一節 修羅異界
八.世界詞のキア ④
キアが導く道は、エレアの身長が
木のアーチを潜るたびに、両の指先が土についた。
彼女自身が一度も通り過ぎたことのなかった幼き日々を、いつも教え子達に教えられていた。
──そして。
(……十分だ。縦列に並べば、
エレアはいつでもそれを考えている。
この村にまだエレアの踏み入ったことのない道があるのなら、それを知りたかった。
収穫祭では大人達の火の舞いを教え子達と並んで見て、その熱と美しさに、驚嘆の溜息を漏らしていた。その一方で、その舞いの準備のためにどれだけの期間男達が村を離れるのか、その間の防衛体制がどうであるのかを記録していた。
この森で見られる植物の用途を教えようとして、既に
濃霧が人を阻むこの秘境を、小六ヶ月をかけてエレアは調査していた。
(この村は平和だ。侵攻を警戒していない。恐らく、一小隊を派兵するだけで十分だろう)
いずれ
それは〝本物の魔王〟によって傷つき疲弊した
キアという希少な異才は、エレアの擁する勇者に。残る村の全ても国家のための資源に。
〝本物の魔王〟の時代に噂として流れた〝全能の
その兵も既にこの世にはいない。他にエレアと〝
──美貌によって取り入り、内より腐らせる。
彼女の諜報を前に、全ては
「……ほら、ついたわよ! 先生!」
顔を上げる。エレアの予想した通りに、そこは深い谷に臨む、一つの山の中腹のようであった。
「えへー、つかれたね! 先生もつかれてる?」
「え、ええ……。大丈夫です。本当に、ここが?」
少しの疲労感に息を吐き、エレアは顔を上げて光景を見た。
特段、何の感慨もない。
遠くの山が雲に陰って、霧で輪郭のぼやけた、どこか曖昧なだけの景色に見えた。
「まあ……うん。ほら! ぜーんぜん大したことないでしょ! だから、別にいいって言ったの! この村の最後の思い出がこれなんて、なんだか
岩に座り込んだキアも、少しばつが悪そうに笑った。
誰にも秘密だった場所。子供達は皆、エレアを大事な仲間の一人として扱ってくれていたことが、エレアにもよく分かった。
……ふと、シエンが口を開く。
「……曇っているのが駄目なんじゃないの? そんなの、キアが晴らせばいいじゃないか」
「ああーっ! そうだね! キアがいてよかった!」
「……? 晴らすって、どういうことですか?」
「もう、やめてよ。二人とも簡単に言っちゃってさあ……」
キアはうんざりしたように、崖の向こうに視線をやった。
金色の毛先を少しだけ指先でいじって、そしてやはりばつが悪そうに、エレアを見た。
「……別に、ムキになってるわけじゃないから。先生」
そして不機嫌に命じた。
「【晴れて】」
神秘を帯びた彼女の囁きは音の言葉の限界を越えて、遠く空の彼方まで響いた。
海から波が引くように。
空を塞ぐ分厚い雲の層が、一斉にキア達の手前へと流れて引いていった。
風一つなく、時を早回しにしたような奇跡の光景の只中で、エレアは過ぎ去っていく灰色の雲を見た。
それは彼女の立つ世界ごと全てが、雲を置き去りにして、遥か彼方の前方へ運ばれていくようで。
「……ああ」
無敵だ。これは、無敵の力だ。
きっと、どんな相手が立ち塞がろうと、キアは勝っていくだろう。その事だけが分かっていれば、エレアには十分なはずだった。
露わになった朝の光が地平を横切って、
遠くの霧に霞む山々の輪郭が、その眩い光の透過に、鮮明に浮き上がっていく。
深い霧に隠されていた、広大な湖が谷底に広がっていた。
そこには天地を逆映しにした、美しい光景のすべてがあった。
イータ
「ほら、別に。ぜんっぜん、大した景色なんかじゃないんだから──」
美しさを手段に変えて、もう二度と蔑まれることのないように、ひたすらに力を手にしてきた。
今ここで与えられた美しさも、何もかも、彼女にとっての手段に過ぎない。
「ね、大丈夫? 先生、泣いてるの?」
「……? どうかしましたか?」
「先生、泣いてる」
袖を引くヤウィカが、そんな奇妙なことを言う。
エレアは微笑もうとした。
「泣いてませんよ」
彼女達に表情を向けることができない。ただその光景から目が離せないまま、立ち尽くしているだけだった。
そうだ。そんなはずはない。
エレアはいつだって、美しくて優しい、完璧な教師だったのだから。
「……先生、泣いてませんから」
それは全ての防御と過程を無視して、あらゆる存在を捻じ曲げる力を持つ。
それは天候や地形までも一語の下に支配する、自然を凌駕する権能を奮う。
それは万物の予測の外にある特異点であって、一切の解析と予測も拒絶する。
現時点において限界すら計測されていない、全能の魔才である。



