最初は虫のそれのようなか弱く細い腕で、内の一本には、生まれて三年の月日が経つまで神経が通ってもいなかった。
逆行進化の皮肉であろうか。
祖先より分かれ二足歩行を始めた人間と同じように、彼は生まれながらに、物に触れ、操り、接触の刺激を思考することができた。
ゆえに飛翔と生存に不利でしかないその貧弱な器官を、彼は千切り捨てずにいた。
やがて腕は筋力を得て、物を摑み、運ぶようになった。
武器と道具に長く触れるうち、腕は技術を獲得した。
腕は、新たなる何かを欲した。
太陽の高い時期に、その鳥竜は群れを捨て、生まれ育った海の断崖を飛び立つことになる。
腕によって肥大した彼の欲望は、もはや鳥竜の域に収まるものではなかった。その名の通り鳥類に近づいた鳥竜の群れの中にあって、ただ一羽だけ知性の原点を持つ彼は、むしろ竜に近かったのであろう。
明日を生きる捕食欲でもなく、種を活かす繁殖欲でもない。
その腕に、まだ見ぬ物を摑み取りたい。自身がただの鳥竜ではないことを、自分自身に証明したい。ただ一羽が授かったこの力で、何か途方もない栄光を成し遂げたい。この翼で飛んでゆける全世界で、そうでありたい。そのような、漠然とした欲望であった。
群れすら持たぬ一羽の鳥竜は、その細い身の丈に合わぬ全てを欲した。
いつしか小さな個体のその欲望は、一つの街の宝を得た。
一つの敵を打ち倒した。一つの迷宮を攻略した。一つの土地を征した。
そして今や、一つの──
◆
「星馳せアルス……こ、これ以上の……、何を、欲する……!」
「…………」
──一つの伝説をも恐れさせていた。
「我が財宝の全てを、貴様は奪ったはずだ! 漲る誇りの全てを、もはや奪ったはずだ! これ以上を、何故奪う!」
「……なぜ……?」
岩峰に留まったまま、鳥竜は細い頸を傾げた。理解できない、という様子であった。
「おれは、当然のことをしてるだけだよ……」
バツン、と音が鳴った。
唐突に撃ち込まれた巨大な矢を、アルスは僅かに身を逸らすのみで回避している。
「──〝星馳せ〟ェッ!」
それは静寂なるハルゲントの屠竜弩砲、必殺の一射である。
連射不能の弩砲を、彼は〝燻べ〟ではなく乱入者へと放った。
「き、貴様は……貴様は手を出すなッ!」
「……」
男の声に対して、ただ気怠げに頭を振って、鳥竜は飛んだ。
その胴体には、まるで人間の旅人の如き背嚢が括られている。
「おのれ……おのれ、おのれ〝星馳せ〟……!」
ハルゲント同様の怨嗟とともに、ヴィケオンは空を見やった。今飛び立ったばかりの鳥竜の影が、どこかへと消える。追えぬ。飛翔速度は通常の鳥竜を遥かに逸脱している。
竜は、熱殺の黒煙の息で、迎撃を試みようとしているようだった。
まさにその様が答えであった。
この黒竜は、人間と同じだったのだ。
この入り組んだ谷底で……空の強者より身を隠し、迎撃する他になかった。
同じように飛べば、彼に勝ち目がないことを思い知らされたから。この空において、自分以上の生態系が存在することを刻み込まれていたから。
燻べのヴィケオンの心はもはや、自らの翼で空を飛ぶことができない。
「【ティリートの風へ。烟れる月を涸らせ──】」
視界の端に捉えた影へと、ヴィケオンは全力の息を浴びせかけた。
命中しない。あまりにも速く、頭上方向へと回り込んでいる。
鳥竜はその飛翔の能力において、竜よりも進化した種である──
「そんな馬鹿な」
愕然とした声を上げたのは、ハルゲントである。
ヴィケオンの直上に静止した星馳せアルスは、鳥竜としてあり得ない武器を構えていた。
鉄の銃身。木の銃床。僅かの一瞬だが、銃兵を束ねる彼が見間違えようはずもなかった。
〝客人〟よりもたらされた技術の一つ──歩兵銃という。
鳥竜が、銃を。
攻防の紙一重の隙間に、弾丸は飛んだ。
「グッ……ウゥゥアアア!」
バチ、という音が響いた。銃声ではなく、巨竜の肉が……残る右眼が爆ぜた音であった。
この世界における歩兵銃は、〝客人〟の知識によって数世代後を先取りした改良が加えられており、命中精度や連射能力は、〝彼方〟のそれと比して著しく高い。
だが、たとえそれを前提としても……立体にして高速の飛翔戦の中、僅か一点を正確に、眼球を防護する竜の瞬膜をも貫いて。
「…………。教えてあげるよ……。西の断崖……摩天樹塔の……毒の魔弾……」
空気を震わす苦悶の叫びの中にあって、アルスは淡々と、静かに告げていく。
疑いなく、それは自らの収集物を誇っている。
「根獣の毒を加工しててね……神経から先に、弾けるんだよ……」
声を頼りに、ヴィケオンはそれでも敵意を向けようとした。
飛翔で競ることは不可能。両眼と左腕の損壊に、格闘の選択肢も奪われている。
残された優位は、鳥竜の身には不可能な竜の息の他にない。
「【ティリートの風へ】」
「【アルスよりニミの礫へ。花は蕾に。殻を分けて割け。滴る水。貫け】」
ざくり。
竜の右眼から、細い針が生えた。
撃ち込まれた弾頭が一瞬の内に変形して、ヴィケオンの脳を更に深く穿ったのであった。
詞術は意思の速度による伝達であり、その詠唱は必ずしも指令の長さと複雑さに比例するわけではない。しかし、そうだとしても──
形状変形の工術を、一呼吸の息よりも遥かに速く。
「…………駄目だよ、ヴィケオン……。それは、おれの撃った弾なんだから……」
「グウッ……ウッ、グウウウゥッゥゥゥゥ……!」
「おれの言うことを聞くに決まってる。あんたの腰に刺した槍だって、おれは同じ手で、やったじゃないか……」
「ふざけるなッ!」
ハルゲントは、叫びとともに矢を放った。
それは再びアルスを狙っていたが、当然の如く回避されている。無謀な試みだった。
「ふざけるな〝星馳せ〟……! 私の敵だ! どうして奪う! ……私の、私のような男の命を、助けているつもりかッ!」
「……ハルゲント。なんか……おかしなこと、きくね……」
鳥竜は、死痛に悶える竜を見下ろす。
災厄と恐れられ、人間の兵団が何百年をかけても討伐叶わなかった邪竜。
人間より細い体躯の、奇形である、一羽の鳥竜。
そして軍団を失い、ただ一人だけになった黄都第六将。
この場の生態系において誰が頂点であるのか、そして誰が死にゆくのか、答えはもはや明らかであった。
頂点の者は、答えた。
「友達を助けるのなんて、あたりまえだろ……」
ハルゲントがとうに知っている答えを。
そうだ。
数百という鳥竜を討ち果たし続けた将にとって、もっとも忌むべき名。
星馳せアルス。ハルゲントは、他の誰よりもその存在を厭っていた。そのようなことがあってはならないからだ。
「私は、貴様の友ではない……! 今、私は黄都の将だッ! 鳥竜殺しの、羽毟りのハルゲントだ! き、貴様のような者など──過去にも未来にも、知ったことではないッ!」
黒い竜が死んでいく。筋肉を震わせ、翼からは力が抜けて、今、本物の竜が死んでいく様をハルゲントは見ている。
まるで鳥竜の死と同じ、彼らと同様の生命のようであった。
「……そっか……。兵隊の王様に、なったんだね……。よかったじゃないか……」
アルスは死にゆく伝説の様子を、いつものように、ただ陰鬱に眺めているだけだ。
喜びも快楽も、その心の内のどこにも存在しないように思える。