一節 修羅異界

六.夕暉の翼、レグネジィ ②

「そうかもしれないね。また別の方法を考えてみないと」


 開け放たれた窓は、リチアの美しい街並みを見下ろしている。

 尖塔の立ち並ぶ中に青い巨大な鐘塔がそびえる。放射状に広がっていく、背の低い灰色の市街。運河と空の青。湿った空気の作る、柔らかく淡い影の境界。


「……レグネジィは、リチアのことは好き?」

「お前はどうなんだよ。何も見えないくせに」

「好きよ。とても綺麗」

「マヌケめ。うらやましいよ」


 カーテは笑った。レグネジィはいつも辛辣で、底意地の悪い言葉ばかりを言う。

 けれどレグネジィが彼女へと与えてくれる情景は、彼の戦う残酷な戦場の光景ではなく、空駆ける者だけが見ることのできる、鮮やかで美しい世界だった。


「……今日は歌わないのか。カーテ」

「歌なら、わたしなんかよりもっと上手い歌手がいるのに」

「別に、歌なんか……。いや……」


 レグネジィは、静かに床にうずくまって言う。


「…………カーテの歌がいいんだ」


 じんぞくを喰らう鳥竜ワイバーンの中にあっても際立って苛烈な気性を持つレグネジィにとって、それが唯一の安らぎの時であった。


「──。──、──」


 見えない市街を見下ろして……細く、けれどよく通る声で、カーテは歌いはじめた。

 歌詞もない、旋律を紡ぐだけの歌だった。


 ──視力を失った彼女は、起きていてもなお暗闇の悪夢を見ることがある。

〝本物の魔王〟が訪れ、海沿いの生まれ故郷が真の狂気と恐怖に飲み込まれて、死に絶えた日。

〝本物の魔王〟が何者だったのか、それが彼女の故郷に何をしたのか、カーテは直接に見てすらいない。全てが終わった今になっても〝本物の魔王〟の正体をはっきりと理解している者など、どこにもいないかもしれないのだから。

 それはただだけで、取り返しのつかない破滅を彼女の故郷にもたらした。

 筆舌に尽くし難い暴行で光を喪失したカーテも、あるいはその日を境に、永遠に狂ったままでいる運命だったのかもしれない。



「……ああ。いい歌だ」


 レグネジィは静かに呟く。

 あの日、村の中で彼女一人だけが──レグネジィも含めるとするなら、一人と一羽だけが、狂気に落ちたままでいなかった。

 永遠に閉ざされた暗闇の只中で、どこかから聞こえた歌を覚えている。それが生死の間際の幻聴でしかなかったとしても、確かにそれを聞いた。古い教えに出てくるような天使が歌っていた歌は、もしかしたらそのようなものだったのだろうか。歌詞もない、旋律だけを覚えている。

 現実感すら曖昧なその歌が、カーテの正気をがんに呼び戻してくれたのだと信じている。



「ねえレグネジィ。……リチアは、これからどうなるの?」


 レグネジィの出撃の頻度が高くなってきている。政治について無知なカーテも、リチアに忍び寄る不穏の気配を薄く感じ取っていた。

 彼女の故郷──海沿いの巣の主であったレグネジィも、魔王の災禍に巻き込まれた鳥竜ワイバーンである。その時偶然に巣を離れていたレグネジィと数羽の鳥竜ワイバーンを除いて、彼がその長い生をかけて育てた最初の群れは、〝本物の魔王〟に小虫の群れのように蹂躙された。

 形は違えど、カーテとレグネジィは自らの過ごす世界が崩れゆく兆しを過去に共有している。

 今の日常崩壊が勝利と変革に続いていくものなのか、永遠の滅びに終わってしまう道なのかは、まだ分からない。それでも、いずれこの穏やかな日々の全てが変わってしまうのだろう。


「カーテはどうするんだ。これからもリチアに居続けるつもりなのかよ」

「ふふふふ。お母さんは、リチアの王様だから」

「……人が死ぬぞ。すぐに戦争になる。本当だ。僕には分かる」


 レグネジィの忠告は真実なのだろう。彼はカーテよりもずっと深くまで軍事と戦術を熟知していて、それはきっとじんぞくの将以上に確実な予測だ。

 レグネジィは、カーテに噓をついたことはない。

 きっと、すぐにでも戦うことになる。それも最大の国家であるこうを相手に。


「それでも、レグネジィを置いていけないよ」

「ふん。もし戦争になったら、カーテみたいなグズは真っ先に死ぬんだろうな」


 細い指が、レグネジィの翼膜に触れようとした。レグネジィは見もせずにその指をかわす。


「あ」

「何度やっても同じだ。ノロマめ」

「もう、ちょっとくらいいいじゃない、ほら」


 カーテの指先は再び空を切った。


「や……やめろ、バカ! 転んだらどうする」

「ふふっ、ふふふふ」

「危ないんだよ、ノロマのくせして」


 彼の硬質な金切り声が、人間ミニアのものではないと理解している。

 それでもカーテはレグネジィの正体を見たことがない。彼女は盲目だからだ。

 例えばそれが鳥竜ワイバーンの群れを率いる天才であって、この世界にあって航空偵察とラヂオとを駆使した防空網を構築し、カーテの敵となるものを尽く喰らい、排除していることを知らずにいる。

 家族も友も、全員が死んだ。カーテにとっての今の親は、身寄りのない彼女をレグネジィの身柄とともに引き受けてくれたいましめのタレン一人だけしかいない。


「また、歌ってもいい?」

「……別に。勝手にしなよ」


 部屋の片隅で、レグネジィはひっそりと身を丸くしている。

 カーテが再び歌い終わるまで……静かに、穏やかに。


 彼はいつでも、せいてんのカーテの傍らにいる。どこまでも遠くまで飛べる鳥竜ワイバーンの翼と、同種の誰よりも秀でた知性を持っていながら。


「ねえ──レグネジィは知ってる? この世の始まりには……天使がいて、しんさまと一緒に、世界を創ったんだって……」


 その伝説を信じていた。その顔を見ることができずとも、きっとじんぞくではなくとも、彼は心の底から信じられる友であるから。


「天使は、歌が好きなの。じゅつの始まりは、歌だったから」


 カーテは笑う。両の目を失った無力な少女の側にいて、何の見返りもなく支え続けてくれるレグネジィを、本当にそのように思っていた。



「レグネジィが天使だったらいいのにね」


 この世界のじゅつは、種族を問うことなく意思を疎通できてしまう。



 それはこの世界で唯一の、広大な空を支配する自在の飛行軍勢を持つ。

 それは死をもいとわぬ絶対服従の群体を、まるで一つの生命体の如く統率する。

 それは戦局を支配する知性で、一つの国家の中枢へと深く根を張っている。

 獰猛の攻撃者にして秩序の守護者。何よりも特異なる天の災禍である。


 司令コマンド鳥竜ワイバーン


 せっつばさ、レグネジィ。

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影