一節 修羅異界

八.世界詞のキア ④

 キアが導く道は、エレアの身長がくぐけるには狭くて、葉や枝がいくつもがいとうに引っかかった。

 木のアーチを潜るたびに、両の指先が土についた。

 こうにいる時には、決してしなかったようなことだった。陰謀の中で誰よりも身の繕いと振る舞いに砕身してきた第十七卿は、この村でだけは、時に子供のような行いをした。

 彼女自身が一度も通り過ぎたことのなかった幼き日々を、いつも教え子達に教えられていた。


 ──そして。


(……十分だ。縦列に並べば、人間ミニアの成人でも、問題なく進行できる。方向からして、第四の山の中腹辺りに出る。村の人間には知られない道。十分な有用性)


 エレアはいつでもそれを考えている。

 この村にまだエレアの踏み入ったことのない道があるのなら、それを知りたかった。

 収穫祭では大人達の火の舞いを教え子達と並んで見て、その熱と美しさに、驚嘆の溜息を漏らしていた。その一方で、その舞いの準備のためにどれだけの期間男達が村を離れるのか、その間の防衛体制がどうであるのかを記録していた。

 この森で見られる植物の用途を教えようとして、既に森人エルフの全員が知っていたことに恥をかいたりもした。その夜には、傷を癒やす薬草、行軍の糧食となる山菜を新しく整理してつづり、鳥に乗せてこうへと送っていた。

 濃霧が人を阻むこの秘境を、小六ヶ月をかけてエレアは調査していた。


(この村は平和だ。侵攻を警戒していない。恐らく、一小隊を派兵するだけで十分だろう)


 いずれこうの軍が、この豊かな村の何もかもを接収するだろう。

 それは〝本物の魔王〟によって傷つき疲弊した人間ミニアの国を再生させる礎となる。

 キアという希少な異才は、エレアの擁する勇者に。残る村の全ても国家のための資源に。

〝本物の魔王〟の時代に噂として流れた〝全能のじゅつを使う者〟の村の位置をかつて捕らえた新公国の兵から知った。その時にこの村は、知られざる秘境ではなくなったのだ。

 その兵も既にこの世にはいない。他にエレアと〝かい〟との繫がりを知り得る僅かな者さえ始末すれば、キアの力を警戒できる者は皆無になる。

 ──美貌によって取り入り、内より腐らせる。

 彼女の諜報を前に、全ては容易たやすく落ちる。二つ目の名は、炎と血とを招き入れる、あかせんのエレア。


「……ほら、ついたわよ! 先生!」


 顔を上げる。エレアの予想した通りに、そこは深い谷に臨む、一つの山の中腹のようであった。


「えへー、つかれたね! 先生もつかれてる?」

「え、ええ……。大丈夫です。本当に、ここが?」


 少しの疲労感に息を吐き、エレアは顔を上げて光景を見た。


 特段、何の感慨もない。

 遠くの山が雲に陰って、霧で輪郭のぼやけた、どこか曖昧なだけの景色に見えた。


「まあ……うん。ほら! ぜーんぜん大したことないでしょ! だから、別にいいって言ったの! この村の最後の思い出がこれなんて、なんだかえないじゃない!」


 岩に座り込んだキアも、少しばつが悪そうに笑った。

 誰にも秘密だった場所。子供達は皆、エレアを大事な仲間の一人として扱ってくれていたことが、エレアにもよく分かった。

 ……ふと、シエンが口を開く。


「……曇っているのが駄目なんじゃないの? そんなの、キアが晴らせばいいじゃないか」

「ああーっ! そうだね! キアがいてよかった!」

「……? 晴らすって、どういうことですか?」

「もう、やめてよ。二人とも簡単に言っちゃってさあ……」


 キアはうんざりしたように、崖の向こうに視線をやった。

 金色の毛先を少しだけ指先でいじって、そしてやはりばつが悪そうに、エレアを見た。


「……別に、ムキになってるわけじゃないから。先生」


 そして不機嫌に命じた。



「【晴れて】」



 神秘を帯びた彼女の囁きは音の言葉の限界を越えて、遠く空の彼方まで響いた。

 海から波が引くように。

 空を塞ぐ分厚い雲の層が、一斉にキア達の手前へと流れて引いていった。

 風一つなく、時を早回しにしたような奇跡の光景の只中で、エレアは過ぎ去っていく灰色の雲を見た。

 それは彼女の立つ世界ごと全てが、雲を置き去りにして、遥か彼方の前方へ運ばれていくようで。


「……ああ」


 無敵だ。これは、無敵の力だ。

 きっと、どんな相手が立ち塞がろうと、キアは勝っていくだろう。その事だけが分かっていれば、エレアには十分なはずだった。


 露わになった朝の光が地平を横切って、あおく輝いた。

 遠くの霧に霞む山々の輪郭が、その眩い光の透過に、鮮明に浮き上がっていく。

 深い霧に隠されていた、広大な湖が谷底に広がっていた。

 そこには天地を逆映しにした、美しい光景のすべてがあった。


 イータじゅかいどう。彼女が暮らした。彼女達のいた、優しく暖かな日々のすべて。


「ほら、別に。ぜんっぜん、大した景色なんかじゃないんだから──」



 美しさを手段に変えて、もう二度と蔑まれることのないように、ひたすらに力を手にしてきた。

 今ここで与えられた美しさも、何もかも、彼女にとっての手段に過ぎない。

 あかせんのエレアは、その在り方を決して恥じたりはしない。


「ね、大丈夫? 先生、泣いてるの?」

「……? どうかしましたか?」

「先生、泣いてる」


 袖を引くヤウィカが、そんな奇妙なことを言う。

 エレアは微笑もうとした。


「泣いてませんよ」


 彼女達に表情を向けることができない。ただその光景から目が離せないまま、立ち尽くしているだけだった。

 森人エルフの村で過ごした、最後の朝だった。


 そうだ。そんなはずはない。

 エレアはいつだって、美しくて優しい、完璧な教師だったのだから。


「……先生、泣いてませんから」




 それは全ての防御と過程を無視して、あらゆる存在を捻じ曲げる力を持つ。

 それは天候や地形までも一語の下に支配する、自然を凌駕する権能を奮う。

 それは万物の予測の外にある特異点であって、一切の解析と予測も拒絶する。

 現時点において限界すら計測されていない、全能の魔才である。


 詞術士ウィザード森人エルフ


 かいのキア。

刊行シリーズ

異修羅X 殉教徒孤行の書影
異修羅IX 凶夭増殖巣の書影
異修羅VIII 乱群外道剣の書影
異修羅VII 決凍終極点の書影
異修羅VI 栄光簒奪者の書影
異修羅V 潜在異形種の書影
異修羅IV 光陰英雄刑の書影
異修羅III 絶息無声禍の書影
異修羅II 殺界微塵嵐の書影
異修羅I 新魔王戦争の書影