうが部屋に送られてきて……」

「…………」


 オスカーはこめかみを押さえる。頭痛だけではなく眩暈がした。

刊行シリーズ

Unnamed Memory -after the end-VIの書影
Unnamed Memory -after the end-Vの書影
Unnamed Memory -after the end-Extra Fal-reisiaの書影
Unnamed Memory -after the end-IVの書影
Unnamed Memory -after the end-IIIの書影
Unnamed Memory -after the end-IIの書影
Unnamed Memory -after the end-Iの書影
Unnamed Memory VI 名も無き物語に終焉をの書影
Unnamed Memory V 祈りへと至る沈黙の書影
Unnamed Memory IV 白紙よりもう一度の書影
Unnamed Memory III 永遠を誓いし果ての書影
Unnamed Memory II 玉座に無き女王の書影
Unnamed Memory I 青き月の魔女と呪われし王の書影