第三章 黄昏の約束 ⑥

 不意に、あの夜の婚約破棄の瞬間が頭の中でフラッシュバックした。

 呼吸が乱れ、身体が震える。唇を嚙み締めて耐えようとするが、徐々に視界がかすんでいく。

 あの夜の出来事は、シャルロットが想像している以上に、心の中に深い爪痕として刻まれていた。


「消えろ! このっ────悪魔め!」


 騎士は地面に落ちていた石を投げつける。

 されど、石がシャルロットに到達するよりも先に、黒い髪が視界を遮る。

 冷たく硬い石が皮膚を抉り骨を叩く音が、一人の少年の頭部から聞こえてきた。


「アル、くん…………」


 自ら盾となるように、アルフレッドが目の前に立ちはだかっていた。黒い髪の隙間から、深紅の雫を滴らせながら。


「アルくん……血が……!」

「気にすんな。これぐらいかすり傷だ」


 安心させようとしているのだろう。シャルロットに対して、不器用ながらも穏やかな表情を見せる。だが、それも一瞬。石を投げつけてきた騎士に対し、刃が如き鋭い視線を向ける。

 喉元に切っ先を向けたような威圧感に、騎士たちは黙り込んだ。たじろぐ騎士たちをじろり、といちべつしたアルフレッドは、わざとらしいまでに大仰にため息をつく。


「……使えねぇな、騎士団ってのは。足止めも満足に出来ねぇのか?」

「な、なんだと……!?」

「『みんなが死にかけてるのはお前のせいだ』? 笑わせんな。単にお前らが弱いだけだろ。主力が抜けたとか無様な言い訳なんかしてないで、雑魚は雑魚らしく黙って働け」


 大仰に言葉を重ねるアルフレッドは、火傷を負って地面に横たわる騎士を一瞥し、


「そこに転がってる、死に損ないのようにな」

「────……! お前……!」


 騎士たちの怒りが、徐々にアルフレッドに向けられていく。

 誰もがシャルロットから視線を外し、この場に現れた分かりやすい『悪』に群がっていく。


「ま、お前らが弱いおかげでが出来て助かるけどな。せっかく手に入れた『婚約者』って道具の使い道としちゃあ、悪くはなかった。……礼を言ってやろうか?」

「黙れ! それ以上言ってみろ、ぶっ殺してやる!」

「おい、よせ!」


 げつこうする騎士を周りの者たちがいさめるも、その誰もが嫌悪と怒りを滲ませていた。

 それはもうシャルロットに向けられてはいない。分かりやすい悪役が、全てを一身に浴びている。



「……自分の点数を稼ぎのために、婚約者を道具扱いかよ」

「俺たちが必死になって食い止めた戦いも、点数稼ぎに利用したってのか……?」



 称賛の色に染まっていたはずの騎士たちの目が、徐々に変わっていく。

 アルフレッドだけがただの悪役だと。そう断じる目に、戻っていく。


「……何をしている。撤収作業を続けろ。各員、持ち場に戻れ」


 粛々としたグラシアンの言葉に、騎士たちは不本意そうにしながらぞろぞろとその場から散っていく。そしてグラシアンは無言でアルフレッドに軽く頭を下げ、その場を去った。


「…………っ……」


 もう、誰の顔も見ることができなかった。アルフレッドの行いを、戦いを、自分が壊した。

 自分の置かれている状況も、自分がどう見られているのかも考慮せず。何も考えず、自分が正しいと思うことをして、台無しにして……あの婚約破棄の日と、同じ過ちを繰り返した。

 たった一人を悪役にして、おめおめと自分だけが助かった。



 優しい手が、頭に乗せられた。優しい声が、かけられた。


「今回は『ラグメント』戦の経験が浅い奴が多かったみたいだし、遭遇した個体も狂暴性が高かった。仮に戦力があったとしても負傷者は避けられなかっただろう」


 彼の声はどこまでも優しくて。


「それに戦力が不足していたのはレオにぃのワガママのせいだし、負傷は騎士団の未熟さにも原因がある。あいつらだって分かってるんだよ。シャルが悪くないことぐらいは」


 どこまでも────


「『第五属性エーテル』の魔力を持っていない騎士の連中じゃあ、どうあがいても『ラグメント』には勝てない……それを認めるのが怖いんだ。これまでの努力、歩いてきた道のり、その全てを否定することになる。認めることから逃げて、諦めて、理由をつけて誰かのせいにしたかったんだよ」


 ────痛くて、苦しい。


「だからって許す必要はないけどな。『シャルになら石を投げてもいい』って考えが見え見えだったし。むしろシャルは優しいからうっかり許しそうで心配っつーか……」

「優しくなんかありません」


 ぽつり。ぽつりぽつりぽつり、と。雨粒が肌に滴る。頰を伝う。木々の隙間をすり抜けて、天から雨が降り注ぐ。それはまるで、彼の心。傷から溢れる涙のように。


「私は……優しくなんかありません。ただのバカで、愚かな、卑怯者です」

「シャル?」

「だってそうでしょう?」


 アルフレッドの優しい言葉が、今はどこまでも苦しい。


「婚約破棄の時も、街に出かけた時も、今も。アルくん一人を悪者にして、私だけが助かってます」


 分かっている。今もアルフレッドに対し、甘えているということも。


「何もできないくせに……アルくんだけに、痛みを押し付けて……卑怯者なのは、私です」

「だから気にするなって。こんなのいつものことだし、俺はなんとも思ってない」

「気にしてないなら、どうして────」

「…………馬車に戻ろう。濡れたら風邪ひくぞ」


 冷たい雨の中、温かい手が繫がれる。けれど、それは拒絶に他ならない。言葉を重ねることを拒んだ繫がり。手を引かれながら馬車に戻る道中、シャルロットの目にはアルフレッドの背中だけが映っていた。置き場所を失った言葉は、ついぞ口から出ることはなく。

 ────どうして、そんな傷ついたような顔をしてるんですか。


「…………っ……」


 違う。自分がそうさせた────弱い自分が、そうさせた。

 行きでの賑やかさが噓のように、帰りの馬車の中は静まり返っていた。



 俺たちが『イトエル山』から帰ってきて、数日が経った。


「世話になるよ。クソガキ王子」


 という、とても世話になる側とは思えないセリフと共にエリーヌが王宮を訪れた。


「ほぉ。お前にしては随分と殊勝な態度だ。特別に世話してやるよ」

「そりゃあ楽しみだ。さぞかしもてなしてくれるんだろうねぇ」


 この野郎。前にも言っていたが、エリーヌは『王族嫌い』らしい。

 二百年前、宮廷彫金師をやっていた頃に色々とあったのだろう。

 シャルのおかげとはいえ、そんなやつがよくもまあ協力してくれる気になったものだ。


「エリーヌさん。到着されたんですね。また会えてうれしいです」


 そうこうしているうちにシャル本人が駆け寄り、にこりとした笑顔を見せる。

 清楚でれんで、心が安らぐ花のような笑顔。俺がこいつの悪態から守らねば!


「……ああ。あたしも嬉しい、よ……」


 …………ん?


「あっ、すみません。こんなところで立ち話を……お疲れですよね? マキナさんがお部屋を用意してくれたので、そこで休んでください」

「そこまで気を遣わなくてもいいよ。こっちは世話になる側なんだ。それに、これぐらいで疲れるもんかい。もう少し立ち話をしたって構わないぐらいさ」


 エリーヌは優しく微笑みかけ、シャルに案内されるがままに後ろをついていく。


「態度に差があり過ぎだろ」

「シャルはあたしに大切なことを思い出させてくれた恩人だからね」

「じゃあ俺は?」

「昔のクソみてぇなことを思い出させるクソガキ」

「磔にするぞ」


 何があったんだよ昔の王族と。つーか俺、ただのとばっちりじゃねぇか。


「……ま、あんたにも感謝してるよ。デオフィルを倒してくれたおかげで、大切な魔法石を守ることが出来たからね。だからあんたに協力はする。それだけは約束するよ」


 でも、と。エリーヌはさり気なく言葉を付け加える。


「シャルを泣かせたら承知しないよ」

「……………………」

「なんだい。その変な間は」

「いや…………」


 何気ないエリーヌの言葉が突き刺さる。イトエル山から戻る道中での、騎士団を巡る森での一件でのことが後ろめたい。


「「…………っ……」」


 不意に、シャルと目が合った。前までなら嬉しいはずなのだが、今は少しばかり気まずい。

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