一節 修羅異界

四.星馳せアルス ①

 こう第六将、せいじゃくなるハルゲントのような男であっても、稀に悪の定義を考えることがある。

 誰もが唯一絶対の悪であると信じた〝本物の魔王〟が倒れた今の時代に、信ずるべき悪の定義を。

 ──それは自分を裏切ることだ。

 ハルゲントはそう考えている。滅ぼされた三王国がこうの名のもとに統合されて、政治体制が大きく変わろうとしている今でも、彼は個人の欲望を打ち捨ててはいない。今こそが、新たなる実績を主張するまたとない機会だからだ。

 たとえ小物狩りの男と陰口を叩かれようと、権謀術数に心身をすり減らそうと、それは分不相応な権力を維持するために必要なことだ。より多い財、より高い名声、より安定した生。

 なりりを構わずに進めば、その不相応な力を、まだ少しだけ伸ばすことができる。


 ──故に今、他のどの将の助けも借りず、この討伐を成し遂げなければならぬ。彼が相対すべき敵は、真の伝説だ。ふるき黒竜の一柱、ふすべのヴィケオン。

 北の辺境、ティリート峡に展開した討伐隊の数は総勢三十六騎。乾いた空気の吹き込むこの野戦陣地も、その討伐のためにあった。


「お疲れのようです、団長閣下」


 顔を起こすと、温かなはく茶が目の前に置かれるところだった。参謀長の顔色はいつもと同じで、疲れの色がない。どこか中性的な顔立ちに似合う柔らかな笑みだ。

 そしてきっと、くまの浮いたハルゲントの疲労の顔がそれと対照を成しているのであろう。


「──少しばかり、お眠りになっていたようで? 兵に見られずに済んで何よりでございます」

「うん。ピケ君。これはな、当然の道理ではある」


 琥珀茶を口にすると、ほのかな甘味が体の奥に染み渡っていく。

 ハルゲントは眉をひそめて、できる限りいかめしい表情を作ろうとした。


「何しろこうからの行軍に五日もかかったわけだからね。途中など……なんだ、どこぞの救貧院に宿営までした。誰でも負担は大きかろう」

「まったくもって、存じておりますとも。果実香はお入れになられますか?」

「実際に動いてみて思ったが、この距離自体、〝ふすべ〟が何百年と討伐の手から逃れ続けた要因の……うむ。……うん、入れてくれ」

「追い立ての面々はご指示通り、配置についております。団長閣下と違って鍛えておりますから、疲弊についてもご心配なく」


 まったく、参謀長の言う通りだ。野望は肥大する一方だが、ハルゲント自身の体力は年齢ごとに衰える一方である。


「……うん。結構。ラヂオ兵の巡回人数は」

「人員を三群に分けております。常時二人が峡谷の上で巡回、常時四人を交代で本陣にて休ませ、うち一人が受信手です」

「少ない。竜墜としに斥候を絞るのは、うまくない。明日から外に三人を置け。昼夜半日交代だ」

「かしこまりました」


 せいじゃくなるハルゲントは〝はねむしり〟のあだで呼ばれることもある。鳥竜ワイバーンのみを何百と討伐してきた実績からの敬称──あるいは蔑称であるかもしれないが。

 ハルゲントの鳥竜ワイバーン狩りは定石とはやや異なる。獲物が巣にある間は手を出すことなく、群れが飛び立った後、矢とじゅつで逃げ道を塞ぎ、谷のあわいに潜んだ射手が仕留める。

 巣に強襲を仕掛ける手は、安全策のように見えてそうではないと考えている。鳥竜ワイバーンは個体ごとの知性の差が著しい。こうかつな個体であれば、巣に仕掛けられたわなによって討伐隊が返り討ちになることもあった。巣の中の物品は、鳥竜ワイバーンの用いるじゅつの焦点にもなり得る。

 相手が周到と強大で知られた邪竜、ふすべのヴィケオンであれば、鳥竜ワイバーンに対する以上の警戒を以てあたるべきは当然の成り行きであった。


「──〝ふすべ〟は、確かに手負いなのでしょうか? 二十年生きて、そのようなうわさを聞いたことはありませんでしたが」

「私は五十五年だ。調査部隊を何度も疑い、裏付けを取った上でのこの遠征だよ。他の将どもが勘付く前に摑んだ好機でもある」

みぎの白濁。左前肢が落とされ、長槍と思われる武器が腹部に貫通。尾の腐乱。にわかには、とても。……仮にそれらが全て事実として、あれが姿を見せると思いますか」


 ティリート峡の悪夢。気の向くままに人里を焼き、一度のブレスで万軍をほふり、無尽の財宝を独占したという、ふすべのヴィケオン。

 その存在は災害にも等しい。このような千載一遇の好機に恵まれぬ限り、勝利の可能性はえいごうない相手だ。その討伐が成れば、まさしく歴史にその名を残すことにはなるだろう。

 そして統合されたこうにおいても、この功績で重職の座を得る。小物の鳥竜ワイバーン殺しとされることのない、真のドラゴン殺しになる。


「ピケ君。これは城攻めに等しい。黒竜の腕や眼は、単純に癒える傷ではないだろう。そして巣の備蓄は無限ではあるまい。必ず飢えて飛び立つ時がくる」

「まさしく、情報が本当であるならですが」


 加えて、この数の兵をこれ見よがしに展開しているのは、ヴィケオンに圧力をかけるためでもある。いつ巣へと攻め来るか分からぬ緊張で休ませず、きょうまんで知られる彼をいらたせることで、おのずから狩りの場へと引きずり出すもくだ。

 ピケの懸念は、長引く戦いを見据えて斥候の酷使程度を弱めるようにという遠まわしなかんげんでもあるのだろう。だがハルゲントは、戦いがそう長引くとは考えていない──あるいは、すぐにでも。



 果たして陽が傾き切るよりも早く、それは証明される。

 作戦本部へと駆けつけたラヂオ兵の表情はそうはくであった。


「参謀長! 団長閣下! 緊急の連絡であります! 射手六名が死亡!」


 ヴィケオン発見の前触れですらない。にわかには信じがたい凶報である。


「……なんだと?」

「まずは通信を。つないでください。すぐに!」


 参謀長の指示に応じ、兵はラヂオを起動する。透き通った鉱石を複雑な形状の針金が取り巻く機材であった。ハルゲントの戦術において、遠隔通信を用いるラヂオ兵は特に重要な兵種である。


「ハルゲントだ。状況を報告しろ! 正確に!」

〈右岸監視中のディオです! 黒煙がたちこめて……! 峡谷の下を覆いました! 崖下に展開していた射手六名の安否は確認不能! 恐らく〝ふすべ〟は地上……地上をって、閣下の本陣へと進んでいます!〉

「ち、地上からだと……!」


 天からの黒煙で全てを焼き、地を這う有象無象を見下ろしてきた……あの傲岸なるふすべのヴィケオンが。巣から飛び立つことなく、峡谷の地上をぬって進んだというのか。

 人間ミニアの迎撃を恐れ、隠れ、まるで蛇や蜥蜴とかげの如く地を這い、兵の死角よりブレスを浴びせ奇襲を行うなど、ドラゴンの動きとしてあり得べからざる事態であった。


「な、何故だ……! 何故そんなことが起こる!? ふ、ふすべのヴィケオン──竜族の誇りを、うしなったかッ!」


 ティリート峡の地形は綿密に調べ上げている。空からは死角となり、射線を用いて獲物の意識を誘導し、最小の犠牲で巨竜を仕留める。敵の動きに応じた撤退の経路も確保していた。ハルゲントが数十年の経験則より編み上げた、絶対の対空布陣であった。

 だが長きに渡る経験故に、その確かな戦術を疑うこともできずにいた。怒るべきは、全ての可能性を想定できなかったハルゲント自らの無能だ。


「団長閣下。撤退を。全て失敗です。ドラゴンの這い進む速度など誰も知りはしないでしょうが、今、この本陣が危険です。運が向かなかったのでしょう」

「そ、その程度の……ッ、その程度で済むかッ! こ……こんな間違いがあるか……! あり得ぬことは、正すべきではないのか!」


 ハルゲントにも分かっていることだ。彼の兵は、虚偽や誤解の報告を行うような愚鈍ではない。失敗を認められぬハルゲントのような男とは違うのだ。

 ピケの言う通り、この討伐は失敗に終わった。六名もの兵が無為に煙に焼かれた。今、何よりも危険なのは彼自身の命であるのに。


「迷う時ではありません。今──【ピケよりハルゲントへpike io hargent傾きの陽himal飛べwalmirl!】」


 参謀長の言葉は、とっに紡がれたりきじゅつに変わった。何が起こったか理解する間もなく、りきじゅつの不可視の力がハルゲントを吹き飛ばした。


「何を……」


 どう、と風が吹いた。

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異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
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