一節 修羅異界

二.リチア新公国 ①

 こうの西方。巨大な運河の流れに接するリチア新公国は、西と北側の陸路でのみ往来可能な要害の地である。水産資源が豊富なこの街は経済的にも安定しており、石畳で舗装された道路も、日中は隊商の流れが途切れることがない。

 ただしこの日、その内の一台の馬車が運び込まんとする荷は、生地や鉄鋼の類ではなかった。


鳥竜ワイバーンが近づいてるな。間違いない」


 小柄な女が、覗き窓から乗り出していた上半身を客車の内へと戻す。外見はまるで子供のような背丈だが、とうに成人の歳だ。げつらんのラナと名乗る、人間ミニアの女である。


じんぞくの群れを襲う時は、連中もああやって一塊の群れで来る。ありゃ間違いなく鳥竜ワイバーンだ。商人どもの誰かが、荷の匂いでも嗅ぎつけられたか……軍だったら処刑ものだぞ」


 青い空気に霞む細かい影は、この距離から見れば鳥の群れのようだ。一の大きさも、人間ミニアの二倍程度の体長しかない。

 だが、鳥竜ワイバーンは鳥とは全く異なる。羽毛もくちばしも持たぬ紛れもないりゅうぞくであり、そしてこの世界の空を制する最速の種だ。今は地平線の果てに見えるおぼろな群れであっても、この隊商の馬車程度の速度では、すぐさま追いつかれてしまうだろう。

 ほろの向こうの御者に向けて、ラナは声を張り上げた。


「ねえ、鳥竜ワイバーンがこっち来る前にリチアに着けないの? もう目と鼻の先でしょ」

「群れが目に見えてるならもう無理ですよ! ラナさんこそ、そこのようへい殿にどうにかしてもらうことはできないんですか?」


 ラナは、同乗者の一名を見た。この客車に乗っている者は、彼女を含めて三名だけだ。


ねんため聞くけど、ヒグアレ。自信の程は?」

「はい。無論、全滅させることはできますが」


 奥に座っていた物体は、淡々と、身動みじろぎもせず答えた。

 ヒグアレと呼ばれたその傭兵は、人間ミニアではない。緻密な樹木の根らしきものに正体を覆った怪異である。絡み合った植物質の塊が、まるでじんぞくのように腰を下ろしているのだ。


「しかし、その前に伺ってよろしいでしょうか。……魔王自称者、と」


 根の隙間、顔面に相当する暗闇に、眼光らしきものがともっている。森林奥深くに生息する知性植物──根獣マンドレイクと呼ばれるじゅうぞくは、じんぞくの生活圏においては極めて珍しい存在であるといえた。


「リチアを治めるタレン殿について、そのような話を聞き及びました。〝本物の魔王〟の恐怖と惨劇については、この私とて知っています。私の次のあるじは、悪人なのでしょうか」

「なんだ、そんなことも分かんないで来たの?」


 ヒグアレは、ラナが新公国へとしょうへいした傭兵の一名である。ラナは魔王自称者タレンが全土に放ったちょうほう兵として、この日に帰還予定の部隊の中でも特に優秀な成果を収めていた。


「魔王自称者は、王国側から見た呼び名だよ。魔王をわざわざ自称する奴なんざいないだろ」

「はい。辺境でも聞いたことはあります。確かじんぞくの社会は、三つの王国が支配しているのだとか」

「……どんだけ遅れてんのさ。今はこうだけだよ。他は全部滅んだ。〝本物の魔王〟のせいでね。そのこうから見たら、自分達だけが〝正なる王〟だ。正統な王族の血を引かずに王を名乗ってる奴らは、〝魔なる王〟を自称してることになる──つまり魔王自称者ってこと」


 組織やじゅつの力を持ちすぎた個人。新たなる種を確立しようとする変異者達。異端の政治概念を持ち込んだ〝客人まろうど〟。

 力ある者達がめいめいに王を名乗り、領地の所有と自治を主張していた時代があった。そのようにして乱立した小国家の王は、正統性を持たぬまつろわぬ王──〝魔なる王〟と呼ばれた。それはこうから離反し領地を独立させたかつての猛将、いましめのタレンであっても例外ではない。

 ……わずか二十五年ほど前までは、そのような魔王自称者達こそが魔王と呼ばれていたのだ。〝本物の魔王〟が現れるまで。


「〝本物の魔王〟は自称者ではなかったのですか」

「あれは……だってあれは〝本物〟だ。あいつ以外の魔王を、魔王と呼べるわけがない。腕の程は聞いてるけどお前、随分世間知らずな奴だな。リチアで学校にでも通うか?」


 それ以前に存在していた魔王など所詮は〝自称者〟でしかなかったのだと、今では誰もが理解している。じんぞくぞく、果てはじゅうぞくりゅうぞくまでをも侵した、恐怖と悪意。

〝本物の魔王〟こそが、ただ一つの悪であった。

 慢性的な対立を続けていた三王国は〝本物の魔王〟の脅威を前に、解体と統合を余儀なくされた。魔王自称者の殆ども秩序に流れて、あるいは〝本物の魔王〟に戦いを挑み、姿を消した。

 悪は何一つ生み出すことなく、ただ壊滅と悲惨だけを広げていき──そして今の時代がある。



「……ヒグアレとか言ったか」


 車内の残り一名が口を挟んだ。


「辺境での暮らしは、存外に平和だったようだな」


 これも、じんぞくではない。片膝を立てて座り込んでいる存在には、皮膚も、肉も存在していなかった。その姿は襤褸ぼろを纏った人骨そのものである。

 事実、かつては命持たぬ人骨であったはずだ。生物の骨格を材料とした骸魔スケルトンと呼ばれるじゅつの被造物も、自然に生まれるべき〝正なる生命〟ではない。故に、機魔ゴーレムなどと同じくぞくと総称される。動乱期の魔王自称者が生み出した、時代の産物の一つだ。


「〝客人まろうど〟でも、もう少しはものを知ってるぞ。それで傭兵稼業とは、いい度胸をしている」

「はい。訳あって、剣を振るのみの暮らしをしておりました。人からは……うみたるヒグアレ、などと呼ばれております。あなたは?」

「……。おとりシャルク」


 シャルクは不機嫌に返す。

 軽い挑発に対しても、ヒグアレの返答はあくまでへいたんな声色のままであった。そもそも植物を起源とする生物に、じんぞくに近い情動が存在するのかどうか。


「どうでもいいけど、仲良くしとけよ? もしも到着前に殺し合いなんざされたら、タレン様に合わせる顔がない──その前にあたしの身がもたないか。はは。か弱い女の子だもんな」

「どうだかな」

「あたしみたいな奴に何かできるように見えるか?」


 ラナは肩をすくめてみせたが、これはまったくの事実だ。

 うみたるヒグアレ。おとりシャルク。この馬車が運ぶ二名の傭兵こそは、げつらんのラナが地平全土の探索にて集めた、世に知られざる無双絶技の使い手である。ラナの実力とは比肩すべくもない、真正の強者。

 そしてリチアの主たる魔王自称者、いましめのタレンが求める兵は、そうした一握りの強者なのだ。


「ラナ殿」

「なに?」

鳥竜ワイバーンとは別口の相手が来ているようですが」


 ヒグアレが呟いた直後に、馬車の外から乾いた音が響いた。街へと残す道のりも僅かとなった頃合いである。



「馬車を止めろッ! 荷を捨てねえやからから撃つ!」

「抵抗した連中は地面を引きずり回して殺す! 持ってるものを一つ残らず並べろ!」


 幌の隙間からラナが外を覗くと、隊商の最後尾に追いすがる騎乗者の列が見えた。顔を隠し、弓や歩兵銃マスケットで武装し、身元を知られぬよう顔を隠している。


「……つみ目当ての野盗だ」


 街の目前であるが、それ故に気も緩みやすい地点だ。リチアの兵が駆けつけるよりも早くことを済ませる騎馬術の自信があるのだろう。


鳥竜ワイバーンに、野盗とはな。八方塞がりだ」


 無論、シャルクの言葉はただのかいぎゃくでしかない。通常の隊商にとってこれが絶望的な状況であったとしても、おとりシャルクにとっては、そうなる。


「と、いうより……こういう手を使う連中だな。鳥竜ワイバーンに追われている隊商を横合いから混乱させて、隊列かられたり抜け駆けする馬車を襲う。……例えば前の宿場で荷を盗んでおいて、鳥竜ワイバーンの巣に投げ込んだりな。鳥竜ワイバーンに匂いを追われたのも、こいつらが仕組んでたわけだ」

「野盗連中も鳥竜ワイバーンに襲われるのは変わらないだろう。どうするつもりなんだ?」

「は。簡単だろ? ……鳥竜ワイバーンが群がるような、新鮮な死体を作ってから逃げればいい」

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影