一節 修羅異界
六.夕暉の翼、レグネジィ ①
灯火夫が街道沿いの常夜灯の火を消しはじめる頃には、リチアを囲む清浄な運河も底なしの闇から少しずつ輝きを取り戻していく。
この時刻に、郊外の広場へと降り立つ者達があった。レグネジィ率いる
「全隊、規律を正せ。僕を見ろ」
その場の最も高い常夜灯へと降り立ったレグネジィは首をせわしなく動かし、配下の
「──初めに言う。これは腐った個体の処刑だ」
同種の中でも、彼は極めて繊細かつ神経質な個体だ。力と勇猛さが重視される
「今日、リチアの民に行方不明者が出たことを知っているだろう。
「ご報告のとおり!」
群れの一角から、甲高い声が返った。
「南方遊撃部隊副長リクエルがァァ……ギッ、子供を喰い殺した! 目撃し、しています! ご報告のとおり!」
「……」
レグネジィは沈黙とともに、広場の隅の大柄の
「……僕らはリチアの民の
「ンン……」
副長は不明瞭な
「ンンー……ム……」
「【
レグネジィは一切の警告を置かず、
「【
「ギィィッ!?」
虚空から赤い楔状の閃光が生まれて、同時三方から
部隊副長リクエルではなく、彼の名を告げた密告者を。
「──!」
レグネジィは侮蔑の言葉よりも早く、密告者を爪で捕らえ、大地へと引き倒している。
「僕の捜査を欺けると思ったのか。クズ。クズめ!」
「アァ……見ろ! 全隊見ろ! 規律を乱したバカの末路を見ろ!」
レグネジィの爪が、密告者の腹を容赦なく引き裂く。
際立った体躯を持たぬこの個体が特異な
「リチアの民を喰うクズは……
生きながらにして引きずり出された胃袋から、血まみれの肉片が天に掲げられていた。半ば消化された子供の腕であった。
言葉を失った群れを瞬膜越しの白濁した視線が
そして──ざわざわと、どこかから不穏な羽音が響きはじめている。
少なくとも、
「一年……このクズは、一年前に群れに加えた奴だ! 処置が足りなかった! 同時期の連中には全員、再処置を行う! 二度と規律を乱すな! 二度とだ!」
レグネジィの内には、狂気じみた苛烈さが潜んでいる。ごく僅かな乱れすら許さぬ、徹底した恐怖政治。それこそが
史上に例を見ぬ
(義務だ)
肌を冷たい血で浸しながら、レグネジィは思う。
たった今処断した兵が喰らった
群れを生かすために。そして彼にとっての世界唯一の価値のために。
あるべき摂理に反したとしても、どれだけおぞましい手段を使ったとしても、群れを生かし続けることが義務だ。
(……クズどもを導く。僕は群れから逃げるものか。真に強き者は、率いる者。より多くの命に責任を負う者だ)
太陽の高い時期の、海の断崖の光景を思い出すことがある。
〝本物の魔王〟によって全てを失った時よりも、遥かに前の記憶だ。
レグネジィにとって同種である
それでも、かつて彼と同じような
雲の向こうへと遠ざかっていく一羽の影を覚えている。あるいはレグネジィにも、彼と同じ選択肢があったはずだった。
自由を求めて群れの安寧を捨てる者。
権力を得て群れの命の責任を背負う者。
他と隔絶した知能を備えて生まれたレグネジィは、自らが旅立った後に残される群れを──いずれ
それが正しい選択であると信じているからだ。
いかに突出した強者であろうと、群れに属さずただ一羽で生き続けるなど、愚かな夢でしかない。
──だが、彼らを置いて羽ばたいた、その一羽は。
◆
他の町並みと比べ、リチア新公国の風景を大きく特徴づけるものは、林のように立ち並ぶ白い尖塔である。それらは一つ一つが街を守る
しかし中央城塞に接する塔の中には、一人の
そこは常に清潔に保たれていて、高価な調度品が並び、白い壁が陽光を柔らかに広げている。その部屋には十九になる若い少女が一人で暮らしているのだ。
「今日は、晴れ。レグネジィは朝早くに出て──」
彼女は、机に広げた一冊の本に向かって呟いている。色の薄い髪は足元に届くほどの長さがあって、出歩くことの少ない暮らしを送っていると分かる。
「何をブツブツ言ってるんだ」
窓の方向から声が響いた。呼びかけられて初めて、少女はそちらの方向を向く。
「……レグネジィ?」
窓の方向に顔を向けて問う。彼女の
「ああ、いるよ」
「今日も出撃だったの?」
「クズ野盗を追い払ってきたところだ。毎日遊んでるお前とは違うんだよ」
「日記を書いてたの。文字の書ける貴族の人は、毎日、こういう本に記録をつけるって……私もそうすれば、レグネジィと話したことをずっと覚えていられるから」
「ふん。マヌケな事を言うなよ。目も見えないのに、どうやって文字なんか書ける」
「ふふふふ。ここ最近はこれが楽しみなの」
「まだ、外は明るいよね?」
窓に近づいて、吹き込む風に長い髪を流す。ふと、すぐ側のレグネジィに触れようとする。
レグネジィはすぐに翼を引いて、指は空を切った。
「あ」
「僕に触るな」
「ふふふふ。やっぱり、不意打ちでも無理ね」
「ザコめ。お前みたいなザコが──一生かかっても僕に触れるわけがないだろ」



