闇よりも暗い黒煙である。
作戦本部の陣幕より弾き出されたハルゲントは、暗幕のような漆黒を目の当たりにした。
竜が行使する詞術の息だ。燻べのヴィケオンのそれは煙で取り巻いた全てを焼却する超高温の熱術であり、作戦本部の兵士達はその内部で尽く、炎すら発さず、黒く燃え尽きた。
参謀長ピケ。ラヂオ兵ライニ。近衛射手ミリード、ヒケア。
「貴様が──将だな」
一瞬にしてその虐殺を為した存在が、煙を割って現れた。
燻べのヴィケオン。自らの息の熱を意に介することもない、およそ一切の攻撃手段を遮断する漆黒の竜鱗。高く、黄都の大兵舎一つにも匹敵する巨躯。
「一人として残す算段もなかったが、それも、都合が良い」
ジリジリと焼かれる空気を隔てて、今、伝説の悪夢が峡谷を塞いでいた。空気の帯びる熱にも関わらず、生物の本能がハルゲントの神経全てに寒気を走らせている。
存在のみで全てを圧倒する魂。この地平における、真の最強種。
「……〝燻べ〟……! 貴様ァッ!」
たとえ右眼が白濁していようと、左前肢が落とされていようと、長槍が腹部に貫通していようと、尾が腐乱していようと。それはハルゲントが狩り続けてきた鳥竜とは、根本的に存在の格が違う。
「答えることを許す。貴様らの他に討伐の群れはいるか」
「何を……! 人の討ち手を畏れるか、燻べのヴィケオン! 竜族の永久の笑い者になるが良い! その魂、貴様の体諸共に地に堕ちたぞ!」
「【ティリートの風へ。烟れる月を涸らせ──】」
ハルゲントの頭上を、致死の黒煙が通り抜けた。
敢えて外したのだ。
「答えろ。討伐軍は、貴様ら、だけか。答えぬならば、焼かず、苦しめ、殺す」
「……何が」
黒竜の声には焦燥の色があった。
ヴィケオンの一連の行動は、全てが竜として異常である。
全身を負傷している。数百年間討伐の叶わなかった、最悪の古竜であるはずだった。
たった一人で黒竜と対峙しつつ、ハルゲントは問うた。
「……な、何が、貴様の身に起こった。〝燻べ〟……! 私に……静寂なるハルゲントにこのような卑劣と屈辱を与えながら、自らの屈辱を隠し立てするか! な……何者が、貴様を討った!」
「……英雄を」
ベシャリ、と音を立て、邪竜は膿んだ左腕を引いた。
その傷を恥じているのか。
「英雄を……! その目に見たことがあるか。弱きハルゲント。膨大なる群れ──人間の中より、数の原理に伴って現る、稀なる変異種。それは……それは飽くなき欲望で自らを研鑽し。欲望のままに力を収集し。そして欲望の行き着く果てとして、遥か強大な生命をも討ち果たす──」
「人間の英雄が貴様を討ったとでも……」
「驕るな!」
憎悪とともにヴィケオンは吼えた。
──否。今やハルゲントにも分かる。それは憎悪ではなく恐怖である。
「ミ、人間の英雄など……! 飽くほど屠ったわ! 世を巡り、我に挑み……その傲慢故に、最後には集めた命と宝を我に差し出す……欲望に驕り、狩られ、死ぬ、それが英雄だ! 何者も、尽く餌に……愚かな餌に、過ぎぬ!」
「ヴィケオン!」
「ああ、人間。愚かな人間よ! その認識こそが、竜以上に救い難き傲慢よ! 英雄を生み出す群れは、貴様ら人族の他にはいないか!? 才知と力とに祝福された強者は、貴様ら人族の他に現れ出ないか!?」
傷の苦痛に悶え、恐怖の記憶に唸りながら、燃える片目がハルゲントを睨んだ。
ティリート峡の悪夢。気の向くままに里を焼き、一度の息で万軍を屠り、無尽の財宝を独占したという、燻べのヴィケオン。
災害にも等しいその存在を、既に打ち倒した者がいたはずだった。
何を語ろうと、ハルゲントの死はもはや避けられぬ。ヴィケオンが全てを詳らかにするのは、この矮小な一人の人間までをも畏れるまいとする、堕ちた古竜の最後の誇りの一欠片であった。
「全てが無力だ。真実を知れ、人間! 運命に愛された英雄が、人間のみではない……鳥竜の中にも同じくあることを!」
ハルゲントは知っていた。何故思い当たらなかったのだろう。彼の知る限りそれができた者など、最初からその一羽以外にいるはずがなかった。
思い至ろうとしなかったのは……それこそが百にも及ぶ鳥竜の群れを討ち果たし続けた将軍にとって、もっとも忌むべき名であったからだ。
「鳥竜の英雄──星馳せアルス」
その一羽がそうしたというのか。鳥竜より遥か巨大なこの古竜の片目を奪い、左腕を切断し、脇腹を貫き、尾を爛れさせたというのか。
群れ、手負いを狩らなければ戦いを挑むこともできない人間達と異なり、同じ弱種から突出したその個体には……もはやそれができるというのか。
「我が屈辱、答えたぞ……! 静寂なるハルゲント!」
「と……討伐隊は、私で最後だ。私の隊の後には、貴様を討たんとする黄都の兵は来るまい。全てが、功利に走った私の愚かな独断だ。初めの問いに、答えたぞ。燻べのヴィケオン」
「──良かろう。ならば貴様の命を火に焚べ、人間の愚行を許す」
「させぬ。私がどれほど多くの羽を毟ったか、貴様には想像できまい……! 我が頭上の空は全て静寂となる! 黄都第六将の力を知れ!」
詞術の詠唱とともに、溶けた鉄材が組み上がる。先程まで仮設した作戦本部の骨材であったそれはハルゲントの生まれた黄都より持ち出した鉄であり、故に武器を組み上げる工術を疎通できる。
二つ目の名は静寂なるハルゲント。彼の誇る工術によって編まれるものは、馬車めいた質量を持つ、据え付けの機構弓。必殺の対空兵器──屠竜弩砲である。
それがヴィケオンを討ち果たせるかどうかなど、試すまでもなく理解している。
それでも自らの心を裏切ることが、ハルゲントにとっての邪悪であった。
黒竜は下顎を開いた。
「グルルルッ……無力だ。全て、無力だ!」
ただの一息で終わる戦闘である。ヴィケオンは呼気の動作そのものを、全てを焼く熱術の息と変えることができるのだから。
「──」
しかし、邪竜はその一息を呑んだ。
彼は脆弱な人間の向こう、その背後に広がる峡谷を見ていた。
そこには夕暮れの赤が広がっている。
地平の際──膨れた太陽の輪郭が熱気の残滓に揺れる、落日の光景だった。
その終末の夕陽を背にした影を、見た。
「何故、また来る。……何故」
細く、しなやかな影が、一つの岩峰の頂点にある。
それは無言で翼を広げた。
禍々しい影は、伝承の悪魔の具現のようであった。
そして……最古の竜の一柱、燻べのヴィケオンにとっての、その一羽は。
「〝星馳せ〟──」
◆
鳥竜と竜の最大の差異は、前肢の有無にある。
そもそも、翼に加えて両の腕すら備える竜の体構造が既に尋常の生物からの逸脱であるのだが、その点において鳥竜は、小型化とともに骨肉を軽量化し前肢を退化させることで、飛翔能力において正常の進化を取り戻した種であったと言えるのかもしれない。
かつて〝彼方〟の大型爬虫類が鳥類にその姿を置き換えていった歴史をなぞるように、こちらの世界においても、種としての繁栄を謳歌しているのは竜ではなく鳥竜の側である。
個として最強の種は竜であるとしても、鳥竜達は彼らよりも遥かに長距離を飛び、旺盛に捕食し、環境に適応して繁殖した。
──そして人間がそうであるように、隆盛した種の中からは、必ず例外の個体が生まれる。
その鳥竜には、生まれつき三本もの前肢が生えていた。