一節 修羅異界

八.世界詞のキア ③

「別にあたし、誰にどんな悪口を言われたって、ぜーんぜん気にしないわ!」


 きゃしゃな陶器細工のような細い身体。柔らかに揺れる、白みを帯びた金の髪。少し吊り気味の、湖のように透き通ったへきがん

 けれど、それはごく普通の容姿だ。種族の誰もが美しい森人エルフの中にあっては。

 尋常の十四の森人エルフの少女と見比べたとき、彼女の特異性を証明するものはどこにも存在しない。

 例えば今、まるでただの子供と同じように、自慢げな笑顔を浮かべたりもする。



「もしもあたしが『死ね』って言えば……そんな奴ら、みんな死んじゃうんだから!」


 ──例外が存在する。

 彼女は天才の域すら超えた、魔才だ。



 出立の朝の空は、曇天に包まれていた。

 イータじゅかいどうは元より雨がちな土地で、一年を通して濃霧が人を阻む秘境だ。珍しい天候ではない。

 朝の血の巡りの悪さにいつもの如く悩まされながらも、エレアはでた麦の実と森山羊の乳のスープで、簡素な朝食を済ませた。

 文明から食文化まで異なるこの村を訪れた当初は、家事一つをとっても誰かの手を借りなければならないありさまだった。今ではほとんどを、彼女自身でできる。


(キアは、もう外に出ているのかな。……珍しい)


 彼女の専属教師となってからの小二ヶ月は、この家でキアとともに暮らしている。朝に弱い点では、二人はあきれるほど似ていた。


(まったく、今日は出発の日なのに──)


 心中でぼやきながら、エレアは家を出る。そのすぐ前の広場に三人の子供達がいた。


「あ! 先生ーっ!」

「おはよう? こんな時間まで寝てるなんて、大人の自覚が足りないんじゃない?」

「先生……ど、どうも……」


 エレアはすぐさま姿勢を正して、朝の気怠げな表情を、一瞬で完璧な微笑みへと変えてみせる。

 この村での彼女は優しく美しい、完璧な家庭教師だ。少なくとも、キア以外の子供に対しては。


「おはようございます。ヤウィカさん、シエンさん。……キアは、あまり人の悪口ばかりを言ってはいけませんよ」

「えとね、今日で先生が行っちゃうから、シエンも来たいっていうから、あいさつしに来たのー!」

「いえ……ぼ、僕は……その……」

「ふふ。そうなんですか? 先生も、シエンさんが来てくれて嬉しいです」

「……は、はい……」


 シエンはこの中では最も年長の少年だが、怯えたうさぎのようにキアの背中に隠れている。

 彼の想いなどエレアは当然に察しているので、時には敢えて何も知らない風にからかってみせることもあった。


「せっかくお別れに来てくれてるのに、起きてこないなんて。ヤウィカも退屈だったわよね?」

「んーん! キアが遊んでくれたもん! こうも、つめたくておいしかったー!」

「あっ、あんたみたいな子供と遊ぶわけないでしょ! 余計なこと言わないでいいから! ほらもう、まだ口の周りについてるじゃないの……! 拭かないと」

「ふにゃっ」


 エレアは、広場を流れる清流の中から伸びた細い紅果の木を見る。キアがじゅつで成長させて、ヤウィカに食べさせてあげていたのだろう。

 ──キアは、まるで全能に等しい。あまりにも絶大なじゅつを行使する才能を与えられている。

 それはこの秘境の村の中では、こうして紅果を実らせたり、火や光で年少の子供達を楽しませる程度のものだ。敵も競争もない小さな世界では、それ以上の力を振るう意味などないからだ。


「せ……先生! キアはこんなですけど……! 村の子供も、大人達も、先生には……その、感謝してて……」

「そうなんですか? シエンさんは、どうでしたか?」

「わっ、僕も……! す、すごく、感謝してます。先生が来るまで、僕は雲がどこから来るかさえ分かってなかった……! 先生が教えてくれたおかげで、み、皆、賢くなったんです。本当です」


 シエンはおずおずと前に出て、エレアの瞳を見た。


「……もしもそうなら、それは先生にとって、一番、嬉しいことです。一度だけ、授業で言ったことがありましたね? とは種のようなもの──」

「学びの水を絶やさぬならば、それは自ら育つ。けれどその種を最初にいてくれたのは、先生……エ、エレア先生なんです。僕達はその、何のお礼も返せてないのに、迷惑かけてばかりで……」


 その頭を、エレアは慈しむように撫でた。そして強く抱きしめた。

 胸の中で、シエンの小動物のような悲鳴が小さく上がった。


「お礼なんて。可愛い教え子ができた以上に嬉しいことなんて、ありませんよ。ね、ヤウィカさん」

「ん! 先生大好き!」

「本っ当に白々しいわ……。こういうのが悪い大人なのよ。父さんも母さんも、口先でだまされちゃって。ほらヤウィカも! いつまでもデレデレ甘えないの!」

「キ……キアはこうに勉強に行くのが嫌なだけじゃないか……。うらやましいよ」

「勉強なんて、好きな子のほうがへんてこなの!」

「もう……ふふ。キアさんはいつも素直じゃないんですからね?」


 エレアは、教師ではない。

 こう二十九官の一人、第十七卿である。──この村の森人エルフ達は、誰もそれを知らない。

 奔放な振る舞いで両親も手を焼いていたキアにも献身的に接し、専属教師としてこうへの留学の話を取りつけた。その行動には明確な目的がある。


(キアなら、勝てる)


 キアは、まるで全能に等しい。まだ二つ目の名もない年にして、あまりにも絶大なじゅつの権能を与えられている。それは、このような……誰にも知られぬ秘境の中で、ただの便利な程度の術として、ひそかに朽ちていくべき才能だろうか。

 敵も競争もない小さな世界では、それ以上の力を振るう意味などない。

 ──ならば他の何者かが、その意味を与えてやることができたとしたら?


 キアが戦えば、ねつじゅつで風を熱し、炎を浴びせる必要すらない。彼女は敵を直接的に発火できる。

 優れたこうじゅつの使い手は、大地を刃に変えて敵を切断できるだろう。キアには無用の術だ。敵の形状自体を、即座に、如何ようにも加工できるからだ。

〝勇者〟を決定する上覧試合に……今はまだ誰も知らぬ、机上理論ですら想定不可能の、圧倒的に無敵の存在が忽然と現れたとすれば。他の擁立者達は、果たしてどのような顔をするだろうか。


(誰が相手だろうと、〝かい〟は勝つ。第二将ロスクレイすら……力で上回ることができる)


 あかせんのエレアが求めるものは、力だ。こうの政治中枢の座を手に入れた今でもなお、二十九名の中の替えの効く一人としてではない、誰にも脅かされず、誰にもその生まれを蔑まれることのない、絶対の権力が欲しかった。

 果てしない労力も、な信頼も、それと引き換えにしてしまって構わない。


「ね、ね! キア! いつものとこ行こ! しばらくお別れだもん!」

「ええー……いいわよ、あんなとこ見に行かなくたって……大したもんじゃないし……」


 ヤウィカは、今度はキアに甘えてしがみついている。子供らしい、有り余る活力であった。


「僕、初めて聞いたな……どこのこと?」

「先生も気になります。キアさんのお気に入りの場所なんですか?」

「ばっ……あたしじゃない、ヤウィカが好きなの! あたしはついてってあげただけよ!」

「つれてってー!」


 キアは少なくとも表面上、迷惑そうな素振りをした。

 ヤウィカもそれを真に受けたりはしない。キアは口が悪く成績も良くない少女だったが、この村の森人エルフなら、皆が彼女のことを知っていた。


「もう……! 腹黒先生はついてこなくていいから! 大したとこじゃないし!」

「はいはい。……とか言いつつ、ついていっちゃったりして」

「本当にいいから!」


 子供達とともに、彼女は歩みを進める。

 森と川、そして山の起伏に入り組んだ、イータじゅかいどう

 この村にまだエレアの踏み入ったことのない道があるのなら、それを知りたかった。

 今日の昼にはもう、ここを発ってしまうのだから。



「……あの坂、茂みの中に道があったんだ」

「ん! 坂の向こう側にね、村のやぐらの、てっぺんがちょっと見えるとこで、抜けられるの」

「きっと森人エルフの道に隣り合う形で、獣道が通っていたんでしょうね。この道は、いのししや鹿が使っているかもしれませんよ」

「……別に猪くらいなら、僕はりきじゅつで追い払えますから」

「シエンはすごいね!」

「あたしなんて群れごと全部、あの一番高い樹のてっぺんに引っ掛けてやるわ!」

「キアもすごいなー!」

「もう、先生を置いてかないでくださいねー?」

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影