一節 修羅異界

六.夕暉の翼、レグネジィ ①

 灯火夫が街道沿いの常夜灯の火を消しはじめる頃には、リチアを囲む清浄な運河も底なしの闇から少しずつ輝きを取り戻していく。

 この時刻に、郊外の広場へと降り立つ者達があった。レグネジィ率いる鳥竜ワイバーンの群れ。民に恐れられ、あるいは頼みとされる、人ならざる異形の軍勢である。


「全隊、規律を正せ。僕を見ろ」


 その場の最も高い常夜灯へと降り立ったレグネジィは首をせわしなく動かし、配下の鳥竜ワイバーンそろっていることより、むしろ声を聞く人間ミニアがいないことを確かめている。


「──初めに言う。これは腐った個体の処刑だ」


 同種の中でも、彼は極めて繊細かつ神経質な個体だ。力と勇猛さが重視される鳥竜ワイバーンの群れにおいては通常、このような気質の者が群れを率いることはない。


「今日、リチアの民に行方不明者が出たことを知っているだろう。人間ミニアのガキだ。年齢は九。女児。この中に、心当たりのある者がいるんじゃないのか」

「ご報告のとおり!」


 群れの一角から、甲高い声が返った。


「南方遊撃部隊副長リクエルがァァ……ギッ、子供を喰い殺した! 目撃し、しています! ご報告のとおり!」

「……」


 レグネジィは沈黙とともに、広場の隅の大柄の鳥竜ワイバーンを見た。軍勢の視線がその一角に集中する。


「……僕らはリチアの民のの対価として、十分な食糧支援を受けている。対価として、だ! バカどもでも分かるように言う! リチアの民を喰うこと。そしていましめのタレンからの信頼を損なうことは、この群れ全てを飢えさせる、腐った、重大な、反逆行為だ! 南方遊撃部隊副長リクエル。申し開きがあるなら言え!」

「ンン……」


 副長は不明瞭なうめきとともに目を閉じ、開く。奇妙なことに、この場に集った鳥竜ワイバーンの何割かはそのような胡乱な様子を見せている。個体により知性の差異が著しい鳥竜ワイバーンとはいえ、レグネジィの軍には一種異様な雰囲気が存在した。


「ンンー……ム……」

「【レグネジィよりリチアの風へkekexy ko khart返る鏡盤kent kakor紐付きの陽kokket korp】」


 レグネジィは一切の警告を置かず、じゅつを唱えはじめている。目に見えない恐れがでんした。レグネジィのそれは死刑執行を意味する。


「【照らせkokaitok!】」

「ギィィッ!?」


 虚空から赤い楔状の閃光が生まれて、同時三方から鳥竜ワイバーンを焼いた。

 部隊副長リクエルではなく、彼の名を告げた密告者を。


「──!」


 レグネジィは侮蔑の言葉よりも早く、密告者を爪で捕らえ、大地へと引き倒している。


「僕の捜査を欺けると思ったのか。クズ。クズめ!」


 ねつじゅつの光が直撃した時点でそれは密告者の表皮を焼き、肉の深層までをらしていたが──


「アァ……見ろ! 全隊見ろ! 規律を乱したバカの末路を見ろ!」


 レグネジィの爪が、密告者の腹を容赦なく引き裂く。

 際立った体躯を持たぬこの個体が特異な鳥竜ワイバーンの群れを率いることのできた理由は、他を圧倒するじゅつと知性の天賦の才覚のみではない。


「リチアの民を喰うクズは……ひといはッ、死罪! 例外はない! 死罪! 死罪だッ!」


 生きながらにして引きずり出された胃袋から、血まみれの肉片が天に掲げられていた。半ば消化された子供の腕であった。

 言葉を失った群れを瞬膜越しの白濁した視線がへいげいする。

 そして──ざわざわと、どこかから不穏な羽音が響きはじめている。

 少なくとも、鳥竜ワイバーンの羽音ではなかった。


「一年……このクズは、一年前に群れに加えた奴だ! が足りなかった! 同時期の連中には全員、を行う! 二度と規律を乱すな! 二度とだ!」


 レグネジィの内には、狂気じみた苛烈さが潜んでいる。ごく僅かな乱れすら許さぬ、徹底した恐怖政治。それこそがせっつばさレグネジィを頂点へと至らしめた力だ。

 史上に例を見ぬじんぞく鳥竜ワイバーンの共生は、レグネジィという異才の存在にってかろうじて維持を続ける、薄氷の秩序でもあった。



(義務だ)


 肌を冷たい血で浸しながら、レグネジィは思う。

 たった今処断した兵が喰らった人間ミニアの子は、失踪者として処理されることになる。月に二人。そのはんちゅうの犠牲であれば、タレンの隠蔽も及ぶだろう。だが、それ以上犠牲が拡大したとすれば、その先は分からない。レグネジィは、この臨界近くの統制を維持し続ける必要がある。

 群れを生かすために。そして彼にとっての世界唯一の価値のために。

 鳥竜ワイバーンが人の肉を喰らうことは罪ではないと知っている。鳥竜ワイバーンに本来、罪などという概念はなかった。彼らの本質は自由であって、力のままに食い荒らし、奪い尽くすためにその翼があるはずだった。

 あるべき摂理に反したとしても、どれだけおぞましい手段を使ったとしても、群れを生かし続けることが義務だ。


(……クズどもを導く。僕は群れから逃げるものか。真に強き者は、率いる者。より多くの命に責任を負う者だ)



 太陽の高い時期の、海の断崖の光景を思い出すことがある。

〝本物の魔王〟によって全てを失った時よりも、遥かに前の記憶だ。

 レグネジィにとって同種である鳥竜ワイバーンは、等しく有象無象の愚者でしかなかった。

 それでも、かつて彼と同じようなそうめいさを持ち、統率個体となるべき器を持った一羽がいたのだ。

 雲の向こうへと遠ざかっていく一羽の影を覚えている。あるいはレグネジィにも、彼と同じ選択肢があったはずだった。


 自由を求めて群れの安寧を捨てる者。

 権力を得て群れの命の責任を背負う者。


 他と隔絶した知能を備えて生まれたレグネジィは、自らが旅立った後に残される群れを──いずれじんぞくに討伐される宿命にある同胞達を、見捨てることができなかった者だ。彼ら鳥竜ワイバーンが救い難い愚者であるとしても、今までの世界の全てが魔王の恐怖を前に滅び去ってしまったとしても……そしてじんぞくにつき従い、鳥竜ワイバーンとしてあるべき自由を捨て去ったとしても、レグネジィは群れを見捨てるつもりはなかった。


 それが正しい選択であると信じているからだ。

 いかに突出した強者であろうと、群れに属さずただ一羽で生き続けるなど、愚かな夢でしかない。

 ──だが、彼らを置いて羽ばたいた、その一羽は。



 他の町並みと比べ、リチア新公国の風景を大きく特徴づけるものは、林のように立ち並ぶ白い尖塔である。それらは一つ一つが街を守る鳥竜ワイバーン達の巨大な住居であり、市民や外敵を天より見下ろし続ける目でもあった。

 しかし中央城塞に接する塔の中には、一人の人間ミニアのためだけに設えられた一室がある。

 そこは常に清潔に保たれていて、高価な調度品が並び、白い壁が陽光を柔らかに広げている。その部屋には十九になる若い少女が一人で暮らしているのだ。


「今日は、晴れ。レグネジィは朝早くに出て──」


 彼女は、机に広げた一冊の本に向かって呟いている。色の薄い髪は足元に届くほどの長さがあって、出歩くことの少ない暮らしを送っていると分かる。


「何をブツブツ言ってるんだ」


 窓の方向から声が響いた。呼びかけられて初めて、少女はそちらの方向を向く。


「……レグネジィ?」


 窓の方向に顔を向けて問う。彼女のまぶたは開いていても、その視線の先が見えているわけではない。両目のこうさいは灰色に濁っている。


「ああ、いるよ」

「今日も出撃だったの?」

「クズ野盗を追い払ってきたところだ。毎日遊んでるお前とは違うんだよ」

「日記を書いてたの。文字の書ける貴族の人は、毎日、こういう本に記録をつけるって……私もそうすれば、レグネジィと話したことをずっと覚えていられるから」

「ふん。マヌケな事を言うなよ。目も見えないのに、どうやって文字なんか書ける」

「ふふふふ。ここ最近はこれが楽しみなの」


 せいてんのカーテという名である。リチアを守護する空の主──せっつばさレグネジィとは、この新公国が独立する以前からの仲であった。


「まだ、外は明るいよね?」


 窓に近づいて、吹き込む風に長い髪を流す。ふと、すぐ側のレグネジィに触れようとする。

 レグネジィはすぐに翼を引いて、指は空を切った。


「あ」

「僕に触るな」

「ふふふふ。やっぱり、不意打ちでも無理ね」

「ザコめ。お前みたいなザコが──一生かかっても僕に触れるわけがないだろ」

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影