一節 修羅異界
四.星馳せアルス ①
誰もが唯一絶対の悪であると信じた〝本物の魔王〟が倒れた今の時代に、信ずるべき悪の定義を。
──それは自分を裏切ることだ。
ハルゲントはそう考えている。滅ぼされた三王国が
たとえ小物狩りの男と陰口を叩かれようと、権謀術数に心身をすり減らそうと、それは分不相応な権力を維持するために必要なことだ。より多い財、より高い名声、より安定した生。
──故に今、他のどの将の助けも借りず、この討伐を成し遂げなければならぬ。彼が相対すべき敵は、真の伝説だ。
北の辺境、ティリート峡に展開した討伐隊の数は総勢三十六騎。乾いた空気の吹き込むこの野戦陣地も、その討伐のためにあった。
「お疲れのようです、団長閣下」
顔を起こすと、温かな
そしてきっと、
「──少しばかり、お眠りになっていたようで? 兵に見られずに済んで何よりでございます」
「うん。ピケ君。これはな、当然の道理ではある」
琥珀茶を口にすると、
ハルゲントは眉をひそめて、できる限り
「何しろ
「まったくもって、存じておりますとも。果実香はお入れになられますか?」
「実際に動いてみて思ったが、この距離自体、〝
「追い立ての面々はご指示通り、配置についております。団長閣下と違って鍛えておりますから、疲弊についてもご心配なく」
まったく、参謀長の言う通りだ。野望は肥大する一方だが、ハルゲント自身の体力は年齢ごとに衰える一方である。
「……うん。結構。ラヂオ兵の巡回人数は」
「人員を三群に分けております。常時二人が峡谷の上で巡回、常時四人を交代で本陣にて休ませ、うち一人が受信手です」
「少ない。竜墜としに斥候を絞るのは、うまくない。明日から外に三人を置け。昼夜半日交代だ」
「かしこまりました」
ハルゲントの
巣に強襲を仕掛ける手は、安全策のように見えてそうではないと考えている。
相手が周到と強大で知られた邪竜、
「──〝
「私は五十五年だ。調査部隊を何度も疑い、裏付けを取った上でのこの遠征だよ。他の将どもが勘付く前に摑んだ好機でもある」
「
ティリート峡の悪夢。気の向くままに人里を焼き、一度の
その存在は災害にも等しい。このような千載一遇の好機に恵まれぬ限り、勝利の可能性は
そして統合された
「ピケ君。これは城攻めに等しい。黒竜の腕や眼は、単純に癒える傷ではないだろう。そして巣の備蓄は無限ではあるまい。必ず飢えて飛び立つ時がくる」
「まさしく、情報が本当であるならですが」
加えて、この数の兵をこれ見よがしに展開しているのは、ヴィケオンに圧力をかけるためでもある。いつ巣へと攻め来るか分からぬ緊張で休ませず、
ピケの懸念は、長引く戦いを見据えて斥候の酷使程度を弱めるようにという遠まわしな
◆
果たして陽が傾き切るよりも早く、それは証明される。
作戦本部へと駆けつけたラヂオ兵の表情は
「参謀長! 団長閣下! 緊急の連絡であります! 射手六名が死亡!」
ヴィケオン発見の前触れですらない。にわかには信じ
「……なんだと?」
「まずは通信を。
参謀長の指示に応じ、兵はラヂオを起動する。透き通った鉱石を複雑な形状の針金が取り巻く機材であった。ハルゲントの戦術において、遠隔通信を用いるラヂオ兵は特に重要な兵種である。
「ハルゲントだ。状況を報告しろ! 正確に!」
〈右岸監視中のディオです! 黒煙がたちこめて……! 峡谷の下を覆いました! 崖下に展開していた射手六名の安否は確認不能! 恐らく〝
「ち、地上からだと……!」
天からの黒煙で全てを焼き、地を這う有象無象を見下ろしてきた……あの傲岸なる
「な、何故だ……! 何故そんなことが起こる!? ふ、
ティリート峡の地形は綿密に調べ上げている。空からは死角となり、射線を用いて獲物の意識を誘導し、最小の犠牲で巨竜を仕留める。敵の動きに応じた撤退の経路も確保していた。ハルゲントが数十年の経験則より編み上げた、絶対の対空布陣であった。
だが長きに渡る経験故に、その確かな戦術を疑うこともできずにいた。怒るべきは、全ての可能性を想定できなかったハルゲント自らの無能だ。
「団長閣下。撤退を。全て失敗です。
「そ、その程度の……ッ、その程度で済むかッ! こ……こんな間違いがあるか……! あり得ぬことは、正すべきではないのか!」
ハルゲントにも分かっていることだ。彼の兵は、虚偽や誤解の報告を行うような愚鈍ではない。失敗を認められぬハルゲントのような男とは違うのだ。
ピケの言う通り、この討伐は失敗に終わった。六名もの兵が無為に煙に焼かれた。今、何よりも危険なのは彼自身の命であるのに。
「迷う時ではありません。今──【
参謀長の言葉は、
「何を……」
どう、と風が吹いた。



