黄都の西方。巨大な運河の流れに接するリチア新公国は、西と北側の陸路でのみ往来可能な要害の地である。水産資源が豊富なこの街は経済的にも安定しており、石畳で舗装された道路も、日中は隊商の流れが途切れることがない。
ただしこの日、その内の一台の馬車が運び込まんとする荷は、生地や鉄鋼の類ではなかった。
「鳥竜が近づいてるな。間違いない」
小柄な女が、覗き窓から乗り出していた上半身を客車の内へと戻す。外見はまるで子供のような背丈だが、とうに成人の歳だ。月嵐のラナと名乗る、人間の女である。
「人族の群れを襲う時は、連中もああやって一塊の群れで来る。ありゃ間違いなく鳥竜だ。商人どもの誰かが、荷の匂いでも嗅ぎつけられたか……軍だったら処刑ものだぞ」
青い空気に霞む細かい影は、この距離から見れば鳥の群れのようだ。一羽の大きさも、人間の二倍程度の体長しかない。
だが、鳥竜は鳥とは全く異なる。羽毛も嘴も持たぬ紛れもない竜族であり、そしてこの世界の空を制する最速の種だ。今は地平線の果てに見える朧気な群れであっても、この隊商の馬車程度の速度では、すぐさま追いつかれてしまうだろう。
幌の向こうの御者に向けて、ラナは声を張り上げた。
「ねえ、鳥竜がこっち来る前にリチアに着けないの? もう目と鼻の先でしょ」
「群れが目に見えてるならもう無理ですよ! ラナさんこそ、そこの傭兵殿にどうにかしてもらうことはできないんですか?」
ラナは、同乗者の一名を見た。この客車に乗っている者は、彼女を含めて三名だけだ。
「念の為聞くけど、ヒグアレ。自信の程は?」
「はい。無論、全滅させることはできますが」
奥に座っていた物体は、淡々と、身動ぎもせず答えた。
ヒグアレと呼ばれたその傭兵は、人間ではない。緻密な樹木の根らしきものに正体を覆った怪異である。絡み合った植物質の塊が、まるで人族のように腰を下ろしているのだ。
「しかし、その前に伺ってよろしいでしょうか。……魔王自称者、と」
根の隙間、顔面に相当する暗闇に、眼光らしきものが灯っている。森林奥深くに生息する知性植物──根獣と呼ばれる獣族は、人族の生活圏においては極めて珍しい存在であるといえた。
「リチアを治めるタレン殿について、そのような話を聞き及びました。〝本物の魔王〟の恐怖と惨劇については、この私とて知っています。私の次のあるじは、悪人なのでしょうか」
「なんだ、そんなことも分かんないで来たの?」
ヒグアレは、ラナが新公国へと招聘した傭兵の一名である。ラナは魔王自称者タレンが全土に放った諜報兵として、この日に帰還予定の部隊の中でも特に優秀な成果を収めていた。
「魔王自称者は、王国側から見た呼び名だよ。魔王をわざわざ自称する奴なんざいないだろ」
「はい。辺境でも聞いたことはあります。確か人族の社会は、三つの王国が支配しているのだとか」
「……どんだけ遅れてんのさ。今は黄都だけだよ。他は全部滅んだ。〝本物の魔王〟のせいでね。その黄都から見たら、自分達だけが〝正なる王〟だ。正統な王族の血を引かずに王を名乗ってる奴らは、〝魔なる王〟を自称してることになる──つまり魔王自称者ってこと」
組織や詞術の力を持ちすぎた個人。新たなる種を確立しようとする変異者達。異端の政治概念を持ち込んだ〝客人〟。
力ある者達がめいめいに王を名乗り、領地の所有と自治を主張していた時代があった。そのようにして乱立した小国家の王は、正統性を持たぬまつろわぬ王──〝魔なる王〟と呼ばれた。それは黄都から離反し領地を独立させたかつての猛将、警めのタレンであっても例外ではない。
……わずか二十五年ほど前までは、そのような魔王自称者達こそが魔王と呼ばれていたのだ。〝本物の魔王〟が現れるまで。
「〝本物の魔王〟は自称者ではなかったのですか」
「あれは……だってあれは〝本物〟だ。あいつ以外の魔王を、魔王と呼べるわけがない。腕の程は聞いてるけどお前、随分世間知らずな奴だな。リチアで学校にでも通うか?」
それ以前に存在していた魔王など所詮は〝自称者〟でしかなかったのだと、今では誰もが理解している。人族、鬼族、果ては獣族や竜族までをも侵した、恐怖と悪意。
〝本物の魔王〟こそが、ただ一つの悪であった。
慢性的な対立を続けていた三王国は〝本物の魔王〟の脅威を前に、解体と統合を余儀なくされた。魔王自称者の殆ども秩序に流れて、あるいは〝本物の魔王〟に戦いを挑み、姿を消した。
悪は何一つ生み出すことなく、ただ壊滅と悲惨だけを広げていき──そして今の時代がある。
「……ヒグアレとか言ったか」
車内の残り一名が口を挟んだ。
「辺境での暮らしは、存外に平和だったようだな」
これも、人族ではない。片膝を立てて座り込んでいる存在には、皮膚も、肉も存在していなかった。その姿は襤褸を纏った人骨そのものである。
事実、かつては命持たぬ人骨であったはずだ。生物の骨格を材料とした骸魔と呼ばれる詞術の被造物も、自然に生まれるべき〝正なる生命〟ではない。故に、機魔などと同じく魔族と総称される。動乱期の魔王自称者が生み出した、時代の産物の一つだ。
「〝客人〟でも、もう少しはものを知ってるぞ。それで傭兵稼業とは、いい度胸をしている」
「はい。訳あって、剣を振るのみの暮らしをしておりました。人からは……海たるヒグアレ、などと呼ばれております。あなたは?」
「……。音斬りシャルク」
シャルクは不機嫌に返す。
軽い挑発に対しても、ヒグアレの返答はあくまで平坦な声色のままであった。そもそも植物を起源とする生物に、人族に近い情動が存在するのかどうか。
「どうでもいいけど、仲良くしとけよ? もしも到着前に殺し合いなんざされたら、タレン様に合わせる顔がない──その前にあたしの身がもたないか。はは。か弱い女の子だもんな」
「どうだかな」
「あたしみたいな奴に何かできるように見えるか?」
ラナは肩を竦めてみせたが、これはまったくの事実だ。
海たるヒグアレ。音斬りシャルク。この馬車が運ぶ二名の傭兵こそは、月嵐のラナが地平全土の探索にて集めた、世に知られざる無双絶技の使い手である。ラナの実力とは比肩すべくもない、真正の強者。
そしてリチアの主たる魔王自称者、警めのタレンが求める兵は、そうした一握りの強者なのだ。
「ラナ殿」
「なに?」
「鳥竜とは別口の相手が来ているようですが」
ヒグアレが呟いた直後に、馬車の外から乾いた音が響いた。街へと残す道のりも僅かとなった頃合いである。
「馬車を止めろッ! 荷を捨てねえ輩から撃つ!」
「抵抗した連中は地面を引きずり回して殺す! 持ってるものを一つ残らず並べろ!」
幌の隙間からラナが外を覗くと、隊商の最後尾に追いすがる騎乗者の列が見えた。顔を隠し、弓や歩兵銃で武装し、身元を知られぬよう顔を隠している。
「……積荷目当ての野盗だ」
街の目前であるが、それ故に気も緩みやすい地点だ。リチアの兵が駆けつけるよりも早くことを済ませる騎馬術の自信があるのだろう。
「鳥竜に、野盗とはな。八方塞がりだ」
無論、シャルクの言葉はただの諧謔でしかない。通常の隊商にとってこれが絶望的な状況であったとしても、音斬りシャルクにとっては、そうなる。
「と、いうより……こういう手を使う連中だな。鳥竜に追われている隊商を横合いから混乱させて、隊列から逸れたり抜け駆けする馬車を襲う。……例えば前の宿場で荷を盗んでおいて、鳥竜の巣に投げ込んだりな。鳥竜に匂いを追われたのも、こいつらが仕組んでたわけだ」
「野盗連中も鳥竜に襲われるのは変わらないだろう。どうするつもりなんだ?」
「は。簡単だろ? ……鳥竜が群がるような、新鮮な死体を作ってから逃げればいい」