一節 修羅異界

八.世界詞のキア ②

 実際のところ、流体を固体であるかのように留め続けるのはそれなりに高度なじゅつである。系統に適性を持つ者でなければ困難だろう。

 もちろんこれは遊びの術で、大抵の場合は、特定のんだ土地の材質を、あらかじめ定めた形状へと作り変えるために用いる。人間ミニア以外の種族はそれほど重く見ない系統であろうが、複雑な器物の生産に欠かすことのできない、文明を支える術だ。


せいじゅつは、簡単に言えばお医者さんの術ですね。ヤウィカさんにも、や風邪を治してくれる人はいますよね」

「ミッチばばがやってくれる! でも最近はわたしずっと元気で、怪我とかしないんだから!」

「ええ。けれどミッチ婆さんがどんなに凄くたって、先生の怪我を治したりはできません。どうしてだか分かりますか?」

「んと……」

「長い時間をかけてその人に向き合っていないと、じゅつで直接治るように伝える言葉が、分からないからです。それは、風や水、木々や鉄だって同じ。もちろん、先生も、ヤウィカさんもです」

「わたしと先生でもだめ?」

「だめです。でも、水は生き物と違って素直ですから。せいじゅつでできることを、もう一つ教えますね」


 エレアは先と同様に詠唱を呟き、今度は手桶に浸した人差し指を、ヤウィカの小さな口に含ませてみせた。


「ん! あまい!」

「そう。せいじゅつこうじゅつのように物の形を変えるのではなくて、物の性質を変える術なんです。怪我をした細胞を元気にして怪我を治したり、水をお酒に変えたりもできるんですよ」

「そうなんだ? ミッチ婆もできるのかな? ミッチ婆になんで怪我を治せるのって聞いたらね、なんとなーくできるって言ってた」

森人エルフせいじゅつが得意ですから、そうなのかもしれませんね。先生も、本当はせいじゅつが一番得意なんですよ」


 もっとも──エレアの場合のそれは治癒などではなく、毒物の生成なのだが。

 せいじゅつに限らず、じゅつの命令を直接作用できるほど対象を理解しているということは、その生殺与奪の権利を常に握っていることに等しい。もちろん社会的な信頼からして、医師へのそのような不安は通常意識されることもないが、主治医が『死ね』と命ずれば、患者を死なせることもできる。暗殺の恐怖に怯える者がせいじゅつを拒絶し技術医療に頼り、かえって命を縮めたという逸話もこうではさほど珍しい話ではない。

 故にエレアは力の手段の一つとして、じゅつを……特にせいじゅつを修めた。今、こうして子供達に理論を教えることもできるほどに。

 貴族とはいえ母方の元を正せば娼婦の家系の娘が、これほどの若年でこう二十九官の限られた枠に名を連ねているのも、を遂げた第十七卿の後釜が彼女に回ってきたためである。

 自然界の心持たぬ獣の多くと異なり、人間ミニアは、雄より雌の方が暴力に劣る種族だ。

 それでも──自身が力を持たずともその姿で魅了すれば、力ある者を篭絡できる。判断を惑わせ、容易策略にめることができる。全てを為し終えた後も、背徳の自意識がある者達は、疑いの声を上げることすらできなくなる。

 美貌によって取り入り、内より腐らせる。それがあかせんのエレアの用いる力であった。


「──これで、授業はおしまいです。またこちらに立ち寄った時、続きを教えましょうね」

「うん! ……あのね、先生!」

「はいはい、なんです……ひぁっ!?」


 まったく突然にヤウィカの頭が胸に飛び込んできて、エレアは妙な悲鳴を上げてしまった。子供ならではの無遠慮さで乳房に顔を埋めながら、ヤウィカは笑う。


「えへへー……先生、好き! こうに帰っても、大好きだよー!」

「……ええ。ええ。先生も、ヤウィカさんのことが大好きですよ」

「おっぱいも大きくてすごい!」

「そっ、それは関係ないでしょう!」


 大月と小月の、二つの月が見える夜だった。エレアにとってのひと時の安らぎの、最後の夜。

 その後もエレアはヤウィカと少しの間話をして、そして少しだけ、自分がこの村に来た理由に思いを馳せた。ヤウィカには決して言えない理由に。



 帰りは一人だ。温泉の湧く浴場は村のほとんど端にあって、エレアが仮宿に戻るまでには物寂しい林道を行かねばならない。


人間ミニアって、こんなにお風呂が長いの?」


 声は樹上から聞こえた。エレアにとっては聞き慣れた少女の声である。


「ヤウィカ、のぼせてたよ。あの子、まだ小さいんだから。人間ミニアの長風呂に付き合わせないでくれる? 腹黒先生」

「──人のことを」


 眼鏡の奥の目を細めて、エレアは頭上の闇を見上げる。

 自然のものではない、奇怪な構造がそこに存在していた。

 何本かの細い植物のつるが、一切の支えなく、土に垂直に直立している。その頂点は人が座れるよう編み込まれていて、金髪の小さな少女が座っていた。


「そんな風に呼んではいけませんよ、キア。こんなところで何をしているんです?」

「こんなところじゃないでしょ。エレアが出てからお風呂に入ろうと思ってたのに、長いんだもの」

じゅつを使ってのぞするのもいけませんね」

「ばっ……いきなりバカにしないで! やらしい! 高いところのほうが、虫とか来なくて、休めるだけなの!」

「ふふ。もしかしてキアも、ヤウィカさんみたいに授業を受けたかったですか?」

「いや! 勉強なんて絶対いや! ヤウィカがへんてこなだけよ!」


 勉強好きなヤウィカとは正反対に、キアは一度としてじゅつの授業を真面目に受けたことはない。仮に記述の試験を与えたならば、このイータじゅかいどうの生徒達の中で、間違いなく最低点を取るだろう。

 エレアは、キアを支えている蔓を一瞥する。荷袋一つすら吊れぬか細いまきひげは、垂直に引き伸ばされて、全てが整然とした構造を保っている。綿糸をも鋼鉄の強度へと変え得る、生命をげるせいじゅつの極地。

 地面から生えたそれらの構造物が転倒の法則に反して少女を支え続けているのは、常時作用させているりきじゅつの、精妙なる制御の結果であろう。


「【先生の前まで、あたしを下ろして】」


 キアがじゅつを紡ぐと、蔓植物は滑らかに曲がり、先端に編まれた籠に座る彼女を地面へと下ろした。確かにこのようなことができるのならば、ただ木に登るよりも便利なのであろう──便利だ、という程度の理由で、このようなじゅつの複雑指令を持続し続けられるのならば。


「【戻って】」


 しかもその植物は時を逆回しするかのように折り畳まれて、キアの小さな掌の内へと収まった。

 そこには一粒の、小指大の種だけが残る。


「【返すわ】。ありがとう」


 彼女はその小さな種を暗闇の頭上に放った。それは不可思議な軌道を描いて、樹木に巻きついた草へと飛んだ。時期はずれに実っていた果実へと種は吸い込まれて、実は花へと戻り、そして蕾の兆しすら消えて、ただの茂る葉へと戻った。


「……キア。あなたのじゅつは、あまり自分勝手なことに使ってはいけませんよ。あなたの力は」

「人を幸せにするための才能だから、って言うんでしょ。バッカみたい。いっつもおんなじことばっかり」

「お願いですから、そろそろ先生の言うことを聞いてください。……あなたの力は、とても特別なんですから。普通と同じに使ってはつまらないでしょう?」

「ふん。楽しく暮らせてるなら、普通でいいじゃない」

「イータの外では普通じゃありませんよ。リチア新公国に立ち寄った後は、すぐにこうの学校に通うことになるんです。森人エルフだけじゃなくて、山人ドワーフ小人レプラコーンだっているんですから。キアのことを変に思ったり、悪口を言う人だっているかもしれません」

こうの学校にはそんなのもいるの?」



 じゅつは、四つの系統に分類され、種族や個体による得手不得手が存在する。

 じゅつは、その魂へと伝える言葉を紡ぐ特別な詠唱が必要となる。

 じゅつは、作用させる器物、人物、そして土地を理解した上で、意思の疎通を行う技術である。


 例外が存在する。ただ一人、キアのじゅつだけが、全ての原則に反している。



「……ええ。あなたは、こうに行くんですから。他の人にどう見られるかを考えなさい」

刊行シリーズ

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異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
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異修羅VII 決凍終極点の書影
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