一節 修羅異界

四.星馳せアルス ③

 最初は虫のそれのようなか弱く細い腕で、内の一本には、生まれて三年の月日が経つまで神経が通ってもいなかった。

 逆行進化の皮肉であろうか。

 祖先より分かれ二足歩行を始めた人間ミニアと同じように、彼は生まれながらに、物に触れ、操り、接触の刺激を思考することができた。

 ゆえに飛翔と生存に不利でしかないその貧弱な器官を、彼は千切り捨てずにいた。


 やがて腕は筋力を得て、物を摑み、運ぶようになった。

 武器と道具に長く触れるうち、腕は技術を獲得した。

 腕は、新たなる何かを欲した。

 太陽の高い時期に、その鳥竜ワイバーンは群れを捨て、生まれ育った海の断崖を飛び立つことになる。


 腕によって肥大した彼の欲望は、もはや鳥竜ワイバーンの域に収まるものではなかった。その名の通り鳥類に近づいた鳥竜ワイバーンの群れの中にあって、ただ一羽だけ知性の原点を持つ彼は、むしろドラゴンに近かったのであろう。

 明日を生きる捕食欲でもなく、種をかす繁殖欲でもない。

 その腕に、まだ見ぬ物をつかりたい。自身がただの鳥竜ワイバーンではないことを、自分自身に証明したい。ただ一羽が授かったこの力で、何か途方もない栄光を成し遂げたい。この翼で飛んでゆける全世界で、そうでありたい。そのような、漠然とした欲望であった。

 群れすら持たぬ一羽の鳥竜ワイバーンは、その細い身の丈に合わぬ全てを欲した。


 いつしか小さな個体のその欲望は、一つの街の宝を得た。

 一つの敵を打ち倒した。一つの迷宮を攻略した。一つの土地を征した。

 そして今や、一つの──




ほしせアルス……こ、これ以上の……、何を、欲する……!」

「…………」


 ──一つの伝説をも恐れさせていた。


「我が財宝の全てを、貴様は奪ったはずだ! みなぎる誇りの全てを、もはや奪ったはずだ! これ以上を、何故奪う!」

「……なぜ……?」


 岩峰に留まったまま、鳥竜ワイバーンは細いくびかしげた。理解できない、という様子であった。


「おれは、当然のことをしてるだけだよ……」


 バツン、と音が鳴った。

 唐突に撃ち込まれた巨大な矢を、アルスは僅かに身を逸らすのみで回避している。


「──〝ほしせ〟ェッ!」


 それはせいじゃくなるハルゲントの屠竜弩砲ドラゴンスレイヤー、必殺の一射である。

 連射不能の弩砲を、彼は〝ふすべ〟ではなく乱入者へと放った。


「き、貴様は……貴様は手を出すなッ!」

「……」


 男の声に対して、ただだるげに頭を振って、鳥竜ワイバーンは飛んだ。

 その胴体には、まるで人間ミニアの旅人の如きはいのうくくられている。


「おのれ……おのれ、おのれ〝ほしせ〟……!」


 ハルゲント同様のえんとともに、ヴィケオンは空を見やった。今飛び立ったばかりの鳥竜ワイバーンの影が、どこかへと消える。追えぬ。飛翔速度は通常の鳥竜ワイバーンを遥かに逸脱している。

 ドラゴンは、熱殺の黒煙のブレスで、迎撃を試みようとしているようだった。

 まさにその様が答えであった。


 この黒竜は、人間ミニアと同じだったのだ。

 この入り組んだ谷底で……空の強者より身を隠し、迎撃する他になかった。

 同じように飛べば、彼に勝ち目がないことを思い知らされたから。この空において、自分以上の生態系が存在することを刻み込まれていたから。

 ふすべのヴィケオンの心はもはや、自らの翼で空を飛ぶことができない。


「【ティリートの風へgo gipyaeis烟れる月を涸らせjyguegyuorg──】」


 視界の端に捉えた影へと、ヴィケオンは全力のブレスを浴びせかけた。

 命中しない。あまりにも速く、頭上方向へと回り込んでいる。

 鳥竜ワイバーンはその飛翔の能力において、ドラゴンよりも進化した種である──


「そんな馬鹿な」


 がくぜんとした声を上げたのは、ハルゲントである。

 ヴィケオンの直上に静止したほしせアルスは、鳥竜ワイバーンとしてあり得ない武器を構えていた。


 くろがねの銃身。木の銃床。僅かの一瞬だが、銃兵を束ねる彼が見間違えようはずもなかった。

客人まろうど〟よりもたらされた技術の一つ──歩兵銃マスケットという。

 鳥竜ワイバーンが、銃を。

 攻防の紙一重の隙間に、弾丸は飛んだ。


「グッ……ウゥゥアアア!」


 バチ、という音が響いた。銃声ではなく、巨竜の肉が……残る右眼が爆ぜた音であった。

 この世界における歩兵銃マスケットは、〝客人まろうど〟の知識によって数世代後を先取りした改良が加えられており、命中精度や連射能力は、〝彼方かなた〟のそれと比して著しく高い。

 だが、たとえそれを前提としても……立体にして高速の飛翔戦の中、僅か一点を正確に、眼球を防護する竜の瞬膜をも貫いて。


「…………。教えてあげるよ……。西の断崖……摩天樹塔まてんじゅとうの……毒の魔弾……」


 空気を震わす苦悶の叫びの中にあって、アルスは淡々と、静かに告げていく。

 疑いなく、それは自らの収集物を誇っている。


根獣マンドレイクの毒を加工しててね……神経から先に、弾けるんだよ……」


 声を頼りに、ヴィケオンはそれでも敵意を向けようとした。

 飛翔で競ることは不可能。両眼と左腕の損壊に、格闘の選択肢も奪われている。

 残された優位は、鳥竜ワイバーンの身には不可能なドラゴンブレスの他にない。


「【ティリートの風へgo gipyaeis】」

「【アルスよりニミの礫へkylse ko khnmy花は蕾にkilwy kokko殻を分けて割けkukaie kyakhal滴る水konaue ko貫けkastgraim】」


 ざくり。

 ドラゴンの右眼から、細い針が生えた。

 撃ち込まれた弾頭が一瞬の内に変形して、ヴィケオンの脳を更に深く穿うがったのであった。

 じゅつは意思の速度による伝達であり、その詠唱は必ずしも指令の長さと複雑さに比例するわけではない。しかし、そうだとしても──

 形状変形のこうじゅつを、一呼吸のブレスよりも遥かに速く。


「…………駄目だよ、ヴィケオン……。それは、おれの撃った弾なんだから……」

「グウッ……ウッ、グウウウゥッゥゥゥゥ……!」

「おれの言うことを聞くに決まってる。あんたの腰に刺した槍だって、おれは同じ手で、やったじゃないか……」

「ふざけるなッ!」


 ハルゲントは、叫びとともに矢を放った。

 それは再びアルスを狙っていたが、当然の如く回避されている。無謀な試みだった。


「ふざけるな〝ほしせ〟……! 私の敵だ! どうして奪う! ……私の、私のような男の命を、助けているつもりかッ!」

「……ハルゲント。なんか……おかしなこと、きくね……」


 鳥竜ワイバーンは、死痛に悶えるドラゴンを見下ろす。

 災厄と恐れられ、人間ミニアの兵団が何百年をかけても討伐叶わなかった邪竜。

 人間ミニアより細い体躯の、奇形である、一羽の鳥竜ワイバーン

 そして軍団を失い、ただ一人だけになったこう第六将。

 この場の生態系において誰が頂点であるのか、そして誰が死にゆくのか、答えはもはや明らかであった。

 頂点の者は、答えた。


「友達を助けるのなんて、あたりまえだろ……」


 ハルゲントがとうに知っている答えを。


 そうだ。

 数百という鳥竜ワイバーンを討ち果たし続けた将にとって、もっとも忌むべき名。

 ほしせアルス。ハルゲントは、他の誰よりもその存在を厭っていた。そのようなことがあってはならないからだ。


「私は、貴様の友ではない……! 今、私はこうの将だッ! 鳥竜ワイバーン殺しの、はねむしりのハルゲントだ! き、貴様のような者など──過去にも未来にも、知ったことではないッ!」


 黒い竜が死んでいく。筋肉を震わせ、翼からは力が抜けて、今、本物のドラゴンが死んでいく様をハルゲントは見ている。

 まるで鳥竜ワイバーンの死と同じ、彼らと同様の生命のようであった。


「……そっか……。兵隊の王様に、なったんだね……。よかったじゃないか……」


 アルスは死にゆく伝説の様子を、いつものように、ただ陰鬱に眺めているだけだ。

 喜びも快楽も、その心の内のどこにも存在しないように思える。

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影